バスク


バスク・ナショナル・フラッグ

こh
バスク国歌Eusko Ereserkiaを聴こう


国歌の楽譜です。

バスクとは?
フランスとスペイン両国にまたがるピレネー山脈西端麓の地方名。バスク語を話すバスク人の居住地域。フランスではペー・バスク Pays Basque(バスク地方の意)、スペインでも同様にパイス・バスコ Pais Basco、またはバスコンガダス Vascongadas、バスク語ではエウスカディ Euskadiとも呼ばれる。フランス側はラブール、バス・ナバル、スールの旧3地方に相当するピレネーザトランティク県のバイヨンヌ郡とオロロン・サント・マリ郡西部を占め、人口は約20万。スペイン側はギプスコア、ビスカヤ、アラバ3県からなるバスク自治州(面積7261平方`、人口213万4967)とナバーラ自治州(面積1万421平方`、人口50万7367)の範囲にわたる。

自然・産業
フランス側はピレネー山脈北西麓の標高2000b以下の丘陵地帯を占め、気候は温暖湿潤で、ヒツジ、乳牛などの牧畜とトウモロコシ、ブドウなどの農業が行われる。海岸部では漁業と観光業が盛ん。工業は中心都市バイヨンヌに集中する。スペイン側は起伏に富むが、カンタブリカ山脈とピレネー山脈の間の陥没地であるため、ほとんど1500b以下である。フランス側同様、温和な西岸海洋性気候のため、牧羊や酪農、農業(トウモロコシ、ライムギ、ジャガイモ、野菜など)が盛ん。スペイン北部最大の都市ビルバオを中心とする工業地帯には人口が集中し、金属、機械、化学などの工業が立地する。この人口集中地域では非バスク人が増加し、住民の約40lに達している。

住民
バスク地方には、スペイン側に約265万人、フランス側に約35万人が住んでいるが、今日では、このうちスペイン側の約60万人、フランス側の約4万人がバスク語を話せるにすぎない。このほか南北のアメリカ大陸(アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、ベネズエラ、メキシコ、カリフォルニア州、カナダ)には、移住したバスク人の子孫約10万人が暮らしている。
バスク人の起源については、イベリア系、カフカス系、ベルベル系など諸説があり、定説はないが、体型(前後に長い長頭)、古説などからみて、バスク人の一部は、クロマニヨン人の末裔であるとの説が提唱されている。血液型では、アジア人に多いB型が僅少(AB型を含めて2%)、北欧人に多いA型もかなり少なく(34〜41%)、純粋型を示すO型が圧倒的に多い(57〜64%)ので、最もヨーロッパ的であるといわれる。また、身体的にも特徴があり、平均身長は160〜170ab、顔は三角ばっており、肩幅は広く、腰部は狭い。牛やヒツジの飼養(ヒツジの移牧はかなり減少)、トウモロコシの栽培(孤立した住居の周囲で行われる伝統的家族経営)、漁業(クジラ、イワシ)などに従事している人々も少なくないが、今日では、観光(バイヨンヌなど)や鉱工業(ビルバオなど)に従事している都市住民が圧倒的に多くなっている。
16世紀以降に創作された伝承文学、中世の神秘を想起させる田園詩、滑歩(パ・グリセ)、デカジェ、ロン・ド・ジャンプなどの組合わせで、大地や宇宙との接触をリズム感で表現した民族舞踊、中世のポーム球戯から生まれた、テニスのように壁に向かって敵味方が打ち合うペロタ球戯(ハイアライ)など、文化面でも豊かであり、ベレー帽はバスク固有の風俗としてあまりにも有名である。

