47. 封印
聡美は、帰りの飛行機の中で泣きつづけた。
遙香とストラティスが結婚していたなんて信じられない。
機内食は毎回手つけずのままで片づけられた。
涙が枯れるころ眠りに落ちて、
成田でスチュワーデスに揺り起こされた。
空港からバスに乗り、東京駅に向かう。
表情を失ったストラティスの顔が頭から離れない。
彼は長い時間、生と死の境をさまよっていたという。
その間ストラティスの手を握っていたのが遙香で、
自分は、いつのまにか他の男の影を目で追いはじめていた。
もうストラティスは遙香の夫なのだ。
美実になんと言おう。 彼女にはもう父親はいない。
聡美は、出発した日の4日後にもう家に戻っていた。
帰宅するなり、なにも言わずにベッドに倒れ込み、大イビキを掻いて
丸一日眠り込んだ。
目を覚ました朝、父も母も何も訊かなかった。
昼に美恵子の部屋へ行く。
「え? 遙香が・・。 人を裏切るような子じゃなかったのに。
親友の夫と国外へ逃飛行・・そんな大胆な事ができる子には
見えなかったよね・・」
美実は、美恵子のベッドでスヤスヤと寝ている。
「本当に良い子だったよ。 昼間は、一緒に公園に行って、買い物に
行って・・。 あの子、結構食欲あるのね。 ご飯しっかり
食べるしさ。 日本人だね、美実は・・」
何も問題は無かったようだ。 安心した。
「美恵子、なんか最近円くなったみたい? なにか有ったの?」
美恵子は、左手の甲を聡美に向けて光るものをちらつかせた。
「あ、婚約指輪・・。 あ、ええ? ホントに?」
聡美は驚いた。
「どうにか30歳ぎりぎりで私も片づきそうですー」
手のひらを左右の頬に交互に当てて、オホホと笑う。
「だから、子供を育てるシミュレーションのつもりで実は、美実を
お借りした・・というわけです、はい」
「聡美、大変だけど、がんばって。 聡美なら大丈夫。
その美貌なら、子連れだって引く手はあまただって・・」
「え? 美恵子、言ってたじゃない。男に幸せにしてもらおうなんて
考えちゃだめだって」
「そうだっけ、まあ、恋愛も結婚も何度したっていいじゃん」
8月になった。
学院を休んでいる聡美のところに和彦がやってくる。その日は誰にも
会いたくなくてインターフォン越しに断ってしまった。ところが翌日も
路肩に彼の車が停まる。2〜3日居留守を使っていた。
いつもたまたま父も母もいない時だからいいものの、やはりかち合って
ほしくなかった。 2階の聡美の部屋からカーテン越しに路上の様子を窺う。
Yシャツの胸ポケットから煙草を取り出し口にくわえる和彦。しばらく
その姿を見ていると、彼が時折2階を見上げる。家の中にいると思っている
のだろうか。
やがて昼寝から覚めた実美が泣き声をもらす。急いで抱き上げて揺らすが、
寝入る前ちょうど食事の時間を逃してしまったためか、空腹を訴えて泣き募る。
彼に聞かれているのではないかと焦る聡美、車が出ていくのを見てほっとする。
ところが、数分後に今度は電話が鳴る。
・・きっと彼だ。
仕方なく受話器をとる。
「いるんだろう?」
「・・・ええ、体の調子がすぐれないの」
「塞ぎこんでるからだよ、空気を吸いに少し外へ出よう」
「・・・でも」
「これから迎えに行くよ」そういうが早いか電話が切れた。
こしらえておいた蒸しケーキを実美に食べさせ、ジュースやおむつをバッグ
に詰めて外に出ると、和彦はもう家の前にいた。
車に乗って着いたのは、恵比寿の和彦のマンションである。
「平日のこの時間、お仕事があるんじゃない?」
「いいの、いいの」
和彦は、車を降りると聡美の肩を抱いて入り口のほうへ歩き出した。
エレベーターが8階で止まる。
降りて左に2つ目、一番端の部屋。扉の脇に「魚住」の表札をみつける。
初めて訪れる和彦の部屋。玄関に入って正面は3メートルほどの廊下。
向こうにガラスが8枚はめこまれた木の扉があり、ダイニングセットが見える。
その手前右側にもうひとつ洋室のドアがあるのだった。
ダイニングキッチンは、すっきりしている。
綺麗に掃除されていて床にもほこり一つ落ちていない。
そこに美実を置くと彼女は、よちよちと歩き出した。
「あれ、美実、いつの間に・・」
和彦は、そう言って彼女を抱き上げ、高い、高いをした。
「子供って1年でこんなに成長するんだ」
ほほえましそうにみつめる。
和彦は、聡美を胸に抱き寄せた。
「毎日、気になるんだ。 今頃どうしてるのかなって」
聡美は、何も感じなかった。彼の腕をすりぬける。
「聡美、ストラティスは?」
いつの間にか名前から「さん」が消えている。
聡美を隣の和室に通して和彦はキッチンで茶を煎れる。
返事が聞きたくて足早に茶を運んでいく。
座卓の上に茶碗を置いて聡美の向かいに腰を下ろす。
聡美がため息を一つ漏らす。
「彼に会ってきたわ」
「え?!」和彦の顔面がピクリと動く。
「彼、断崖から転げ落ちてずっと意識不明の状態だったの」
・・ビイは、本当にやったんだ・・和彦は思った。
