彼女は、ふと目を覚まし、ぼんやりと隣にいる者を確かめるように手を伸ばした。
しかし、その姿は既になく、ただ温もりだけが残っていた。
彼女は急いで身を起こし、寝台の足元に落ちていた夜着を素肌の上に羽織った。
そして、部屋の中を見回す。
太守の私室とはいえ、華美な調度品はなく、落ち着いた色に揃えられたものが、必要最小限に調えられた 部屋。寝台のわきのテーブルに置かれた古代魔法王国期のランプが淡い光を放つ。
薄暗い部屋の中、バルコニーへと通じる窓が開いているのが見えた。白いカーテンがかすかな風を受け、 はためいている。
彼女は寝台からおり、素足のまま、バルコニーへと向かった。
この城は湖畔に立つためか、夏とはいえ、夜ともなれば涼しい風が流れてくる。
月明かりをうけ、彼女の髪は銀の粉を降らせたように輝く。
開け放たれた窓から外に出ると、バルコニーに立つ人影は彼女の方を振り向いた。
月を背にして立っているので、顔が影に隠されている。
「ピロテース…」
彼は、その名を呼んだ。
ピロテースの銀髪とは対照的な漆黒の髪。
夜風を受け、その長身の背を緩やかに流れている。
月は南天を過ぎた頃である。満月に近い上弦の月が二人の影をそっと落とす。
ピロテースは、その名を呼んだ人影の二、三歩手前で足を止めた。
白竜山脈の雪のように透き通った白い肌。いつもは黒い軍服に隠されているが、今は白い夜着を纏うのみ。
暗黒騎士団の将軍にしてカノン太守。
それが、今のアシュラムの肩書きである。
太守は、口元に微笑を浮かべ、彼女の長い髪を一房とった。それを口元に寄せ、いとおしげに口付けると、 風に流した。
「どうかされましたか?」
彼女は、その顔を伺うように声をかけた。
「夏とはいえ、夜風に長くあたると体にさわります。どうか、お戻り下さい。」
臣下の礼をとり、部屋へ促すようにその手をとった。
恐らくは、半刻程たっているのであろう。少し冷たい指先だった。
その時、不意に抱き寄せられた。
「あ…」
いきなりのことで、ピロテースは慌てた。
「…そうだな、少し冷えてきた。」
アシュラムは、抱きすくめた彼女の耳元で、少しからかう様な口調で低く囁くように呟いた。
彼女は抵抗せず、そのまま胸元に体を預けた。
この腕は自分一人のものではない。
そう、心で理解しているが、身体は今だけでもそれを独占したいと思っている。
自分にこんな感情があることに気づかなかった。
彼の腕は、優しく自分を包んでくれる。
自分を必要としてくれる。
それだけが、自分の存在理由。
夜着を通して感じる温もりに、彼女は目を閉じた。
「…戻るか。」
太守は、そう言いながら、彼女の細い身体を抱え上げた。肩から滑り落ちた銀髪が風に流れる。
そのまま、開け放したままの窓へと足を向けた。
「あ、歩けます。」
何を口走っているのだろう、と自分で思いながら、ピロテースは足をちょっとばたつかせて抵抗した。
しかし、すぐにその肩に頭を預け、しなやかな腕を彼の首に回した。
冷たく冴えた白皙の横顔。
その仮面の下に隠された感情を知っている。
そして、ただ一人のためにその命も運命も捧げた事を。
すでに亡くなった者への嫉妬だと分かっているが、一度生まれたその感情は、今も自分の中に燻り続けて いる。
自分は決してその人の代わりにはなれない。
永遠に。
それを知ってもなお、自分はこの男に惹かれているのだと気づいた時、どうしようもない焦燥にかられた こともあった。
定命であるがゆえに持つ命の輝き。
闇の中にあってなお輝きを失わない瞳。
ただ、それを見届けたい。
それが自分の願い。
「…気分でも悪いのか?」
気づくと、寝台の上だった。
しがみ付くような格好だったことを思い出し、赤面しながら身を離した。
「何でもありません。」
そうして艶然と微笑み返す。
寝台が、かすかな軋みをたてる。
白い指が、彼女の頬に触れた。浅黒い肌が微かに上気し、淡く染まる。
長い髪がさらりと音を立て、白い敷布の上に落ちた。
「…お前の傍はよく眠れる。」
そう呟きながらアシュラムは、軽く微笑みかけ、彼女の銀髪を後ろへと流した。
そのまま細い腕を手に取り、指先をそっと口元に寄せた。
優しく啄ばむように。
ピロテースは、一瞬、身を強ばらせたが、すぐに柔らかな笑みを見せた。
「私は、ずっとそばにいます。」
…この命が続く限りは。
聞こえない程、小さい声で付け加えた。
窓から差し込む月明りが静かに照らす。
彼女はゆっくりと目を閉じた。
耳を澄ませば、傍らに眠る者の規則正しい呼吸が聞こえる。
その鼓動も。
ただ、それだけで十分だと、思った。
自分は、永遠を誓ったのだ。