スペイン・バスク
スペイン側のバスク地方は、ギプスコア Guipuzcoa、ビスカヤ Vizcaya、アラバ Alava、ナバーラ Navarraの4県からなる。面積1万7675平方`、人口265万。バスク語を日常語とする人口の割合はギプスコアで44%、ビスカヤで16%、アラバで9%、ナバーラで11%である。
カスティーリャとは対照的な国土で、雨が多く、なだらかな丘の間をぬって澄んだ小川が流れ、緑の牧草地がひろがっている。しかし、同時にここはカタルーニャと並ぶスペイン有数の工業地帯で金融業、商業も栄え、全国の国民所得でも上位を占めている。その中でナバーラ県は旧ナバーラ王国の領域と合致し、他の3県とは地方自治(1979年10月承認)において同一歩調をとっていない。バスクという統一的な呼称はローマ人による前1世紀のバスコニア Vasconia(ラテン語)に始まり、バスク人自らはエウスカルドゥナク Euskaldunak(エウスカラ Euskara(<バスク語>の意)を話す人々)と呼んでいた。現在の同地方を総称する形であるエウスカディ Euzkadi(Euskadi)は19世紀後半からの民族運動の開始とともに登場した新造語である。それ以前では16世紀ころからバスコニアにあたるエウスカレリ EuskalHerriが使用され、現在にいたっている。Pais Vascoもフランス語Pays Basqueのスペイン語訳で、近代国民国家の命名法に基づく。
現在のスペイン側の地方自治制のもとで統一的行政体になる以前には、バスク地方の総称の変遷に見られるように、同地方独自の統一はなかった。それゆえにバスク地方とは広義には<バスク語が話される地方>を指し、言語の占める比重が大きい社会であった。

