『その歌を歌ってはいけない』

――その歌を歌ってはいけないよ。お母さんを起こしてしまうからね。――

「歌が歌いたい」
 ベッドの祖父が突然そうつぶやいたので、西園寺留奈(さいおんじるな)は驚いた。祖父と音楽というと、たまにクラッシックのレコード――祖父のオーディオ・ルームには、まだCDの時代は到来してない。これからも来ないだろう――を聴くくらい。特別、歌の好きな人ではない。
 だから、それがまるで"最後の望み"のように感じて、留奈はことさら明るく答えた。
「何の歌?」
「……『野ばら』」
 そう答える声の、なんて弱々しくなったことか。越えられるか何度も不安になったあの暑い夏が過ぎて、ようやっと小康状態になったのに。やっぱり、今度が最後の帰宅になってしまうのだろうか。
 窓の外では、今年最後のひぐらしが鳴いている。祖父の家は古く、敷地もたっぷりしていて庭も広い。隣は西園寺家の菩提寺でもあるお寺、という立地条件も手伝って、東京とは思えないほどの緑濃い静かな環境だった。
「『野ばら』? シューベルトの? 『Sah ein Knab ein Roeslein stehn……』っていうやつ?」
 最初の小節を原詩のドイツ語で歌ってみせた留奈に祖父が微笑む。
「そう。おじいちゃんは日本語でしか歌えないけどね」
「学校の音楽の時間にやったのよ。ドイツ語なんて、これしか知らないよ」
 留奈がニヤリと笑う。女子高生にニヤリはどうかと思うが。
「おじいちゃんの好きな歌?」
「おじいちゃんのお母さんが好きだった。おじいちゃんが小学校に上がってすぐ亡くなったけれど」
 祖父は肉親の縁の薄い人だった。母親を幼い頃に亡くし、父親も成人する前に亡くしたそうだ。妻は娘を産んですぐ亡くなり、その娘(留奈の母だ)は、留奈が3つの頃亡くなった。言い換えてみれば、留奈もそれなりに肉親の縁が薄いのかもしれない。そのせいか、祖父にはずいぶんかわいがってもらったと思う。
「ピアノでよく弾いていたよ。だから、覚えていないくらい昔にメロディを覚えた。歌詞は後から覚えて、プレゼントがわりにお母さんの誕生日に初めて歌ったな。ものすごく喜んでくれたのをよく覚えてる。だから、記念日ごとに歌ってあげて……。でも、やっぱり誕生日が一番の晴れがましい席だった」
 祖父はベッドに横になって天井を見上げて話をしていたけれど、留奈にはわかった。今、祖父が見ているのは、50年以上昔の母親の顔なのだ。
「どんな人だった? 私のひいおばあちゃん」
「優しい人だったよ。おじいちゃんのお父さんはエンジニアだったからね。仕事が忙しくて、お母さんと二人の時が多かった。エンジニアの生活はどんなものか、留奈も知ってるだろう?」
 留奈の父はエンジニアだ。仕事で忙しく、仕事が泊まりこみになることさえよくある。小さい頃に母親がなくなってるから、留奈はほとんどお手伝いさんと祖父に育てられたようなものだ。
