9.ハプニング
翌日、日曜の朝8時半に美恵子から電話があった。
「あ、聡美。 ねえ、うちに来てよ、もう大変なんだからー」
「どうしたの?」
「洪水! もうひどいのー。 早く、早く」
そう言い終わるが早いか、切れた。
美恵子は、実家から5分くらいのところに、独りでマンション暮らし
をしている。
聡美が自転車でかけつけると、久々に会った美恵子はパニック
状態だった。
「どうしたの?」
美恵子は、聡美を風呂の脱衣所へと招いた。
「ほら、ひどいの〜」
辺り一面水浸しである。 それでも四苦八苦した様子が窺われ、
隅にはふき取るのに使ったと見られるバスタオルが積まれていた。
聡美も乾いたタオルをつかむと、床の濡れたところを拭きはじめる。
「どうしよーか? こういうのって敷金から引かれるよね?」
「いったい、どうしたの?」
美恵子は、床をバスタオルで擦りながら、一部始終を話す。
まず、洗濯機の排水ホースを入れる穴が詰まり安くて、水が逆流
してくるので、近くの金物屋で、長いホースを買ってきて、風呂場へ
垂らすようにしたというのだ。 風呂場のドアを閉め気味にして
ホースが外れないように挟んでいたのだが、ちょうど朝、パンを買いに
行っていて、帰ってくると、この有りさまだったという。
「穴の詰まり、見てみた?」
美恵子は首を横に振る。
「見てみよう・・そっち、持って」
聡美は、洗濯機の端に手を入れ、もう片方を美恵子に持つように
合図する。
「え〜、面倒だなあ」
「だーって、こんな事、頻繁に起きたらたまらないでしょ」
二人は、かけ声と同時に洗濯機を持ち上げ前へ移動させた。
聡美は、スリッパ履きで、裏へ入り込む。
「ね、何か入ってるよ・・長いものない?」
「うん」そこまでやると、美恵子も関心を示し始めた。 奥から
1メートル物差しを持ってきた。
聡美は、それを排水口につっこんで、感触を確かめてみる。
手応えがあった。回りの壁に物差しを押しつけるようにしながら
上へと引っ張り上げてみた。
「なに、これ?」 怖々と指先で広げてみると、どうやら、かつては女物
のパンティだったようだ。
使い古した雑巾のように黒くなっている。
「あら、やだ」
その後、物差しを更に差し込んで奥に通るまでに掻きだしてみたが、
結局、パンティ2枚と靴下の片方が出てきた。
「おかしなことするね」
二人は、排水ホースをそこに差し込んで、洗濯機を元の位置に戻す。
聡美は、洗面所で手を洗い、ポケットから取り出したハンカチで拭いた。
「前に住んでいた人がやったのかしら」
「たぶんね。引っ越してきた時に、近所の人が、以前いた人は、
とっても身持ちの悪い水商売の女だったってこぼしてたから」
「でも、なぜ、こんなところに詰め物なんてしたんだろうね」
不可解な出来事だった。
「何か冷たいもの、貰うね」
一仕事を終えた聡美は、勝手に冷蔵庫を開けた。
美恵子は、“お茶、煎れるわね”なんて言うタイプではない。
「そうだ、聡美。 洗濯機の事なんだけどさ」
洗面所から美恵子が戻ってきたが、この時とばかり、普段の疑問を
聡美にぶつけようのだ。
「ほこり取りの網が破れたの、どうすればいい?」
「あ、洗濯機の内側のね?」
美恵子がうなづく。
「あ、あれね、別売りされてて・・」
聡美が説明しようとした時に玄関でチャイムが鳴る。
美恵子がドアに向かう。聡美は、冷蔵庫からソーダを取り出し、
流し台の脇に逆さに立ててあるコップに注いで飲んだ。
台所は、意外に綺麗に片づいていて、流しのステンレスが光っている。
「ま、台所は、使ってない・・ってことね?」
玄関の方で男の声が聞こえている。
「だって、うちの天井が水浸しなんですよー」