歴史
伝説上はノアの箱舟の一団で当地に漂着したアイトールAitorをバスク人の先祖とし、その7人の息子の名が7地方名である。歴史的にはインド・ヨーロッパ語系諸族の侵入以前からピレネー山麓に定住した民族が起源で、旧石器時代後期の遺跡が現存する。史上初めてバスク人が記録されたのは、ローマ人がイベリア半島に侵入し、カンタブリア人を攻撃した際にバスク人が協力したときである(前1世紀)。ローマ支配はナバーラ、アラバ両地方の南部までで、海岸部であるカンタブリア地方へはローマ化が及ばなかった。5世紀にはバスク人はゲルマン人がピレネーを通過するのに抵抗したが、ついにその一派西ゴートに服属した(7世紀)。8世紀初め、南からのアラブの侵入はナバーラに及び、これに対抗してピレネー北側のフランクがイベリア半島に侵攻した。フランクは7世紀初めからピレネー北側を中心にアキテーヌ公領、さらに南側にはナバーラ辺境領を設置していた。778年カール大帝軍はアンダルス遠征の帰途、ロンセスバリェスでバスク人に襲撃され敗走した。フランクとアラブ双方に対する戦闘の中でバスク人の統一意識が高揚し、ナバーラ辺境領を基盤にバスコニア公領が成立し、その支配はアキテーヌまで及んだ(9〜11世紀)。その中から905年サンチョ・ガルセスがナバーラ王国を創設した。この王国はパンプローナを中心にバスク地方の中核となり、11世紀初めサンチョ3世(大王)の時代にその基盤が強固となった。周辺地域にもナバーラは影響力を及ぼし、アラバを支配下に置き、これを先導役にギプスコア支配をカスティーリャ伯国と争った。1016年ナバーラはカスティーリャとの境界の画定によってバスク地方すべてを領有した。その中でもアラバ支配の外にあったビスカヤは領主イニコエスパスの下に独立し(1033)、その後ギプスコアもカスティーリャ側につき、1200年これに服属して自治権を保持した。
1134年、一時弱体化しアラゴン王の統治下に入っていたナバーラ王国が復興し、シニンキスタ(国土回復戦争)推進に重要な役割を担ったが、サンチョ7世の死後、統治者がなく、フランスの三つの伯家が統治した。1512年カトリック王フェルナンド2世がナバーラ王国を征服、併合し、ナバーラ王国は立法、行政、司法の各機構を残す副王制下に置かれた。ビスカヤ領主国もすでに1379年にカスティーリャに併合され、カスティーリャの王がビスカヤ領主を兼任するようになっていた。しかし、バスクの各地方はカスティーリャ支配下で地方特権を保持し続けた。
ビスカヤとギプスコアには、ラテン語、バスク語で金属類に関する単語が多く見られる。古代から貴金属類の産出がみられ、12〜15世紀には製鉄が行われていたことが特許状の存在からも明らかとなっている。また9世紀ノルマン人がビスケー湾岸へ到達し、バスク人は彼らから航海術を習得した。伝統的な農牧業、漁業に加え、中世には鉱業、木材の運搬に伴う海運業が栄えた。さらにビルバオを中心にカスティーリャの羊毛やブドウ酒がネーデルラントをはじめヨーロッパへ積み出された。13世紀終りにビルバオには羊毛取引の特権組合が設立され、また王立の造船所が建設された。航海術と海戦の知識に長じたバスク人は無敵艦隊に参加し、大航海時代に船員として活躍した。このような海外との交易・交流の素地はさらにアメリカ貿易と結びつくことで開花した。15世紀カスティーリャ王の特権を盾にブルゴスがカンタブリア貿易の独占をもくろむと、ビルバオはこれと協定を結び競合することで勢力を伸張し、1511年にじゃコンスラード(海事領事所)の設立を認可された。セビージャの通商院を介してアメリカ貿易に参加したビルバオに加えて、1529年カルロス1世によってカスティージャの貿易独占が一時解除されると、サン・セバスチャンやバイヨンヌなどのビスケー湾岸の諸都市もアメリカ貿易の認可を得た。
