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河内飛鳥古寺霊場第一番、『荒綾山四天王寺』は布袋尊。中国は広島生まれ・・・もとい、中国席代末期の僧で本名は契此〈かいし〉、西暦九ニハ年三月漸江省奉化県の岳林寺で寂したと伝えられ、度量を持った宗教・福徳の神様で七福神の中で唯一実在の人物である。 この和尚の逸話は実在の人物であるが故、数々残されている、「未だ氏族を詳らかにせず。自ら名を契此と称す。一家の住処や生業を持たず、方々を俳御する、常に杖を持ち大きな袋を荷負っていた9袋の中には生活必需品一切を入れ、施しを受けた肉や魚など少しばかり食べては残りを袋の中に貯えていたり」とある。 大きな袋を常にかけ、満面に笑みを浮かべ大きなお腹を突き出し潤歩する姿は福々しさを感じさせるではありませんか。あの何か大層な宝物が入っていそうに感じられた袋の中身が生活道具だとは、なんとも親しみが持てる和尚である。 さて四天王寺さん、以前は南側国道二五号線から北にはいれば、つきあたって東に狭く抜けるだけで、袋小路のようになっていた東大門前の道路もきれいに整備され南北に開通している。昼間はサラリーマンが車を止めて昼寝をしたり、子供がボール遊びをしていたこの界わいも大型トラックの迂回路になってしまったようだ。 平日は人影もちらほらの境内はいっそう広々としている。南側に位置する中門から回廊が東西に延び北折して講堂に連なる、この回廊に囲まれた中に五重塔、金堂を配した四天王寺式伽藍配置、北に現在は工事中の亀の池をはさんで幾分人の賑わう六時堂がある・・・。ひとり言をぶつぶつ六時堂の階段を上がる。 「おー・布袋さんのキーホルダー、いや根付けの様なものがひとつ置いてある。」 「これは、お守りとして売っているのか?はたまた、誰かの忘れ物か?それにしては、駅等でよく見かける『お忘れ物』の紙も貼っていず・・・。」 根付けのことが気になりながら納経所へと足をはこぶ。 雑念を払い背筋を延ばし、衿を正して納経所で集印帳に朱印をいただく。帰りはまたいつものようにいくぶん猫背になっていた。 七福神めぐりといえば七福神の絵が描かれた色紙に、各社寺でいただく朱印を埋めてゆくもの。 今回なぜ集印帳かと云うと昭和五十年に開設されたこの「河内飛鳥七福神」、最初は立派な色紙が存在したが、それがどうも粗悪品であったらしい、ので現在は使っていないそうだ。う−む前途多難じや!と云うことで順次まわってみることにする。 四天王寺の納経所では、「み仏の里河内飛鳥古寺霊場のしおり」などをいただきありがとうございました。
《百済山長栄寺》 福禄寿 中国出身の人徳を持った、長寿・徳望の神様。 さらに、福禄寿は「福神・禄神・寿神」の三神を意味するとも云われ、その功徳はさらに拡大される。 福禄寿の三徳を具備するのは、人徳があってのことと考えられ、これをもって、人徳の神の代表とする。 その神秘の神様が御座すところは近鉄奈良線永和駅の雑踏から北に百メートルほど入ったところにある。西に少し行くと城東貨物線が通っている。 福禄寿とあとの寿老人をあわせて南極老人と呼ぶこともある。 福禄寿は道教で祀る星宿の化身であり。また「七福神伝記」なるものによると人命をつかさどるとされる南極星の化身であると云う。すなわち「南極老人」のことである。 この「南極老人」とは何ぞや?これまた「風俗記」なるものによると、この老人が出現したのは宋代の元祐年間(一〇八六〜一〇九四)、その姿は短身で、頭部と胴体の長さがほぼ同じ。と云うからそ〜とうな長頭である。まさに福禄寿そのものである。 聖徳太子開基とあり、初め百済国より帰化の法師が住持供養していたので山号を百済山と云う。 お寺の由緒書きによると「江戸時代中期末に徳行・教化・学問のいずれの面でもわが国の仏教史上稀有の偉人である高僧、慈雲尊者がこの寺に移ったころは、粗末な小堂の荒れ寺で高井田の土地も殆ど海抜ゼロメートル、湿地も多い田舎であった。従って現在の立派な本堂や庫裡などは尊者やその高弟たちによって構えられた」とあり、本堂西に一願不動が奉られている。 さて、目的の朱印はあらかじめ電話しておいたので、遅い時間にも関わらずすぐに頂けました。
