《 目次 》 |
T.第一章の要約
一節 二節 三節 四節 五節 六節 七節 八節 九節 十節 十一節 十二節 十三節 十四節 十五節 十六節 十七節 十八節 十九節 コメント
T.第一章の要約
『知識』の第一章の説いていることを簡単に要約するなら、次のようになります。その流れをつかんでおいてください。
人は皆、幸福を願っているが、現実はそうではない(1)。
神は、人が幸福になることを望んでいるが、その鍵は「知識」にある(2)。
その「知識」は、「神についての知識」であり、神は偉大な知識を持っている(3)。
神は、その「神についての知識」を聖書を通して教えている(4)。
私たちは、人間の思考ではなく、神の言葉にその知識を求めねばならない(5)。
イエスは、神についての知識を取り入れることが永遠の命である、と言われた(6)。
すばらしい被造物である人間が、死をもって終わることなど、神は望んでいない(7)。
イエスからパラダイスのことを聞いた犯罪人は、エデンの園のことを思い出したはずである(8)。
アダムは、自分が住んでいたパラダイスを、地球全体に広めていく使命を与えられた(9)。
楽園には、病気、老齢、死はなく(10)、犯罪や暴力、悪もない(11)。
それは平和な社会であり(13)、衣食住は、満たされており(14-15)、大きな喜びがある(16)。
神は、この地を楽園にする時を定めており、どうしたらそこに生きられるかを教えている(17)。
「神についての知識」は、人生への解答、神との関係の育成、平和の享受、などを与えてくれる(18)。
聖書は、人間の知恵による書ではなく、それより偉大な書物である(19)。
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第一章の中心的なメッセージは、人間には、地上の楽園において、永遠に生きる見込みが与えられている、ということである。
この一章が引用している聖句は、次のとおりである。
箴言2:5、ヘブル3:4、詩篇147:4、マタイ10:30、Uテモテ3:16、詩篇103:14、イザヤ48:17、ヨハネ17:3、ルカ23:43、創世記1:28、イザヤ55:10-11、イザヤ35:5-6、啓示21:3-4、詩篇37:9-11、箴言2:22、詩篇46:9、詩篇72:7、イザヤ65:21-23、詩篇72:16、詩篇67:6、詩篇37:29、イザヤ35:1、ダニエル2:44、Uペテロ3:13、Tヨハネ2:17、ローマ15:13、15:33
これらの聖句のどれか一つでも、次のようなものみの塔の教理を教えているかどうか、チェックしていただきたい。
@ハルマゲドンの後に、地上の楽園が到来すること
Aハルマゲドンを通過して生き残ったエホバの証人が永遠に生きること
B旧約聖書の聖徒たちがその地上の楽園に復活すること
C「よいたより」を聞く機会のなかった人々が復活してくること
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この『知識』の第一章が説いている教えと関係があると思われる聖書の教えを、簡単に述べておく。一つ一つの聖句を開いて、その前後をよく読み、ここに書いてあることがほんとうに聖書の教えていることかどうか、確認していただきたい。
@神は祝福の神である(Tテモテ1:12、6:16)。神は、天地創造の前から、喜びのうちにご計画を建てられた(エペソ1:5の「みこころのままに」は直訳すると、「み旨の喜びの中で」)。その計画は、キリストのうちに私たちを選び、神の子にすることであった(エペソ1:5)。神の子になるとは、御霊を受けることであり(ローマ8:14-15)、その目的は、相続人となることにあった(ローマ8:17)。
A人間が被造物を支配することは、創造の目的であった(創世記1:28)。しかし、人間の堕落によって、そのことは虚無に帰した(ローマ8:20-21、ヘブル2:6-8)。そこで、神は、御子を人間として遣わし、苦しみを経験させて、人間創造の目的を実現する道を開かれた(ヘブル2:9-10)。
B聖書は、イエスを証詞しており(ヨハネ5:39)、知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを与えるものである(Uテモテ3:15)。私たちは、この聖書を通してしか、救いの道を知ることはできない。人間は、自分の悟りに頼ってはならない(箴言3:5、28:26)。むしろ、神の言葉を光として歩むべきである(詩篇119:105)。
