58. カタルシス
自宅に帰る和彦。朝、玄関の内側の明かりは付けて出ていた。
もしかしたらとかすかな期待にドアを開けるが、靴脱ぎ場はきれいなものだった。
あがってすぐ右側の6畳の洋間に灯りをつける。
入籍後実美の遊び場だった部屋だ。玩具類が大きな籠に投げ込まれている。
引き出し箪笥も実美のがいた頃のように衣類が収められている。
照明を消して部屋を出る。
ダイニングのドアを開けて驚く。綺麗に片付いているではないか。
テーブルの上にメモ書きを見つける。「しばらく旅に出ます」とある。
和彦は、和室の桐箪笥の扉の中の一番上の小引き出しを見てみた。
聡美のパスポートが無い。
・・・とうとうギリシャへ行ってしまったのか。
深いため息をついた。
その夜、マツは知り合いの料亭で煮魚をはじめとした料理を
何品か作らせ、それを持って和彦の部屋を訪れた。
マツが風呂敷包みをほどいて重箱を和彦の前に広げる。
「有りがとうございます。最近まともに食事もしてなかったので嬉しいです・・」
「体を壊しますよ、たくさん召し上がって」
和彦は、部活動から帰宅した少年のように飯を口に頬張った。
マツは、鍋を火に掛けみそ汁の用意を始めた。
黙って食事をする和彦に、自分の息子を見るような暖かいまなざしを送るマツ。
いきなり和彦が、
「マツ先生、結婚式を延期することになりそうです」
と切り出す。
「そうですか」 驚きは微塵も見せない。
マツは、ネギを刻む背中にふと視線を感じた。肩越しにふりむくと、こわばった
表情を少しほころばせて、和彦が、
「マツ先生は亡くなった母以上に僕の母親みたいですね」
と言う。
食後に茶をすすりながら、和彦のほうから
「何も訊かないんですか 」と言うので、マツは笑ってしまった。
「訊いてほしい?」
「・・マツ先生がいるだけで・・どうしてこんなに癒されるんだろう・・」
照れ笑いする和彦。
「何でも話してくださっていいわよ」
「ええ」 そうは言ったものの何から話して良いかわからない。
しばらく沈黙が続いた。 無理に話そうとも思わなかったし、
マツなら自分のことをありのまま受け入れてくれると感じた。
マツが、キッチンの床を拭いてくれている間、和彦はソファにもたれてタバコを吸って
いた。時折マツに目をやっていたのだが、マツが振り向いて、
「人生・・こうあらねばならないなんてこと、ないですよ。
無駄はひとつもないんだから。 貴方を信じてますよ、ね? ゆったりと
構えていきましょう。」
と言いにっこり微笑んだ。
時計が8時半を回ったので、車でマツを自宅まで送ることにした。
特別会話を交わすでもないのに、緊張した空気は微塵も感じられない。
実の母親からも得られなかったほどの安らぎをおぼえた。
千住の自宅の窓には明かりが灯っている。 マツの主人の満作が
待っているのだ。
「すみません、よろしくお伝え下さい」
「いいのよ、気にしないで」
ところが思わず降りようとするマツの手をぎゅっと握りしめてしまう。
マツも、すかさず両手でその手を包みこむ。
こみあげてくる感情を抑えられなくなる和彦。脳裏から子供の頃の映像
が蘇える。その瞬間彼は、マツの胸にどっとなだれ込んでいた。
マツは、ひとつも驚きを見せず、和彦をしっかり抱きかかえた。
和彦は、体中を震わせて泣いた。
・・ここまでひとりで抱え込んできたのか、とマツは思った。
幼い頃から今日まで誰ひとりとして彼の悲しみを癒せる家族がいなかったの
だと改めて感じた。亡くなった宗一郎や静香の姿が懐かしく思いだされる。
ひとり残された和彦が不憫でならなくてマツの目からも涙があふれる。
彼の気が済むまでいくらでもそうしていてやりたいと思った。
「いいのよ、それでいいの。ありのままでいいのよ」
しばらく二人は、抱き合って一緒に泣いた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
涙の枯れる頃、和彦は前方を向いて座り直した。
「・・だいじょうぶ?」 とマツ。
「ええ」 小刻みにうなずく和彦。
「おやすみなさい」 車を降りるマツ、小さな子供にするようにそっと手を振る。
「おやすみなさい」 和彦も泣きはらした目でマツに小さく微笑んだ。
車を出してからしばらくして小雨が降り出す。やがて濡れた路面があたりの街灯や
ネオンを反射して輝きを放つ。いつもなら気持ちが塞ぐ雨の夜、いつになく周りの景色を
穏やかな気分でみつめる自分にきづく。 思わず、ラジオをつけてDJ番組に耳をすませていた。
(つづく)
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