《椋樹山大聖勝軍寺》 毘沙門天(奥さんは吉祥天)はインド出身の威厳を持つ戦勝の神様であり天の意志の象徴とされる。 仏教における毘沙門天は、持国天王・増長天王・広目天王・多門天王、以上四天王の一人、梵語訳の「多門」である。このことについて私は以前、編集部のTさんからお聞きしたことがあり、いずれ翁がより詳しく語られるかと思います。 三つの大きな城を持ち蓮花の香りが漂う処に住む毘沙門天は、多勢の従者を持ちその威徳はすぐれたものがあるという。 崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が対立し、聖徳太子が馬子に味方しここを中心として河内一円を鮮血で染める一大悲劇が展開され、物部守屋に征討されそうになった時、白膠(ぬるで)の木で四天王を刻み頂髪に置いたところ、戦勝したと伝えられ、太子戦勝を得られたゆえをもって「大聖勝軍寺」の寺号を賜うと日本書紀・聖徳太子伝にある。 私などは小学生の頃境内でよく遊んだ懐かしいお寺である。と勝手知ったる何とやらではないがずずいっと入ると、正面本堂の奥に巨大な講堂の瓦屋根棟両端に据えられた魚尾形の金色に輝く塊尾が眼にはいる。納経所で頂いた朱印も立派なものであった。現在の住職は、以前奈良の畝傍高校にいらしたとか。
《向原山西淋寺》 恵比須 唯一日本生まれの清廉の心を持った商売繁盛・大漁の神様。 ご存じ風折烏帽子に狩衣、釣竿を肩にかけこ腋に鯛をかかえた姿であり、神話による「イザナギ」「イザナミ」の三男として生まれた夷三郎が恵比寿さまである。九州は日向の里で生まれ、事情があり小舟にゆられ摂津西宮の武庫の浦に流れ者いたとさ。 「えらいはっきり判ってまんねんな〜。」 商売繁盛の極意を教える恵沈寿さまは、釣竿一本で鯛を釣る。「釣りして網せず」と云うところか。 国道一七〇号線(外環状線)を近鉄古市駅の方向に向かうと東高野街道である、きれいに整備された石畳の道に入ることができる。近鉄の踏切を波り東南へと続くこの旧街道の石畳が途切れる少し手前にめざす西林寺はある。 日本併寺の最初也。飛鳥時代の創建、当時は金堂・講堂・五重塔・廻廊・鐘堂・食堂・僧坊等七堂の大伽藍を具備し、東西一町、南北二町の大寺であった。とあり、飛鳥様式最大で円形の柱穴側面に舎利穴がある「五重塔心礎」が残る。 美しく整備された境内で、朱印をいただく際も親切に応対してくださった。 さて、後半は河内あすかも南河内に移っていよいよ佳境に入ります。
《薬樹山延命寺》 寿老人中国出身の長生きを願う長寿の神様。 七福神考に「その形端正にして仙老の像、しかも鹿を愛す。」とあり、均整のとれた姿で、鹿を従えた白髪で杖を持った老人である。 福禄寿の「長頭、お供に亀や鶴」に対し、こちらはあまりにも二枚目でスマートすぎて個性がないのか、寿老人の代わりに狸々や吉祥天を加えることもある。 狸々は先に述べたとうりであり、吉祥天はこれまた梵語訳で「幸運の女神」。 インド神話の「ラクシユミー」と云う女神さまです。 この神様には「アラクシユミー」と云う妹がいます。吉祥天に対し異聞天(こくあんてん)は「不吉の女神」で、この姉妹はいつも一緒でけっして単独では行動しないとか。よって好運を取り込もうとすれば必ず妹もついて来るのでその人の見方によって、福の神にもなれば貧乏神にもなるおはなし。 「恐い話でんなあ〜。」 ちなみに、桜で有名な吉野山の蔵王堂では節分の豆まきは「福は内、鬼も内」だそうです。理由は追い払った鬼がよそで悪いことをしてはいけないのでお経で改心させるのだとか。 話が脱線しましたが・・・「ずっと脱線しとるやないか!」 この辺りは、楠氏の領地であり尚も遡れば、前回この項で紹介した鬼住伝説の残る地名、神ケ丘である。ちなみに鬼退治の場所を「九頭神の森」、昭和二九年までは「鬼住」であったとさ。 弘法大師が建立し、自ら地蔵菩薩の尊像を刻んで本尊とされたのが起こりであると伝えられる。 また、楠正成の叔父にあたる和田和泉守橘正遠の墓碑があるこのお寺は、天然記念物で樹齢千余年、幹囲り五メートルの「夕照の楓」と呼ばれる弘法大師御手植と伝えられる古楓の名刹でもある。石段を上がって行き山門をくぐる、ひんやりとした空気に包まれている東側正面はるか奥に毘沙門堂があり、見上げると夕暮れの月が白く浮かんでいた。 く−!寒い。