C永遠の命は、イエスを信じる人に与えられる(ヨハネ3:16、36、6:40、11:25-26)。キリストを拒むことは、自らを永遠の命にふさわしくないものと宣言してしまうことである(使徒13:46)。この永遠の命は、キリストのうちにある命であり(Tヨハネ5:11)、キリストをもつときに持つことになる(Tヨハネ5:12、ローマ8:9)。だから、キリストを信じる者の中には、キリストが心のうちに住んでいる(ガラテヤ2:20、コロサイ1:27)。それは、クリスチャンの内に御霊が住んでいるということと同じである(ローマ8:9-11)。
Dこの永遠の命は、イエス・キリストの憐れみに基づくもので(ユダ21)、もし、永遠の命をもっていなければ、神の怒り(ヨハネ3:36)、裁きに会って(ヨハネ5:24)、永遠の忌みに入れらる(ダニエル12:2)。
Eイエスは、共に十字架につけられた犯罪人に、パラダイスを約束した(ルカ24:43)。イエスが約束したパラダイスは、遠い将来に起こる「地上の楽園」ではなく、天の御国であった(Uコリント12:2-4、黙示録2:7)。千年王国に復活し、教育を受け、それに合格したら、救いを与えるなどとは言われなかった。イエスは、極悪犯罪人にさえ、イエスを信じたが故に救いを約束されたのである。
Fパラダイスは、この地球上に、そのままできるのではない。イエスはこの地球が滅びることを明言している(マタイ24:35、マルコ13:31、ルカ21:33)。今の天地の滅びを前提とした話もしている(マタイ5:18、ルカ16:17)。「今の天と地は、滅びの日まで」である(Uペテロ3:7、10、12、ヘブル1:11)。神が約束しているのは、「新しい天と新しい地」である(Uペテロ3:13、黙示録21:1)。
Gクリスチャンが死ぬとは、肉体という幕屋を脱ぎ捨て、天からの住まいを着ることである(Uコリント5:1-4)。パウロは、キリストと共にいることの方がはるかに望ましい、と告白している(ピリピ1:23)。アブラハムをはじめとする旧約聖書の聖徒たちも、天に復活し(マタイ8:11)、新約聖書のクリスチャンたちと同じ救いに与る(ヘブル11:13-16)。否、正確に言えば、クリスチャンが与えられる世界の相続権は、アブラハムに約束されたものに他ならない(ローマ4:13、16、ガラテヤ3:18、29)。
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聖書は、「新しい天」と「新しい地」を私たちに約束している。それはどのような所であろうか。黙示録21:1-22:5をじっくり読みながら、私たちが行くべき場所に思いを寄せていただきたい。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」(黙示録21:1-4)
「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」(黙示録21:10-14)
「また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。「都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」(黙示録21:15-21)
「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」(黙示録21:12-26)
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示録22:1-5)
「
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1.エホバの証人は、ここに記されているような「愛する人の温かい抱擁。親しい友とおいしい食事を共にしながらの談笑。元気よく遊ぶ我が子を見守る喜び」を、ほんとうにすばらしいことだと考えていますか。私が出会った多くのエホバの証人からは、このような生活は、この世的なこと、霊的ではない状態、楽園の生活から見ると無価値なこと、といった印象を受けるのですが。
2.エホバの証人の信徒同志の間、あるいは神権家族の間では、このような姿、行動、状況が、他の人たちに比べ、際立った特色となっているでしょうか。証人ではない親戚、友人、学校のサークル活動やボランティアの仲間たちと比べてみてください。
3.エホバの証人は、このような生き方をしている証人以外の人々を見て、幸福な人たちだと感ずるのでしょうか。また、そう感じることを勧め、励ましているでしょうか。
4.「次々に起こってくると言われている深刻な問題」とは、具体的にどのような問題を考えたらよいのでしょうか。
5.「多くの人にとっては」と述べていますが、『知識』は、人生をこのように悲観的に見る人を、日本人の何パーセントぐらいに想定していると思いますか。
6.そのように悲観的に受けとめる人は、エホバの証人の中では、一般の人と比べ、多いと思いますか。それとも少ないと思いますか。
