14. クリニック (魚住の幼少期)
聡美の母、滋実は、メンタルクリニックで事務と受付をしている。
今年の2月頃のこと。
「旦那さんは、元気でやってますか」 滋実の夫の安否をよく気遣って
くれるのは、院長の沖田である。
「ええ、もうすぐ定年で、張り合いを失ってたみたいですけど、
孫が生まれるので、また生き甲斐を取り戻したようです」
「それは、よかったですね」
「子供達もどうにか一人前に育ってくれましたし、夫も自分が父親と
しての役目を果たせたという自信を持てたようです」
「奥さんの内助の功あってのことですよ」
時々、書棚やファイルの整理をしている裏側での、沖田と患者のやりとりは、
夫や自分の置かれた状況、かつての精神状態に似ていて、癒される部分が
多い。
☆
その頃からクリニックを訪れた患者に魚住和彦という男がいる。
32歳、独身、無職だった。 ひとりの男の生い立ちが、社会に出てから出遭う
人々の人生にどんな波紋を投げかけていくか、この男の例を挙げてみよう。
沖田がこの男のカウンセリングをしている時に、滋実が、部屋の中に
いて、書棚の裏でたまたま聞いていたことが、何度かある。顔を確認した
ことはない。 彼は沖田と顔を合わせるまでずっとサングラスを掛けている
からだ。
先ず、カウンセリングは、彼の幼少期の体験から始められた。
父親に蒸発され、母が彼を連れ子して、名のある家に嫁ぐ。
母親の静香は夫に蒸発された直後、実家に身を寄せていた。 ところが、
すぐ下の弟が結婚し、親と同居するといい、居づらくなり、母子寮を求
めた。 身寄りのある母子に市は寮を提供してくれず、和彦を、あちこち
に預けて、バーやクラブで働きだした。そんな時に魚住に見染められたの
だった。 それから、静香は、着付け、和裁、茶道、華道、礼儀作法の
全てを、意欲的に学んだ。 学院は、拡大して、夫は東京に本部を構えて
移り、静香は、地元の学院長として、高崎に残る。
前妻の娘や親戚中からの、圧力は半端でなかった。
和彦を連れて出ようかと、何度も迷ったが、数千人という生徒数を
誇る学院を管理し、先生と呼ばれる立場を断念することができなかった。
静香にとって、夫とは名ばかりで、魚住には、以前からの愛人が何人か
いた。 帰宅するのは、月のうち、数えるほどになっていった。
丸顔の、可愛らしい顔立ちだった静香は、精神的ストレスから
げっそり痩せた。
「いつか、限界を感じたら、和彦を連れて、やり直そう」
自分にもそう言い聞かせたはずだった。
ところが、それとは逆に増長していく意地と野心。
「こんな生活は、私だけでは、させてあげられない」
「貴方には十分な教育を受けさせたいから」
「私たちを捨てて逃げた貴方の父が悪い・・」
「意地でも、幸せになるため」
「実の父を見返すような立派な人になってね」
息子が幼い頃から、そう言いながら育てた。
和彦は、小学生時代、よく近所の同級生たちに取り囲まれた。
「お前の母親は、男をたらしこんで玉の輿にのっかったんだ」
いつも、口火を切るのは町会長の息子で、他の子供達が後に続く。
「お前は母ちゃんの瘤だ」
「コブちゃん」
「あはは、コブちゃんだあ」
そう罵られ、家に逃げついて、母親の姿をみつけては、
「お母さん、みんなが僕のことをコブだって言うんだ」
と、すがりついて泣いた。 けれども、母親の静香は、
「絶対に泣き顔を見せては、だめ。意地でも見返してやりなさい。
お母さんも耐えるから」
といって背中を叩く。
本当は、母の胸で泣きたかった。 抱きしめてもらいたかった。
「怖いよー」と弱音が吐きたかったのだ。
しかし、母は、忙しそうに仕事に走り回っていた。
確かに美しい女だった。
背筋を伸ばして笑顔を見せる和彦に、頼もしそうに微笑む母。
その姿が、いとしくて、彼は全ての感覚を麻痺させた。
少しでも母の顔が悲しそうにゆがむと、取り繕うように、
はしゃぎだす。
翌日、教室の後ろで、町会長の息子の正哉がクラスメートに
ガムを配っていた。
和彦も少し恨めしかった。 時々、ちらちらと覗きながら、机に座って
いた。 菓子など見つかれば、きっと体罰を受けるだろうと冷や冷やして
いた。 ところが、担任が入ってくると、皆、うまく席についていて、
目配せし合っている。
担任が、「ガムの臭いがする」と言い、机やランドセルの中を検査し始
める。 和彦の机の中からガムの包み紙が出てくる。 担任は、彼を
授業が終わるまで廊下に立たせ、その後、何度も平手で頬を叩いた。
彼は、謂われのない屈辱を感じる。 それでも、抗議できなかった。
母親が呼び出される。 静香は、ひたすら頭を下げることに徹して、
「申し訳ございません」と機械的に、繰り返す。
横で、和彦が、「お母さん、僕がやったんじゃない」と言っても、
「謝りなさい」と、その頭を下げさせた。
何を感じ、何を思っても、意味が無いと諦める。
「ごめんなさい」 彼が、しぶしぶ謝ると、母は、納得した。
母が納得すれば、それでいい・・と思った。
ドアの隙間から覗くガキ大将達は、和彦の味方が皆無であることを
確認した。
翌日の下校時に、待ち伏せされた。
まず、正哉の子分達が、ランドセルの投げ合いをする。
それを追いかけているうちに、尻に蹴りを入れられて、前のめりになる。
仰向けにさせられ、顔を平手打ちされる。
正哉は、和彦の上に馬乗りになって、頭突きしてから、鼻のど真ん中に
パンチを食らわす。
鼻を拭った自分の手にベッタリ血が付いている。 和彦は発狂した。
あとは、鬱積していた怒りが、はけ口をみつけて、どっと吹き出すのみ
だった。
狂ったように正哉を押し倒すと、両手の拳に力をこめて、連打する。
正哉は、動かなくなった。それでも、止めない和彦を見て、血相を
変えた仲間達が助けを呼びにいく。
気を失った正哉は、顎が外れ、腕に全治2ヶ月の骨折を負った。
町長を始めとする近所の大人たちは、「不良少年」「行く末がおそろ
しい子供」と噂するようになる。
魚住の父や静香が菓子折を下げて謝罪や挨拶に歩き回る。
和彦の自尊心は、すっかりボロボロになった。
けれども、母を恨むことができなかった。
それどころか、母の期待に添えない申し訳けなさが残り、自分の
価値の無さを感じた。
悲しかった。
「耐える」「見返す」 毎日のように母の口を突いて出てくる。
「でも、いつまで?」
「その時が来たら、どうして分かる?」
それを尋ねる相手は誰もいない。
母の細い首筋が震えるのが怖い。
母の顔から微笑みが消える瞬間が怖い。
彼は、勉強しまくった。 苦手なスポーツに挑んだ。
独りで放課後、鉄棒を練習した。
自分の考えで立ち止まることや、喜怒哀楽を表現することもなく、
回りの形勢次第で自分の駒が動いていく。
誰かと何かを分かち合いたいとか、
誰かに手をさしのべようとか、
そんな気持ちが育つ環境ではなかった。
(つづく)
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