《龍池山弘川寺》の大黒天、これまたインド出身の知足の心を持つ豊作の神様で、世界の創造神・維持神また破壊神をルーツとしているのことから、生命そのものの働きの象徴である。(日本生まれの説も)この働きが自然現象となって現れるとき「黒雲」となり雨を降らし恵みを与え、怒りの雨に変われば大地を流し破壊してしまう。 西行法師と桜で有名なこのお寺の境内には「やすざくら」と呼ばれる桜の古木があり、楠氏の一族隅屋与市正高がこの樹の下で自刃した。前年、本誌の「春を訪ねて桜マップ」にも登場したが、約三・五ヘクタールにおよぶ桜山の周遊路に沿って江戸時代の歌人似雲の古墳、その似雲によって発見された西行墳、西行堂と山を下り、本堂の両側に鎮守堂・御影堂・地蔵堂・護摩堂・鐘楼堂、その下に西行記念館、本坊の庭園が広がり境内は南北朝の頃の要塞を偲ばせる桜山の山腹に展開する。 また、河内守護畠山政長がこのお寺に拠り、弟義就がこれを攻めて焼失させたが、本尊薬師仏はじめ弘法大師像・空寂上人像・勅額らは兵火をまぬがれ現存安泰。尚、西行記念館の会館期間は春の四月一日から五月十日と秋の十月十日から十一月二十日に限られる。 大黒天は破壊の神・戦闘の神なり。とされる大黒さんも日本では厨房の神様として親しまれています。台所の神そのいきさつは、大黒さんの起源であるインドでその昔、仏教寺院の厨房にマハーカーラ(大黒天)が祀られていたからだと云う、それが中国に伝わり平安時代の伝教大師最澄(天台宗開祖)がそれを踏襲したわけです。 余談になりますが、僧侶の妻、すなわち梵妻を「だいこく」と呼ぶのもここからきたとか。 では、大国主がどうして大黒さんか?「だい・こく」「大・黒」「大・国」、バンザーイ!大喜利やないんやで。 インドの厨房に祀られていた大黒天も金嚢を持っていたそうです。なお、大黒さんの縁日が甲子〈きのえね)にあるのもネズミが大国主命を救ったことに由来する。
《神下山高貴寺》さんちの弁財天。インド出身の愛敬を振舞う学問・財福の神様は女性。天の象徴の毘沙門天に大黒天が雨を降らし、その水を湖となって受け河川の流水が功徳となって人々を豊に導くこれまたありがた〜い神様。 弁財天の前身はサラスヴアティー女神で、インドのサラスヴアティー河を神格化したものだそです。この女神の名前は梵語で「水をもつもの」と云う意味で弁天さんイコール「水の神格化」と云えそうです。しかしさきに書きましたように弁天さんは学問・財福の神様になっています、まあ字ずらからすると「弁財・弁才」どちらも当てはまるのですが、海辺など水に近いところのほこらに安置されているのが本来の弁天さんの姿でしょう。 またまたややこしい話ですが、弁財天と吉祥天それにガンガーと云う三人の女神、もとはヴィシユヌ神(ヒンドウー教の宇宙の維持神)の妃だったのです。 ところでお寺の由来を見ると、約千二百年前役小角によって開かれ、はじめ香花寺と称し後に空海が来山、密法修行中、高貴徳王菩薩を感得され高貴寺と呼ぶ。九世紀初、堂塔大いに整い、のち十一・二世紀まで法燈四方に輝いた、とある。 その後、元弘元年兵火にかかり焼失した。以来寺運振わぬまま近世に至った。 しかし、江戸後期に慈雲尊者が住するに及んで、僧坊を整備して正法律宣布の根本道場とし、全く面目を一新した。 慈雲尊者は当時の仏教を、釈尊の正法にかえさんとの大願から、梵字梵学の研究、袈裟の改革、僧侶の育成、上下僧俗の教化など不朽の大業を残した。 境内には、さきの高僧たちにまつわる仏像、遺墨など多数残されている。 最後にひとつギリシャ神話から・・・その昔ミダスと云う王様は自分が触れた物はすべて黄金に代える力をもった、そのために水も飲めず食事もできない。 手で触れるもの口をつけるものすべてが黄金に代わってしまうからである。 何事もいきすぎると災いに代わるものである、幸福も度が過ぎると不幸なのかもしれません。 福の神と厄の神は裏表・・・ほどほどが一番。 七福神信仰とは元々古来より信仰されていたこれらの神様たちが、室町期に一同に集まって出来たもののようであると、ちゅういんがむは結論付けたのであった。 各社寺の由来等を参考にさせて戴きました。(1996年記) Copyright 2000-2008, (C) CHEWINGUM. All rights reserved. |
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