1.神のご意志が「すばらしい環境の中で、しかも最善の状態で、永続する幸福を味わうこと」にあるとは、聖書のどの聖句から言えるでしょうか。
2.『知識』は、「幸福な将来」を問題にしています。しかし、「幸福な現在」はないのでしょうか。
3.現在、「すばらしい環境」を生み出すように、「最善の状態で生きること」ができるように、「永続する幸福を味わうこと」ができるように、努力している人々に対して、神はどのようご意志はもっていると思いますか。
4.幸福な将来は「知識」がかぎなのでしょうか。神に関するある知識は必要ですが(前提としますが)、知識以上のものが必要なのではないでしょうか。聖書が「知識」を問題にしているようには思えません。どの聖句からそのような結論を導き出すことができるのでしょうか。
5.イエスは「幸いな人」について、マタイ5:3-11において、お話しくださいました。それは、『知識』が述べる「幸福な将来」とは大部イメージが違います。また、聖書は、いろいろな幸福を教えています。次の聖句は、何が幸福であるかを明らかにしています。聖書的な「幸福観」について考えてください。
自分の手の勤労の実を食べるとき(詩篇128:2)
神と契約を結んでいるとき(エレミヤ32:40-41)
神に裁かれない人(ローマ14:22)
神のことばを聞いてそれを守る人(ルカ11:28)
見ずに信じる者(ヨハネ20:29)
受けるのではなく与える人(使徒20:35)
行ないとは別の道で神によって義と認められる人(ローマ4:6)
不法を赦され、罪をおおわれた人(ローマ4:7)
主が罪を認めない人(ローマ4:8)
試練に耐える人(ヤコブ1:12、5:11)
義のために苦しむ人(Tペテロ3:14)
キリストの名のために非難を受ける人(Tペテロ4:14)
預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人(黙示録1:3)
主にあって死ぬ死者(黙示録14:13)
目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者(黙示録16:15)
小羊の婚宴に招かれた者(黙示録19:9)
第一の復活にあずかる者(黙示録20:6)
預言のことばを堅く守る者(黙示録22:7)
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者(黙示録22:14)。
1.箴言2:5は「神についての知識」について言及しています。箴言2:1-5は、どのようにしたらその知恵を見い出すことができると述べていますか。
2.箴言2:1-5で言われている「神についての知識」の内容と、この『知識』が教えている「神についての知識」の内容とは、同じだと思いますか。
3.本節の陳述において、「神についての知識」と「神が持っておられる知識」との間に混乱があります。箴言は、神に関して私たちがもっている知識を問題にしています。ところが本節は、「万物の造り主が持っておられるに違いない知識」を問題にしており、神が被造世界や人間に対してもっておられる知識のことです。「神についての知識」と言うとき、どちらを問題にしているのでしょうか。
4.詩篇147:4の「神が星に名をつける」という記録から、『知識』は神の知恵を問題にし、そのことを考えるように勧めています。しかし、詩篇147:4の「名をつける」とは、「支配している」という意味で、しかも、前後の文脈は、「その神を賛美せよ、礼拝せよ」と教えています。するとこの『知識』が主張している以上のことを聖書は教えています。単に考えるより、その神を賛美するよう励ました方がよいと思いますが、いかがでしょうか。
5.マタイ10:30によって、神が人間のすべてを知っていることを示し、「人生の重要な疑問に対してより良い答えを与えることができる人」は、神以外に存在しない、との論法は、回りくどいと思いませんか。また、前半は、個人の状態に対する神の認識を示す聖句ですが、後半は、人間の一般的な問題に関するものなので、少々ニュアンスがずれています。そう思いませんか。
6.むしろ、神は、人間に対してご計画をもち、人間の間に起こっているすべてのことをご覧になり、支配しておられるので、「人生の重要な疑問に対してより良い答えを与える」ことができるのではないでしょうか。
1.二人の車を修理している人の話は適切な例えでしょうか。男のどちらがメーカーの説明書もっていたという前提で話を進めていますが、二人とも説明書をもっていなかった場合もあるでしょう。あるいは二人とももっていたが、一人は説明書を理解できず、他の人は理解できたという場合もあるでしょう。説明書をもっていた人が意味を理解できず直せなかったけれど、もっていなかった人がそれまでの経験を生かして直すことができたのかもしれません。どちらかが、必要な道具がなかっただけなのかも知れません。例えを、ある事柄を理解するのに用いることはよいのですが、あることがらを論述する土台のように用いるのは、ふさわしくありません。そう思いませんか。