「それを知ったとき、とても情けない気持ちになったわ・・」
その目に涙があふれる。
「彼は意識を取り戻してリハビリに励んでいるそうよ。でも、記憶を
失ってしまったの・・」
横できょとんと聡美をみつめる美実の手を引き寄せる。
「彼は、既に他の女性と暮らしていて、私の事なんて少しもおぼえて
いないの。 この子の顔すら見たこともないのに」
美実を思い切り抱きしめる。
「美実を僕の子にできないかな」
「・・・・」
聡美の横にやってきて聡美と実美を抱きしめる和彦。
「君と一緒に暮らしたい。彼のことなんて僕が忘れさせてあげるから」
そう言って聡美の表情をうかがう。
「・・・・」首を横に振る聡美。
「私は自分の家庭すら守れない女なのよ。子供の父親を他の女に奪われ
るような・・・。 それに、見るからに外国人の実美を貴方の子供だなんて」
今度は和彦が首を横に振る。
「そんな事は問題じゃないよ。僕が惚れた人が生んだ子供だもの。それに、日本人
離れした顔立ちの人だって結構いるだろう。聡美だって、髪は決して黒い
ほうじゃない。 僕らの子供さ・・」
そういい切って、聡美の唇にキスをする。
「美実は、きっと将来少しずつ君似になる。僕が彼女の父親になるから・・・。
・・・だから」
聡美の目をしっかり見つめる和彦。
「・・・・・・」
「結婚しよう」
「とても難しいわ。 周りの人も巻き込むことよ。ご家族のことを
考えたら、私みたいな子連れの女を選ぶものではないわ」
「家族? そんなものはいない」
鼻で笑う和彦。
「父も母も亡くなってしまった。姉とは他人のようなものだ。
それに、第一亡くなった母は、僕を連れ子して魚住家に嫁いだんだ」
父宗一郎と自分は同じような運命を辿るのか・・。
和彦はほくそ笑んだ。
「父の亡くなる直前に、僕が実は父の本当の息子だったと知った。
母は、自分が一番愛していた男を僕の父親だと言って育てたんだ」
・・その男が、菊谷晴彦・・・君の父親だよ。
そう言いかけて口を閉じた。
聡美の脳裏を何度も美恵子の顔がかすめていた。
・・・誰かの人生に便乗しようとか、男に幸せにしてもらおうなんて。
「お気持ちだけはうれしいわ。でも・・・」
辺りを見回すが実美の姿が見えない、隣の和室に行ってみると、和箪笥の横
に隠れて顔だけ覗かせている。手を伸ばすと声をあげて笑いながら歩み寄って
くる。ほっとして実美を抱き上げながら和彦のほうへ戻る聡美。
「・・今すぐに答えは出せないわ。お互いもう少し慎重になりましょう」
「ああ・・」うなずく和彦。
「送ってくださる?」
和彦は、二人を乗せた車中で、気持ちが軽くなっているのを感じた。
パパンドレウを死に至らしめずに済んだ。
心のどこかでその事が重荷になっていたのだ。
それと、顔には出さなかったが、密かに勝利の旗を掲げていた。
無理に運命をねじ曲げてしまったかもしれない。
聡美と結婚するためならやむをえないことだと思った。
☆
聡美は、吉祥寺のアパートを引き払うことにした。
家具らしいものは何もない。衣類や日用品は押入に上手に収納していた。
テーブルや台所用品は処分してしまった。
ストラティスの着ていたシャツやズボンを段ボールに詰め、
アテネの彼の元へ送るつもりだ。 彼の日記が出てくる。
何げにページをめくる。 96年4月13日。
I feel she's somehow jealous of my other girl friends.
But you know, Satomi, they're all just friends of mine.
You know who's always in my heart.
(彼女は僕の他の女友達に焼き餅を妬いているようだけれども、聡美、
彼女たちはただの友達なんだよ。 僕の心の中にいつもいるのは誰なの
か君は知っているね)
最後の日付は、7月5日。
I really can't wait. If it's a girl, I'll name her "Mimi".
I love you, Satomi. I swear I'll love you forever.
(早く子供の顔が見たい。 もし女の子ならミミイと名付ける。
聡美を愛してる。 永遠に愛することを誓うよ)
本当に彼は聡美から逃げたいと思っていたのだろうか。
この時、本当に遙香とギリシャで落ち合うことになっていたのか。
上手に二重生活を送れるほど器用な男ではなかったはずだ。
読みかけの本。 ちょうど真ん中あたりにしおりが挟んである。
日記は、聡美のバッグにしまい、本は全て衣類と一緒に送ることにした。
自分の私物を見て、たとえ記憶が戻るようなことがあったとしても、
やはり彼は、聡美の元には戻らないのだろうか。
空になった部屋に鍵をかけ、アパートを後にした。
(つづく)
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