「あんなに早く亡くなるとは思わなかったから……。思えば、最後まで父という人をよくしらないままだったなあ。いつも一緒だったことを除いても、お母さんっ子だったな。亡くなったときは、何回説明されても納得できなかった。『お母さんはいつ帰ってくるの』と、訊いて父を困らせたものだよ」
 留奈にも似たような記憶がある。
「でも、どうして歌わないの? 『野ばら』」
「お母さんが死んだ時、父に止められたんだ。ある日、突然病室みたいなところに連れて行かれてそこのベッドにお母さんが寝ていた。おじいちゃんが入ると顔をこちらに向けて、笑ったように見えた。腕をこちらにのばして……それきり動かなくなった」
 ポツポツと語る。50年以上たつのに、まだ悲しいのかもしれない。
「頬にさわると、硬くて冷たいんだ。たぶん、その日はお母さんの誕生日だったと思う。、歌わなきゃ、最後にお母さんに聞いてもらわなきゃ、と思ったから。そうしたら」
「そうしたら?」
「止められた。穏やかな父が口を押さえて羽交い締めにせんばかりでね。でも、次の瞬間、おじいちゃん、わんわん泣き出してしまってね。泣いて泣いて、歌うどころじゃなかった。過呼吸になったくらいだ」
 それ以来、50年以上『野ばら』は歌ってないと祖父は言う。
「歌おうよ」
と、留奈は言った。祖父は軽くうなずいた。
「思い残すことは少ない方がいいだろう」
 そうしてかすれる声で音階を取り始めた。
「『童は見たり、野中の薔薇。清らに咲けるその色愛でつ……』」
 祖父は最後まで歌い終わると、もう一度最初から歌った。だから、その音に気がついたのは、ずいぶん後になってからだったと思う。
 何かを引きずるような音だった。それが廊下から聞こえてくる。留奈の家の廊下は年代を経たフローリングだから、廊下は音をよく伝える。重い音がどんどん近づいてくるような……。がっ、ずずず。ががが、ずずずず……。
 留奈の様子に気がついて、祖父は歌うのをやめた。その頃には、音は部屋のドアのすぐそばまで来ているようだった。
 がり。がりがり。
 ドアを引っかくか、叩くか、よくわからない音。
「……その歌を……」
 祖父の声に、ドアを向いていた留奈は振り向いた。振り向いたそこには、妙に視点のぼんやりした祖父の顔があった。
「その歌を歌ってはいけないよ、と、父は止めたんだ」
 かちり。ドアノブが回る。
「『お母さんを起してしまうからね』……」
 古いが手入れのいいマホガニーのドアは、開くとき音をたてない。薄くゆっくりドアが開いて。
 留奈は、その時間がひどく長いものに感じた。
 そこには――そこにいたものは……。ぞろりとした黒い髪。ひびわれたような変色した肌。まとっている布切れは元はちゃんとした着物だったのだろうが、やはり変色して黴てボロキレでしかなかった。棒のような腕の先にある手の指は、何本か欠けている。手は泥だらけだった。体のあちこちにも泥で汚れていた。
 そして下半身は――下半身は、なかった。
 「それ」は、指の欠けた腕を留奈の方に向けて伸ばす。後ずさると、何かにぶつかった。祖父だ。ベッドからいつのまにか降りていたらしい。
「……お母さん……」
 祖父はそういって、ゆっくりと床にくずれ落ちた。