2.「道理にかなった」とは、一般的な感性に訴えるもので、不正確な陳述です。神が人間を創造したので、とか、神が人間に関心をもっているので、などと道理の中味を明らかにしないと、ものみの塔の信仰を前提とした論理と雰囲気の中で論理が展開されてしまうのではないでしょうか。
3.「聖書全体は神の霊感を受けたもので、教え、戒め、物事を正し、義にそって訓育するのに有益です。」(Uテモテ3:16)という聖句のどこが、「神についての知識を授けることを目的としている」という文章と関連するのでしょうか。「目的とする」と「有益である」とは違うと思うのですが。
3.聖書の目的については、むしろ、前節の、「その[聖なる書物]は、あなたを賢くし、キリスト・イエスに関する信仰によって救いに至らせることができます」という文章が明らかにしています。この『知識』の書物で教えていることと、大部ニュアンスが違うように思いませんか。
4.次の17節の「神の人が十分な能力を備え、あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるため」という文章も、聖書の目的を表しています。聖書が教えていることを、素直に読みとって、説くことが大切だと思いませんか。
1.「聖書に収められているに違いない、すばらしい知識の宝」とは、すぐ後で言われている「平安で幸福な生活を送るのに助けとなる教え」と同じでしょうか。それは具体的にどのようなものを考えているのでしょうか。
2.詩篇103:14は、「わたしたちの限界」について述べていますが、「わたしたちの必要」については触れていません。限界について主張している聖句をあげるのであれば、必要を教えている聖句をも、あげた方がよいと思うのですが、いかがでしょうか。
3.イザヤ48:17は、「神の民に益することを教える」と説いています。しかし、それは、「平安で幸福な生活を送るのに助けとなる教えを与える」ことと、ニュアンスが違います。また、次節の18節に、「平安」という言葉が出てきますが、この『知識』が言おうとしている中味とも違います。本節が、どうしてイザヤ48:17を引用しているのか分からないのですが。
1.「有名な歴史上の人物であるイエス・キリスト」という表現は、イエスに対するものみの塔の理解を適切に表現したものでしょうか。それとも、一般の人々がもっている理解におもねた言い方でしょうか。
2.「この特色」とは、何を指しているのでしょうか。前節の「わたしたちの胸の躍るような良い便り」を指しているように見えるのですが、そう解釈してよいでしょうか。そして、それは、イエスの言葉の中の「永遠の命」を指しているのでしょうか。
3.ヨハネ17:3の「知識を取り入れる」という言葉は、ギリシャ語のギノースコーです。この言葉は、ヨハネの福音書において、少なくとも50回出てきます。その中で、この言葉を「知識を取り入れる」と訳しているのはこの箇所だけです。他に、36回は「知る」(1:10、48、2:24、25、4:53、5:42、6:15、69、7:26、27、49、51、8:28、32、55、10:14、15、27、38、11:57、12:9、13:35、14:7、9、17、20、31、15:18、16:3、19、17:7、8、23、25、19:4、21:7)、「分かる」は7回(3:10、7:17、8:43、52、10:6、13:12、18)、「気づく」は3回(4:1、5:6、21:17)、「会得する」(8:27)、「気に留める」(12:16)、「理解する」(13:7)がそれぞれ一回づつです。新世界訳は、できる限り逐語訳を試みた、と標榜していますが、ギノースコーについては、当てはまるでしょうか。
4.ギリシャ語のギノースコーは、「人格的な交わりをとおして知る」というニュアンスが強い言葉です。従って、知性の働きにフォ−カスがあてられた「知識を取り入れる」という訳語では、原文のニュアンスが伝わらないのですが。
5.「永遠の命」はどのようにしたら手に入るのでしょうか。この『知識』で教えていることと、聖書が教えていることとは一致しているでしょうか。ヨハネの福音書が「永遠の命」について触れている箇所を、新世界訳聖書で引用してみますので、一つ一つの聖書箇所を開いて(できれば、新改訳か新共同訳をも)、じっくり考えてみてください。
- 3:15
- それは、彼を信じる者がみな永遠の命を持つためです。
- 3:16