16世紀後半から17世紀にかけてスペインは全般的に衰退し、バスク地方でも農業は不振であった。しかし海岸部とくにビルバオは造船を中心に経済的活況が継続し、ビスカヤ、ギプスコアではヨーロッパ各国からの注文がある武器製造業が繁栄した。18世紀ブルボン朝時代になるとスペイン全体の経済も復興し、アメリカ貿易が特権会社の下で行われると、バスク地方の特権会社も活動を始めた。ギプスコアの<カラカス会社><フィリピン会社>がそれであった。保護体制下での活動は資本蓄積に役立ち、これを基盤に1765年にはバスク経済の指導者の集りである<国の友協会Real Sociedad de Amigos del Pais>が設立された。啓蒙主義の影響によるこの活動は全国にも及び、各地に同様の組織が設立された。
フランス革命、ナポレオン軍のスペイン侵攻は、自由主義思想の普及、さらに自由主義勢力の台頭による中央集権的統一国家観の導入に役立った。自由主義者と伝統主義者の対立は中央と地方の対立でもあり、1833年カルリスタ戦争の勃発は地方特権の擁護のための戦いとなった。バスク地方のカルリスタ(伝統主義者)は敗北し、41年、地方諸特権は廃止された。それ以後2度の蜂起も76年には鎮圧され、バスク地方はスペイン国家へ完全に統合された。ただし、ナバーラは副王制下の形態を残す特権体質を維持し、その他3地方は経済特権を一部残した。この経済特権はビスカヤとギプスコアの自由主義ブルジョアの結合を進めた。一方で敗北したカルリスタ勢力はナバーラを中心に内陸の農村部に退き、都市部の自由主義ブルジョアの躍進とは対照的であった。中央政府の保護政策のもとで従来から蓄積された金融・商業資本は産業革命の波及とともに製鉄業に投下され、隣接するアストゥリアス地方やイギリスの石炭とバスクの鉄鉱石が結合し、バスク地方は全国で屈指の重工業地帯に脱皮していった。工業化とともに伝統的なバスク社会は変化し、工業労働者として旧カスティーリャ、ガリシアなどの非バスク人が大量に移入してきた。バスクの習慣および社会破壊の危機感は反自由主義とカトリシズムに立脚した民族運動を引き起こした(1894)。その創始者S・アラナ・ゴイリは地方特権の回復、民族・言語の防衛を訴え、その後、地方自治運動へと転化した。その一方で工業労働者を中心に社会主義労働運動が展開され、これらはバスクの二大大衆運動として勢力が拮抗している。
 今日の地方自治体制の前史は、1931年第二共和国成立から本格的に見られた。この時代に地方自治の要求は中心的政治課題となり、民族主義政党(バスク民族党=PNV)のみならず、社会党を中心に左翼勢力もこれに取り組んだ。36年7月、内戦が勃発すると、社会党とPNVの主力政治党派は共和国の防衛を支持し、10月バスク自治憲章が成立すると、バスク自治政府が樹立された。この時点でナバーラとアラバの一部はフランコ陣営にあり、憲章第1条に明記されたバスク国はアラバ、ギプスコア、ビスカヤの3県であった。37年6月フランコ陣営がビルバオを陥落させると、バスク政府は亡命し、同月23日ビスカヤとギプスコアの地方特権は破棄され、フランコ側にあったナバーラとアラバはそれを維持した。これ以後のフランコ時代において民族運動は弾圧され、バスク語の使用も禁止された。一方では基幹産業の復興は中央政府の資本の集中投下により達成され、旧来からの中心地域のビスカヤとギプスコアに加えて、アラバでも重工業が発展した。穏健な地方自治要求をするPNVに対し、分派した<バスク祖国と自由>(ETA、1959創設)は根強いバスク人の独立要求とフランコ体制への不満に支えられ、暴力革命によるスペインとフランスの両バスクの統一を目指すゲリラ集団として活動し、テロ行為により社会不安を惹起した。75年フランコの死後の「ゲルニカ憲章」で自治が復活した(79年10月)が、その後もさまざまな問題を抱えているバスク地方である。