 留奈は自転車を降りて、ミニタオルで汗を拭いた。夜は肌寒くなったが、日中はまだ少し暑い。カゴからバッグを取って、玄関を勢いよくあけて家に入る。風雪を耐えてきた重厚な木のドアは、開く時、軽く音がする。家族の帰ってきた気配を伝えるので、留奈はその音が嫌いではない。
 祖父の部屋にそのまま入って、ついていてくれた看護婦さんに挨拶した。今日は、週に2回、通いの看護婦さんの来る日だ。別に付き添いの人も頼んでいるのだが、留奈は出かけるなら看護婦さんの来ている日にするようにしている。
「おじいちゃん、ただいま」
 あれから、祖父はめっきり弱ってしまった。最近はベッドから起き上がることもまれで、強い薬で始終とろとろと眠っている。
 留奈が部屋に入った時にも目をつぶっていたので、てっきり寝てるかと思ったが起きていたらしい。
「お帰り」
 目を開けて、留奈の方に顔を向けた。
 帰りを待っていてくれた看護婦さんを送り出してから、留奈は祖父のベッドの脇に椅子を引いて腰を下ろした。
「おじいちゃん、少しお話をしても大丈夫かな」
「大丈夫だよ。今日は具合がいいんだ。どこに出かけてたんだい?」
「市役所と図書館」
 図書館と市役所は斜め向かいにある。
「図書館で、ひいおばあちゃんの死んだ日の新聞をしらべたの」
留奈はマイクロフィルムを検索して、西園寺の名前をみつけた。プリントアウトしてもらったコピーを祖父に見えるように広げる。
「新宿バス爆破事件?」
「うん、読むね。『午前10時、新宿駅西口ロータリーで、都営バスが爆発炎上した。通行人を含む死傷者10名、行方不明者25名。けが32名……』」
 この行方不明者の中に曾祖母の名前があった。
 留奈は祖父の目の前に一枚の紙を差し出した。
「これをよく見て」
 祖父の戸籍謄本だ。母親欄は大きく斜線で消してある。西園寺響子・昭和XX年5月10日誕生。昭和○○年4月28日死亡により抹消。
「おじいちゃんは、ひいおばあちゃんのために歌おうとしたんでしょう?」
「そうだよ」
「だったら、なぜ、お誕生日の前にひいおばあちゃんは亡くなっているの?」
 その言葉は徐々に祖父の頭に染みたようだった。だんだんと驚愕が顔に現れる。
「そうだ。どうしても歌わなきゃって。お母さんのお誕生日で……。……なんてことだ。お母さんは死んでいたのか……」
 お母さんの死が信じられなくて父親を困らせたと、祖父は言ったのではなかったか。病室で目にした母の死に際に、過呼吸になるほど泣いたはずなのに。
「これは半月後の記事。『新宿バス爆破テロによる最後の行方不明者が確認された。西園寺響子さん(29)。西園寺さんは事件現場から左腕だけが見つかり、結婚指輪から本人だと予想されていたが、DNA判定より悲しい知らせが確定となった』」
 左腕だけの死体。母親がもういないことを信じられない子供。
「おじいちゃんのお父さんは、おじいちゃんのために『お母さん』を作ったのよ」
 あの日、廊下をはいずってきたものは、金属の骨組みと人工皮膚を持った作りものだった。父のラボで調べて、すでに祖父には伝えてある。それでも、留奈は、長い年月を超えて来たものの秘密を知りたかった。祖父のためにも。
「ここからは私の想像だけど、本当はひいおばあちゃんの誕生日に何か仕掛けをしてたんじゃないのかな。おじいちゃんは必ず『野ばら』を歌うから、そうしたら何か面白い動きをするとか」
 エンジニアの物静かな父親のいたずら。実現すれば親子3人、本当に楽しい誕生会になったろう。
「そう……かもしれない。父はロボットの開発をしていたから」
 だけど、西園寺響子のその年の誕生日は、ついにやってこなかった。ロボットは最初の目的とは、ずいぶん違った役目をすることになる。
「あのね、パパのラボで調べてもらったら、あのロボットがここまで来たのは奇跡だって」
 西園寺家の墓があるのはとなりの寺。その墓は中からこじ開けられたように穴が開いていた。住職をたいそう驚かせたが表沙汰にはなってない。代々の長いつきあいのさせるわざだ。
 しかし、いくら隣の墓所からだといっても、庭をいれて150mはある。
「移動だけじゃなくて、おじいちゃんの声紋にだけ反応するセンサーも。バカになってて、なんで反応したかわからないって。距離も遠すぎるし」
 それでも「あれ」は、やってきた。墓から出るために指を失い、もとから作られなかった足の代わりに腕を使って。
「お父さん……」
 祖父がそうつぶやいた。祖父の目に涙が浮かんで、横たわったままの耳に流れる。
「おじいちゃんのお父さんは、おじいちゃんをとても心配していたんだね。それで、おじいちゃんのお母さんは、それをおじいちゃんにわかって欲しかったんだね?」
 半世紀を越えて。

 それから半月。祖父は亡くなった。留奈は父に相談して、あのロボットのボディの一部をお棺に入れた。火葬を終えると、溶解した金属が抱きしめるようにくっついた骨が、ひとつあった。
 肉親の縁の薄かった祖父に訪れた、最後の奇跡だったと、留奈は思う。














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