「ですから、うちも困ってしまって。 排水口の詰まりが原因で」
どうやら、下の階の住人にも迷惑がかかったようである。
美恵子の応対はぶっきらぼうだった。
独り暮らしの女性が人に恨みをかうものではない・・・
聡美が、出ていって口を挟んだ。
「あ、下の階の方ですか、申し訳ありませんでした。 どんな具合
ですか、お宅の天井?」
不機嫌な男は、ようやく話を通せる相手をみつけて安堵のため息をつく。
「ええ、天井にぽつりと丸いシミができたかと思ったら、どんどん
広がって大きくなりまして、台所の床に水が垂れたんですよ」
「まあ」 聡美は同情を示した。
横にいる美恵子は聡美をちらちら見ている。
「もうしわけございませんでした。 大家さんのほうにも連絡いたし
ます。 後で改めてご挨拶にうかがいますので」
・・そこまでしなくたって・・美恵子が、不満そうにスリッパのつま先
で聡美のすねを突いた。
「気をつけてくださいよ」男はドアを閉めた。
「聡美〜、私、挨拶なんていかないわよ」
「だめよ、ご近所とのつき合いが嫌いなのは分かるけど、恨みを買ったら
もっとやっかいでしょ」
目の前で人差し指を左右に振る聡美。
「さて、ちょっと、買い物に行こうか」
美恵子を商店街へと連れ出した。
まず、美恵子の行きつけだという金物屋へ行き、洗濯機のネットを見る。
「・・これ、これよ」
「売ってるんだぁ、へえ」
めずらしげに商品を手にとる美恵子。
「あ、こっちはだめだ」 聡美が、吸盤タイプのネットを棚に
戻して浮き袋タイプの物と取り替えた。 美恵子は首を傾げる。
「同じじゃないの? そっちの方が50円安いし」
聡美が首を横に振る。
「あのね、役に立たないものを買ったら、たとえ安くても、
買い損なのよ。 お金を払って、ゴミを買うような物なの」
声に力が入っている。
「役に立たないものが売られてるの?」
聡美が首を縦に振る。
「弱い吸盤は、剥がれて洗濯物に紛れてしまうの。浮かせて使うほうが
ほこりが取れるのよ。綿ゴミがついたタオルで顔を拭くのはいやでしょ。
美恵子は、モデルなんだから」
「そうかなあ、私はそんなの感じないよ」
「はい、これでよし」 聡美がネットを美恵子に手渡す。
聡美が次に立ち寄ったのは洋菓子屋だった。
美恵子は、はじめ、聡美がケーキでも食べたいのかと思った。
「下の階の人にめいわくをかけたんだから、何か持っていくべきよ」
そう言って、ワッフルの10個入りケースを美恵子に買わせる。
美恵子は、呆れと感心の入り交じった表情で聡美をみつめる。
その後、今度はマックに入り、冷たい飲み物を買って、窓際の
テーブルに腰掛けた。
「遙香をみかけたんだけど、なんだか彼女変だったわ」
聡美は、吉祥寺で見かけた昨日の遙香の様子を思い出していた。
「あんまり、連絡くれないし、私のこと、避けてるみたい。
美恵子は、最近、彼女と話した?」
美恵子がうなづいた。
「実際に、遙香は、聡を避けてるかもしれないよ」
聡美はどっきりした。
「彼女が結婚に憧れてたこと、聡美は知ってる?」
いきなり聡美を凝視する美恵子。
「え?」 聡美のコーラがストローの中で止まる。
「いつも、二人は、どことなく似てていいなって思ってたんだ」
美恵子は、道行く友達同士に目をやった。
「ていうか、雰囲気や好みが近いっていうの?背格好も同じで
私だけ大きかったじゃない?すこし妬いてたこともあるよ」
美恵子が初めて明かした。
「でもさ、いざというときになると、聡美ったら、遙香の心の中、
見えてないんだよね」
「え?」 いつも人の心に無関心なのは美恵子のほうじゃない?
聡美は、一瞬おもった。
「隆士さんとつき合っている間中、知らなかったんでしょ?