歴史年表
太字がバスク関係
旧石器後期
洞窟文化、フランコカンタブリア、イスパノアキテーヌ文化圏
新石器
ドルメン等、巨石文化の時代
紀元前6世紀
ケルト民族、ピレネー山脈を通過
紀元前3〜2世紀
ローマの侵入
紀元前133年
ヌマンシア陥落
紀元前19年
ローマによるカンタブリア・アスティリアス平定
409年
ゲルマン民族、最初のイベリア半島侵入
414年
西ゴート侵入、バスク人と戦う
448年
西ゴート、アラバ、ナバーラの一部を占領
7世紀
バスコニア伯領成立
711年
アラブ人(イスラム教徒)のイベリア半島侵入始まる
718年
イルーニャ(現パンプローナ)を中心に領域支配が確立
778年
ロンセスバリェスの戦い
905年
サンチョ・ガルセース、ナバーラ王国創設
920年頃
バスク地方はナバーラ王国の領土に入る
1016年
ナバーラ王国、カスティーリャ伯国の間に境界画定(バスク全土はナバーラに含む)
1033年
イニゴ・ロペスによりビスカヤ領国自立
1076年
ナバーラ王国、アラゴン王の統治下へ(〜1134年)
1134年
ガルシーア5世、ナバーラ王国をアラゴン王国より解放
1187年
ナバーラ王サンチョ賢王、ビトリア創立
1200年頃
ギプスコア、カスティーリャ王国に服属
1212年
ラス・ナバス・ラ・トロサの戦い(ナバーラ王サンチョ7世参加)
1379年
ビスカヤ領国、カスティーリャに併合
1474年
イサベル、カスティーリャ王に即位
1479年
フェルナンド、アラゴン王に即位(スペイン連合王国成立)
1483年
カスティーリャ女王イサベル、ゲルニカの宣誓
1492年
グラナダ陥落
1511年
ビルバオに海事領事所設立
1512年
ナバーラ王国、アラゴン王国に併合
1513年
ナバーラ王国、カスティーリャ・アラゴン連合王国に編入(副王制となる)
1516年
カルロス1世即位
1529年
カスティーリャの貿易独占解除、ビルバオ、サン・セバスティアンの新大陸貿易参加
1530年
カルロス1世、バス・ナヴァールの領有を放棄(フランス領へ)
1589年
アンリ・ド・ナヴァール、フランス王に即位(アンリ4世)、フランス側ナヴァールのフランス併合
1728年
カラカス、ギプスコア会社設立
1765年
カルロス3世、アメリカ貿易の自由化
バスク友好協会設立
1789年
フランス革命
1793年
フランス革命軍に対し、ギプスコアとビスカヤが同盟して戦う
1795年
フランス軍、ビスカヤ、アラバ、ナバーラへ侵入
1807年
6月、ジョセフ・ボナパルト、ホセー1世としてスペイン王即位
10月、ナポレオン軍、イルンへ侵入
1808年
アランフェス暴動
独立戦争勃発
1810年
2月、ナポレオン地方議会の廃止、ビスカヤ、アラバ、ギプスコアに各地方政府設立。
9月、カディス議会開設
1812年
3月、1812年憲法制定
1813年
ギプスコア、ビスカヤの地方評議会、カディス議会に参加、スペイン国境をビダソア川までとする。
6月、ビトリアの戦い
8月、サン・マルシアルの戦い(フランス軍スペインより撤退)
1814年
3月、フェルナンド7世、帰国(王政復古)
1820年
1月、リエゴの叛乱。
3月、12年憲法復活
4月、神聖同盟のフランス軍侵入(王政復古)
1832年
10月、フェルナンド7世、皇后マリア・クリスティーナを摂政とする
1833年
3月、王帝カルロス(5世)、ポルトガルへ追放。
9月フェルナンド7世死去。
10月、カルリスタ戦争勃発。イサベル2世即位。カルロス、王位継承者を宣言。
1834年
7月、カルロス5世、ナバーラよりスペインに入る
1835年
6月、カルリスタ、ビルバオ包囲。
7月エスパルテロ、包囲を解く
9月、永代所有財産解放始まる
1837年
5〜10月、カルリルタ軍、カスティーリャ侵入。
9月、マドリードへ接近。
10月、バスクへ退却
1838年
カルリスタのカブレーラ将軍、カステリヨン県を占領
1839年
ベルガラ協定
1840年
5〜7月、カブレーラ軍、エスパルテロに敗北
1841年
10月、バスク地方の諸特権廃止
1843年
10月、イサベル2世親政始まる
1847年
5月、カルリスタの動き、再び活発となる
1848年
カタルーニャ地方でカルリスタ運動、復活(49年4〜5月、鎮圧)
1853年
9月16日勅令で南米への渡航禁止
1855年
3月、カルロス5世、イタリアのトリエステで死去。
5月、総永代所有財産解放令施行
11月、ビルバオ銀行創立
1860年
3月、タラゴーナでカルリスタ叛乱
1868年
9月、1868年革命勃発
10月、革命評議会設置
1870年
11月、アマデオ即位
1873年
2月、アマデオ退位、第1共和政成立
7月、カルロス7世、王位を要求してナバーラへ入場
1874年
1月、パビーヤ将軍の蜂起(王政復古を要求)、アルフェンソ12世即位宣言
1876年
2月、カルリスタ鎮圧、カルロス7世、フランスへ逃亡。
7月14日法により、バスク地方の特権が全面廃止となる(バスク地方のスペイン国家への統合
1879年
5月、スペイン社会党創立
1885年
11月、アルフォンソ12世死去
1886年
5月、アルフォンソ13世誕生
1888年
サビーノ・アラナ『ビスカヤ語初級文法』の一部を出版
8月、UGT設立
1889年
ビルバオ市議会に4人の社会主義者当選
1890年
5月、第1回メーデー開催
1892年
3月、カタルーニャ地方主義運動家プラト・デ・ラ・リバ「マンレーサ綱領」発表
1894年
サビーノ・アラナ、バスク地方主義運動を始める(バスク民族党=PNV=の創立)
1898年
アスレティック・クラブ結成
サビーノ・アラナ、ビスカヤ地方議会に当選

4月、米西戦争勃発

フランス・バスク
フランス側のバスク地方は18世紀に、