MinMin's Diary
6月23日
芥川賞作家の柳美里氏に対する訴えが全面的に勝訴になったようですね。
彼女はこの判決を私小説に対する脅威になると言っていましたが、果たしてそうでしょうか。
私小説を書くというのは周囲にいる人を丸剥きにしてしまうことでしょうか。
柳美里氏の手法は自らの家族など周辺の人をモデルに人間関係を描くといったものかと思います。
それにしても、フィクションが詰まっているにしても、あからさまにモデルが解るというのもなんだかなぁと思います。私小説というスタイルだからといって、特定のモデルがすぐに解るってのもねぇ。
私小説という形を取り、ある人物を描写しても、そこに普遍性を持たせられるだけの技量がほしい。
今回の場合は身体的に特殊な障害をもつ人を描いたこと、バックグラウンドが特定できることなどでモデルがもろに限定されてしまったのですよね。
実在の人物をモデルにするにあたり、非常に気をつけることは、限定されるならばされるにしても、それが本人の許す範囲のものであるといった点ではないでしょうか。
同じ在日韓国人というバックグラウンドを持つ原告の女性に柳美里氏が偏見を持っていたり、傷付けようという意図がなかったのは理解できます。むしろ逆で尊敬すらしていたのではないでしょうか。
しかし、時に、その尊敬の源である部分が他人には知られたくないものだとしたら、別の部分で尊敬している気持を描くことは文才豊かな彼女ならば可能でしょう。同じ材料を並べなければ描けないような貧相なイマジネーションではないはずです。
何もエイズ患者をエイズとして描く必要はないと思います。偏見を持たれ、痛みと苦しみに苛まれる病は他にもあるでしょう。
私小説は暴露記事とは違います。
いやしくも「小説家」であるならば「ノンフィクション作家」である必要はないのです。
フィクションが含まれているならば、相手のどういった部分を描きたいかが大事なのであり、ありのままを書く必要はありません。
相手のプライバシーを危うくするような表記を極力避けることはできるでしょう。
それを怠った柳美里氏に下った判決は私自身は妥当なものだと思います。
自分が表現したいものが明確であるならば、それを描けばいいのです。
たとえ私小説であっても相手のプライバシーが特定できるような記述は避けるべきだと思います。
それが出来るのがフィクションを描くのを生業とした小説家の特権なのです。
他人の傷みを知るものであれば、その傷みを別の形で昇華することができるはずでしょう。
それが出来ないなら、私小説作家などではなく、単に暴露趣味の物書きです。
柳美里氏が私小説作家なのか、暴露趣味の物書きなのか。
これは今後の彼女の作品が証明してくれるでしょう。
この問題でもうひとつ思ったことは「うち」の意識です。
身内に対して感覚の甘い人が陥った過ちといった感覚があります。
変な言い方をすれば「飼い犬に手を噛まれた」...。
日本人も韓国人も「うち」の意識が強いです。
韓国人の「ウリ」という言葉を聞いていると、その身内意識の強さを感じます。
他人の国に住んでいると、その身内意識が家族ではない人達に対しても働きます。
台湾に住んでいる日本人が「同じ日本人じゃないか」と甘えてくることもあります。
柳美里氏がこの女性に対して行ったのも「身内」に対する感覚じゃないのかなと考えてしまいました。
身内として尊敬している女性のことを描くのに、これくらいのことは許されようという考えがどこかにあったのではないでしょうか。
台湾でも「我們台湾人」という言い方をします。
身内意識でくくる言い方って結構ありますよね。
留学してきたドイツ人に「うちって家のことじゃないんですか?みんなourという意味で使うんですが」と質問されたこともあります。
自分は自分という意識が強い欧米人には不思議な感じがするかもしれません。
自分以外は他者であるという認識のもとに生まれ育った人と、「うち」と「よそ」があって、「うち」の範囲内では比較的緩い規則で縛られ、甘えていられるといった認識で育った人では、まったくプライバシーに対する考え方が違うでしょう。
柳美里氏はそういった意味では非常に東アジア的価値観に基づいて生きている人なんだなと思いました。家族にこだわるのも「うち」にこだわっていることの証かもしれません。
ところで、私はこの「うち」という感覚が好きではありません。