遙香が彼のこと好きだったって」
「うん」 4年生の終わり頃、美恵子から知らされるまでは・・。
「遙香は、聡美に似てるって言われていた分だけ、知らないうちに聡美
と自分を比べて、背伸びしてたかもしれないよ」
「そうかなあ」
美恵子が深くうなづく。
ジュースを飲み終えて、二人は席を立った。
「美恵子、結婚を考えたことある?」
「つい最近、またカレシと別れた・・」美恵子が苦笑する。
「ごめん、変な事、訊いちゃったね」
「ううん、いいよ。 しようがないの、原因がね・・」
美恵子が耳打ちしてくる。
「ええっ? そーなの?」
聡美が頬を赤らめる。
「なーによ、今更カマトトぶって。聡美は、ない、そういうの?」
別れの原因は、オーガズムをフェイクしたのがバレたからだそうだ。
「私達って・・変だね。 来年30歳だっていうのに、誰も
結婚してない」
美恵子がため息混じりに言う。
「そうね」
「でも、最近、結婚しなくてもいいかな・・って思ってる」
「美恵子は、仕事が楽しそうだものね」
「仕事は、ピーク、過ぎたの。 でもね、うちの親を見てると
そう思うから。 うちは歯科医院でしょ」
「いいな」
「ふ」美恵子が首を横に振った。
「父が衛生士の女の子と不倫してるのよ、一緒にいるの見ちゃった。
母も歯科医師だけど、休みの度に留守。 見て見ぬ振りしてきたけど、
仮面夫婦っていうか、娘の立場から二人に何を語りかければいいのか、
分からないわ。せめて、愚痴れるような兄姉でもいればいいのに。
私は、冷たい家庭しか知らないから、楽しい家庭を築く自信はないの」
・・知らなかった。 裕福で何ひとつ不自由なく育ったものと思ってきた。
それより美恵子がこんなに心の内を明かしてくれたのは初めてのことだ。
「まだ、結婚しないなんて断定しないほうがいいよ」
美恵子のマンション近くで、腕時計を見ると、12時ちかかった。
「そろそろ帰るね、また今度、食事でもしよう」
聡美は自転車に手をかけた。
「来てくれてありがとうね」 照れ笑いする美恵子。
「ちゃんと挨拶するのよ」
「はーい」 紙袋を高く持ち上げた。
☆
その晩、また美恵子から電話がかかってくる。
学生時代のようで、心が浮き立つのを感じた。
この3〜4年の間、聡美は、美恵子や遙香と距離を感じていた。
方向性も暮らしも違ってきていた。
3年前にストラティスと出逢ってから、何よりも彼と過ごす時間を大事に
していた。
美恵子は、大学を卒業するころから少しずつショーに出演するようになり、
ファッション系やOLの読むような雑誌でよく見かけられた。
半年くらい前に、本屋でたまたま手にした女性誌の「輝く今」という特集
ページに彼女のインタビューが掲載されていたが、友達として誇らしくて、
思わずレジで広げ、
「私の友達なんです」と店員に自慢してしまった。
その雑誌を5冊買って、1冊は遙香に手渡したが、その後彼女から聡美への
連絡は途絶えている。
「聡美、今朝は、どうもね。 なんか、気にするような事、言っちゃった
かな・・と思って」
「あ、フェイクのこと・・?」
「違うってばー」
「分かってる。また水漏れかと思ったわ。お菓子、置いてきたの?」
「うん、いろいろと言われたけどね。・・・あのね、今日、小耳に
挟んだんだけど、聞きたい?」
「え、良いこと?」
「うん」美恵子の声は明るかった。
「遙香に男がいるみたいよ」
「え? ほんとう?」
昨日、喫茶店の前で見かけた彼女がいつもよりも綺麗に見えたのは、
気のせいではなかったのかもしれない。
「今日、知ったんだけどね。」
「相手の人、どんな人?」
「・・やっぱり聞きたいでしょ」
遙香は、幸せな恋愛してるんだろうか、そんな心配はお節介だろうか。
「教えてくれた人は、意外な人物なんだけど、誰か分かる?」
「美恵子と私が知ってる人?」
見当がつかない。
「うん、偶然に会ったの。驚いちゃった」
「だれ?」 やっぱり、わからない。
「隆士さん、大野隆士・・。 聡美の元カレシ」
聡美は耳を疑った。 2度と会うこともないだろうと思った人の名前だ。
「なんで、隆士・・さんが、遙香の恋愛を知ってるわけ?」
「・・ヤキモチ? 大丈夫、相手は隆士さんじゃないからね。」
少しほっとしている自分が憎らしい。
「隆士さんと、今日、新宿の駅のホームで会ったんだぁ。立ち話したの。
いいでしょ? ふふ」
「なによ」
「聡美は、人妻だし、母親だもんねぇ」 反応をうかがっている。
「元気そう・・だった?」
「うん、まだ独身だって。・・私、アプローチしちゃおうかなあ」
「美恵子、ねえ・・」
「嘘だってぇ。 それでね、恵比寿で遙香が同じ男性と歩いている
ところを2度見かけたそうなの。 とっても、素敵な人だったって。
目鼻立ちの整った、清楚な感じの男性らしいわ。 ぴったりくっつ
いて歩いてたからカレシに見えたって」
「そう、じゃ、喜んであげていいのかなあ」
「遙香にもようやく春が訪れたか。 結婚は、彼女が一番早いかなぁ」
「・・うん」 聡美の声には確信がなかった。
「そのうち、遙香を誘って、3人で食事でもしようよ。 ほら、彼女、カラオケ
好きだったし・・」
「うん」
聡美は、昨日の遙香を何度も思い返していた。
(つづく)
(話の続きへ)
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