52. 寿(ことほ)ぐ
日曜日の西新宿。昼下がりの喫茶店。
「あ、もう彼のところに住んでるのね」
「10月の半ば頃からね・・」
「じゃ、ストラティスのことは完全に・・?」
「遙香と結婚しちゃったんじゃ、しようがないじゃない」
「・・えええ?」 美恵子は、まじまじと聡美の顔をみつめてから、
「聡美って変わったね」と言う。
「変わった? そうかな」
「うん、変わった」 美恵子の目の焦点があっていない。何か思い起こし
ながら聡美の顔を見ている。
「それとも、今までの聡美がどこか自分の本性を抑え込むよう
にしてたのかな。 なんか今の聡美、怖い・・」
美恵子は、窓枠にくくりつけられたカーテンの襞に人差し指を埋め込んだ。
「美実は、それで幸せになれるのかなあ」
「だって・・」 アテネのアパートで見たシーンがコマ送りの
ように脳裏から甦る。
「本気にしてるの? 遙香の言ったこと。 聡美から逃げるために
自分から仕組んだ強制送還だったって?アンタね、そんな信じら
れない男の子供なんてよく生んだわねぇ」
「もういいの」
涌いてくる映像や思いの全てを厚い扉の向こうにしまい込むように、
聡美が言い放った。
「聡美・・。 もっと素直になったほうがいいよ。 自分が無防備に
なる姿、人に見られるのがいやなんでしょ。 誰にだって嫉妬は
あるよ。 ここぞという時には、それを爆発させてもいいんだから。
せめて、自分の中ではそれを否定しないで認めるぐらいはしようよ。
自分に嘘をついちゃだめ・・」
「誰にも嫉妬なんてしてないわよ」 聡美の目が泳いだ。
「・・聡美の今の遙香への気持ちはこうかな・・」 美恵子が続ける。
「“ストラティスは、本当は私じゃなければダメなのよ。 まあ、
彼が記憶喪失のうちにがんばるのね、その記憶が戻れば彼は私のところ
へ戻ってくるかもしれないわよ”ってそんな気持ち・・ねえ、聡美」
「・・・・」
「“貴女みたいな女がいくら私の幸せを奪おうとしたって無理よ。
私には、すぐにまた、こうして新しい道が開けるんだから”・・って
ねえ、聡美、どうやったらそんな風に心を整理できるの?」
「・・・・」
一瞬目がパッと見開かれたが、聡美はすぐにうつむいてしまった。
「聡美、アンタが一番癖が悪い! もう、友達として苛つく。
そんなに良い子でいる必要ないんだからねぇ、知らないよ、
後悔するよぉ、絶対に」
美恵子は、立ち上がって、両手で“バン”とテーブルを叩いた。
「美恵子・・・」 聡美の目が揺れている。
「一度修羅場を見るまで、その生き方で進むがいいわ。
でもね、これだけは言えるよ。 自分の気持ちを偽るたびに、
心は濁るよ、世界が狭く感じられるよ。」
美恵子は、請求書の上に自分のコーヒー代を置いて出口のほうに
歩き出す。
「美恵子・・ありがとう」
その背中を見て自然に出た言葉だった。
美恵子は一瞬止まり、少し顔を横に向けて、
「幸せにならなかったら承知しないから」と言い残して出ていった。
☆
「やっぱりね、彼女みたいな人が理想なんじゃないかとは思ってたけど」
花代は、学院の廊下で今まで和彦と話していた聡美の後ろ姿を見送り
ながら言った。
「お子さんがいるのぉ?・」
「ええ、1歳の女の子が・・」
「和彦、貴方は2歳のときに魚住の家に来て、ずっと後妻の子だ
って回りに言われて育ったんでしょ。その経験があの人の娘を育てる
のに反映されるかしら」
「・・・・」
「私は、細かいことは何も言わないわよ。 一途な貴方のことだから、
この人と決めたら、その人しかいないんでしょうから。
貴方ももうすぐ34だし、そろそろ、身を固めてほしいとは
思っていたんだけど。 それにしても、うちの文教の土地、勝手に
売りさばいて・・何に使ったの? 」
「・・・・」
「例の女に手切れ金として渡したの? 子供でもできて結婚を迫られ
たけど、他に好きな女がいた・・そんなところなんでしょ?