「うち」といった感覚が愛国心を育むと主張する人もいるようですが、それは排他主義につながるだけでしょう。しっかりした価値観を持つ「個」であれば、「個」と「国」の間に交わされた契約のようなもので愛国心は芽生えるはずです。
全ての人が「個」と「個」として対等に付き合い、尊重しあえたら、こんな不用意な事件も起きないような気もするのですがね。
ま、私自身としては人権の云々を主張する大江健三郎氏にしても、私小説の危機を訴える柳美里氏にしても大事なことを忘れてないかと思う次第です。
もちろん人権も大事ですが、創造という才能を活かして仕事をする小説家がその努力を怠ったことが問題なんだと思うわけです。
暑いですね〜(^^;
我が家を我が物顔で闊歩している?のがショウジョウバエ(^^;
まったくしぶとい。
こいつらの生命力にはあきれます。
いよいよ明日で6月も終わり。
なんだか半年があっという間に過ぎてしまいました。
最近は精神面でも結構いい調子なんですが、びっくりするような話を聞きました。
台湾女性が書いた本で「台湾人と日本人」(謝雅梅著・総合法令)という本があります。
その本の中にこのような見出しがありました。
「復讐成功?日本人女性との結婚」
その部分をちょっと引用します。
大学院生のころ、留学生の間ではこんなジョークが交わされていました。台湾人男性が日本人女性を妻としてもらう場合、友達からお祝いとして、しばしば「恭喜、報仇成功」(おめでとう、復讐成功)という言葉をかけられるのです。身内になってしまえば思いのままという単なるジョークなのですが、ここにも反日教育の効果が発揮されているようです。(pp247-248)
書いた御本人にしてみれば内輪の冗談を披露したにすぎないのかもしれません。
しかし、読者の中には台湾人の夫を持つ日本女性もおりますし、また、娘をこれから台湾人男性に嫁がせる日本人の御両親もいることでしょう。
そういうことを心配している友人もいました。
実際にこういったことがあるのかどうか、日本に留学していた友人達に聞いてみたところ、「日本政府に対して言いたいことはあるが、日本人個人に対してはない」という言葉、「自分の結婚を報復に使うような人はいません」という言葉が返ってきました。そして友人達は「そんな言葉は初めて聞いた」と言っていました。
更に、この「おめでとう、復讐成功」という言葉を単純に「反日教育の効果が発揮されている」と解釈していいものかとも思います。
台湾では今でも「日本人の嫁」という言葉に特別な思い入れを持っている人が多いようです。
蝶々夫人やらミスサイゴンといったイメージで西欧で受け止められているアジア女性の中でも、特に日本女性は大和撫子幻想によってイメージの独り歩きがあるようです。
台湾でも「日本人女性」という言葉には嫌になるくらい勝手なイメージがつきまとっていて、私など「あんたは日本人じゃない」とまで言われました!!!
私のパスポートと国籍を見ておくれ。
それじゃ私はどこの人間だい?
そんな思いをしたからこそ言うのですが、日本女性を嫁にもらう台湾人男性に対して周囲には羨望とも嫉妬ともつかない感情を持つ人が登場します。
考えれば国籍と結婚するわけじゃないのですから、相手がどこの国の人だろうと関係ないのに、自分達で勝手に「日本女性は大和撫子」と思い込み、なんだかいいものを手に入れたように思い込み、周囲は周囲でそれに嫉妬し、悔し紛れにそんなことを言っている...。そのように程度の低いジョークに過ぎないような気がします。
これが反日教育の効果だというなら、台湾の反日教育は随分と程度の低いものなのでしょう。
こういうジョークを言う人は程度が低いと思います。
ましてや、この言葉を本気で言っているなら程度が低いどころか、思索する力に問題ありでしょう。
「日本」というひとつの国家が為したことを、たった一人の日本人である女性に対して責任を取らせようというのなら、それは大きな間違いです。そんなことに気付かないで何が大学院生です。何が留日です。
著者にしてみれば何気なく書き綴った一文だったかと思います。
しかし、これを見て憂える人がいたのは事実です。
私はというと、彼女が何気なく書いた一文のために、台湾から日本の大学院に留学して来た人のレベルがこんなに低いと思われやしないか心配になる次第であります。
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