23.ひとときの栄光 (母静香の意地)
1989年11月8日。 和彦は、26になった。
今年も学院は集中講座に向けて忙しくなる
母が頻繁に東京に出てくるようになる。
和彦の部屋に立ち寄るので、三度に一度は居留守を使った。
応募者が殺到し、参加者を11月と12月の2回に分けることになった。
通信教育生や、学院の卒業生の自宅で習っている生徒の申し込みを優先
して受け付ける。
静香が学院に顔を出す日は、小早川麗子は、毎回欠席だった。
「ねえ、小早川先生ってお会いしたことないの、どんな方?」
と静香がいうので、和彦も
「ええ、まだお若いですよ」と、おざなりに答える。
「お子さんを預けて働いてらっしゃるんですって?」
と、訊かれたときには、どぎまぎしてしまった。
まるで自分に隠し子がいるように、あわてふためいてしまう。
「大変ねえ、今度お会いしなくちゃ」という。
そんな静香が気の毒でならない。
小早川麗子は、11月の集中講座をはさんで、1週間の休暇をとり、
宗也を連れて旅行に出てしまった。 ところが、12月の講座
の前に、有給を使い果たしてしまい、 宗一郎からも
「今度は出たほうがいい。 回りもおかしく思うから」
と勧められ、しぶしぶ指導スタッフに加わった。ある夜、重役室から
二人の会話が漏れてくる。 宗一郎の低い声がボソッと何か
言うたびに、麗子のヒステリックな叫び声が響いた。
会議の日の朝、和彦が出勤すると、玄関ロビーを走り回るひとりの子供が
目に留まる。
「どちらのお子さま?」
「あの小早川先生の・・」
講師陣が耳打ちし合っている。 10月に4歳になった宗也は、
ますます父親似になり、顔に「宗一郎の子」と判を押したようだった。
向こうから宗一郎本人がやってくれば、間違いなく子供は、
「お父さん」と呼ぶことだろう。 和彦は冷や冷やしていた。
「お母さん、取ってぇ」宗也が、麗子めがけてボールを投げる。
和彦は、思わず、麗子に歩み寄り、
「小早川先生、もうすぐ静香先生がいらっしゃいますが、ご承知で
しょうか? 」 と詰め寄った。
麗子は、和彦をキッとにらみ返し、
「それがどうかしました?」 と吐き捨てるように言う。
それが二人の間で交わされた最初の会話だった。
その後、何も言わずに、宗也の投げたボールを追いかける麗子。
ボールは出口のほうへ転がっていく。
それを、受けとめるひとつの細い腕。
顔を見合わせる女と女。
「はい、これ」 細い腕は、ボールを麗子に差し出して微笑んだ。
麗子は口を真一文字にして黙っている。 静香は、笑みを返してこない
目の前の女を不思議そうにみつめる。
和彦には、とても長い時間のように思えた。
その後、すべてが明かされる。
「そのボール、僕のだよ」
宗也は、麗子めがけて突進してきてその着物に顔を埋める。
その子供が振り向いた瞬間、静香は、小さな叫び声をあげた。
とてつもない不気味さを感じたのだ。
「この子・・・誰かに・・」
やがて、静香の表情が凍りついた。
その目は宗也に据えられたままだ。
唇を小刻みに震わせて、放心したまま立っていた。
何か見てはいけないものを見てしまった、そんな空気が漂うロビー。
講師陣は、だまってそこを立ち去っていった。
「奥様、坊ちゃんを迎えに参りました」
40がらみの女がやってきて、宗也の手をひいていく。
「お母様に手を振りましょうね」と言うと、一礼して出ていった。
「失礼します」 麗子は勝ち誇ったように会議室に向かっていった。
「・・奥様って・・?」 静香は、その背中を見つめていた。
☆
静香は学院の外に出たきりしばらく戻らなかった。
和彦は、母の心情を思うとつらかった。 何と言葉をかけていいか
分からない。 ロビーに腰掛けて母を待った。
30分ほどしてからうつむき加減で戻ってくる静香。
とてもつらそうである。
見るに耐えない。どこかへ連れ出そう。
そう思って一歩前に踏み出したとき、笹峰マツがやってきた。
温かいまなざしで静香に微笑みかける。
「さあ、行きましょう」
軽く背中を前に押しながら彼女を諭すように何かつぶやいた。
静香はしばらく黙っていたが、しぶしぶうなずいて、決意したように
マツと歩きだした。
ドアの前で息を吸い込み背筋をしゃんと伸ばして会議室に入っていった。
誇らしげに話しをしていた麗子が、静香の姿に一瞬とまどいを見せる。
「小早川先生、お話をお続けください」
静香は澄ました顔で、そう言いながらテーブルの角を挟んだ宗一郎の隣に
腰掛けた。 麗子は、言葉を失った。
咳払いをする静香。教師陣をさっと見渡す。
「みなさま、ご無沙汰をしております。 高崎校の校長の魚住静香
です」 特に“魚住”の姓に力がこもっている。
「いよいよ、冬季に入り2度目の集中講座になりました。生徒の
みなさんも意欲満々で参加されることと思います。 講師陣の
わたくし達も、来てくださる生徒さんたちに楽しんで学んでいただける
よう頑張りましょう。よろしくお願いします」
その真剣な面もちに、古くから学院にいる講師たちは襟を正した。
さすがの宗一郎も、ひさびさに見る妻の凛々しい姿に、思わず拍手を
送っていた。
会議の後も、しばらく講師陣ひとりひとりの顔と名前を確認しながら、
激励やねぎらいの言葉をかける静香。
そのさりげない心遣いや上品な所作にうっとりする者もいた。
和彦は、今日の学院の発展は静香あってのことなのだと思った。
いつの間にか、麗子の姿は部屋になかったが、たとえ在ったとしても
母の貫禄には叶わないだろうと思った。
ところが、皮肉にも静香は、集中講座を目の前にして、入院を余儀なくされた。
「癌の再発が認められました」 医師が和彦に告げる。
和彦は、頭を殴られたような衝撃を受けた。
「前回切除した右の乳房の筋肉と脇の下のリンパ節、および反対側の
乳房を切り取る必要があります」
医師の言葉をまともに聞くことができない。
母の冷たくなった体や棺をかつぐ自分の姿が脳裏をかすめた。
静香は苦笑した。 和彦に向かって、
「お見合いの話、どうする?」と言う。
「可愛らしくて、聡明な女性(ひと)がいいですね」と答える。
「着物の似合う人にしてね」
「当たり前ですよ」
「貴方は、世界一の息子だわ」うれしそうに涙ぐむ母。
「元気になってくださいよ」
「当たり前じゃない?」
二人は、指切りをした。
(つづく)
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