でも、2億なんてお金を渡さなければならなかったの? 」
「・・今から考え直して、銀行の頭取の娘さんと結婚しない?」
和彦のうつろな目に、自分の話をまともに聞いていないことにきづいた花代が、
口をつぐむ。
真顔でひとこと、
「もうこれ以上の勝手は許さないわよ」
とだけ釘をさした。
その後、編集でつなぎ合わせでもしたかのように穏やかな表情で聡美に目を
やりながら、
「どこかで見たような・・誰かに似てるような気もするわね」
はて・・と首をかしげた。
「きっと芸能人ですよ? 大石めぐみに似てるって言われるそうですよ。
・・・じゃ僕はこれから作法の授業がありますから」
和彦は、聡美が入っていった教室の前方のドアに消えた。
☆
聡美の隣の席に座る高校時代の友人寛子がしきりに訊いてくる。
「ねえ、先生と結婚するの?」 小声でささやく。
「ええ・・お願いだから後にしてもらえない?」
聡美はノートを取っている。
「ねえ、いつ?」
「・・・・」
「今度遊びに行ってもいい?」
「・・・・」 聡美は、ため息をつきながら寛子を見る。
「いいなあ、聡美。 子連れでこの身分・・あ〜あ」
寛子は、前で講義をしている和彦と聡美を交互にみつめた。
☆
最近、笹峰マツは社交ダンスを通じて知り合った布佐原満作という
男と暮らしていた。 ある日、ふたり揃って和彦のところに
挨拶に来て、玄関先で初めて聡美に会った。 聡美は、学院で
ときどきすれ違うマツの顔は知っている。
4人揃って向かい合う。
「表向きの表札は、布佐原にしてますけど、籍は入れてないんですの。
お互いに娘や息子がおりますしね、このまま一緒に助け合って
生きていければと思って・・」
そう言うマツの一言一言に満作が笑顔でうなづく。
「とってもお似合いですよ。 結婚届けなんて一枚の紙ですから。
一緒に末永く暮らしていければ立派な夫婦だと思います」
・・籍をいれなくても楽しく暮らしていれば・・聡美の頭に一瞬
ストラティスの顔が浮かぶ。
「それより、そちらは・・? いつお式をなさるの?」
「ええ、それが・・まだはっきりは決まっていないんです」
「まあ、あなた方こそとてもお似合いよ。 雛壇に飾っておきたい
くらい絵になる夫婦だわ」
「そうでしょうか」 和彦は、照れた。
「ママ、ママ」 玄関近くの四畳半から美実の呼ぶ声がする。
「・・失礼します」聡美が席を外す。
「・・あら?」 マツと満作が不思議そうに和彦を見た。
「あ、実は彼女には子供がいまして・・」和彦は頭を掻いた。
一瞬黙っていたが、マツは、にっこり笑って、
「いいことじゃないですか」と言う。
「実の息子や娘だって巣立ってしまえば、もう別の人生。
親子でも姉弟でもお互い分かり合えない面もあります。
血のつながりが無くても、慈しみ合える関係は、
築けますとも」
和彦は、その言葉を胸に刻んだ。
「マツ先生、ありがとうございます」
聡美が、美実を連れて戻ってきた。 円い目をぱちくりさせて、
見慣れない客の顔をじっとみつめる美実。
「あら、可愛いお嬢ちゃんね」
マツは、子供がハーフであることに微塵の動揺も見せなかった。
「こっちへいらっしゃい。 私がお婆ちゃんですよ」
そう行って美実に手をさしのべる。
美実は、マツに歩みよると、その膝の上にちょんと座って、
にっこり笑った。
場が明るく和んだ。
和彦が、
「マツ先生にお願いがあります」と言った。
「なんですか?」マツは、両手でもみじのような美実の手を包み込み
ながら頬ずりしている。
「僕らの仲人を引き受けていただけないでしょうか」
「まあ・・」 マツと満作は嬉しそうに見つめ合った。
「私らのような者で、そんな大役が果たせますでしょうか」
万作が口を開く。
「私からもよろしくお願いします、是非お仲人に・・」
聡美も頭を下げた。
「そ、そうですかー。 じゃ、喜んで引き受けさせていただきます」
マツは、満面に笑みを浮かべる。
11月8日に和彦は34になった。
同じ月の13日に結納が執り行われた。
結婚式および披露パーティは、翌年98年の2月14日に都内のホテル
で行われることになった。 来年の暦を開いてマツが、
「その日は赤口でございますわね。 お式は昼頃にいたしましょうか」
と言うので、式は、11時半から、披露宴は、1時からということに
決まった。
(つづく)
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