- 「というのは、神は世を深く愛してご自分の独り子を与え、だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで、永遠の命を持てるようにされたからです。
- 3:36
- み子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている。み子に従わない者は命を見ず、神の憤りがその上にとどまっているのである。
- 4:14
- だれでもわたしが与える水を飲む人は、決して渇くことがなく、わたしが与える水は、その人の中で、永遠の命を与えるためにわき上がる水の泉となるのです」。
- 4:36
- 刈り取る者は報酬を受け取って永遠の命のための実を集めています。こうして、まく者と刈り取る者とは共に歓ぶのです。
- 5:24
- きわめて真実にあなた方に言いますが、わたしの言葉を聞いてわたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、その者は裁きに至らず、死から命へ移ったのです。
- 5:39
- 「あなた方は聖書によって永遠の命を持てるようになると考えて、それを調べています。そして、これこそわたしについて証しするものなのです。
- 6:27
- 滅びる食物のためではなく、永遠の命へとながく保つ食物のために働きなさい。それは人の子があなた方に与えるものです。父、すなわち神は、この者の上に[是認の]証印を押されるからです」。
- 6:40
- というのは、子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと、これがわたしの父のご意志だからです。わたしはその人を終わりの日に復活させます」。
- 6:47
- きわめて真実にあなた方に言いますが、信じる者は永遠の命を持っているのです。
- 6:54
- わたしの肉を食し、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。
- 6:68
- シモン・ペテロは彼に答えた、「主よ、わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます。
- 10:28
- そしてわたしは彼らに永遠の命を与え、彼らはいつまでも決して滅ぼされることがなく、だれも彼らをわたしの手から奪い取る者はいません。
- 12:25
- 自分の魂を慈しむ者はそれを滅ぼしますが、この世において自分の魂を憎む者は、それを永遠の命のために保護することになります。
- 12:50
- またわたしは、[父]のおきてが永遠の命を意味していることを知っています。それゆえ、わたしの話すこと、[それは、]父がわたしにお告げになったとおりに話している[事柄]なのです」。
- 17:2
- それは、あなたがすべての肉なるものに対する権威を[子]に与え、そのお与えになった者に永遠の命を与えるようにされたことに応じてです。
- 17:3
- 彼らが、唯一まことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること、これが永遠の命を意味しています。
1.『知識』は、神が人の体にすばらしい能力を与え、かつ、それに呼応する自然を創造されたことは、人間がそれらを永遠に享受することを望んでいるはずだ、と推論しています。そして、それは道理にかなっている、と主張しています。この推論は、「すばらしいものだから永遠に続くはずである」という論理に基づいており、飛躍があることは明らかです。つまり、論理的な飛躍を、「道理にかなう」という感性的に同意を促す言葉によって、埋めているわけです。あなたは、このような論述の背後にあるごまかしのメカニズムに気づきましたか。むしろ、聖書は、「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く」(Uコリント4:18、ローマ8:24)と教えているのではないでしょうか。
2.本節は、永遠の命を受けるのはこの地球上である、という前提に立って、論理を展開しています。この前提こそ、聖書の言葉によって、確証しなければならないのに、それをせず、議論を組み立てています。信仰とは、人間の理性が推論を重ねて組み立てた教えを信じることなのでしょうか。それとも、そのことについて、聖書が教えていることを、素直に読み取って信じていくことでしょうか。
3.『知識』の書物は、「道理にかなっているのではないでしょうか」と問いかけ、次には、「実際のところ、...意味し得るのです」と断定します。はじめに疑問を投げかけていますので、一見、研究生に考えさせようとしているように見えます。しかし、実際にはそうではなく、著者自身が答えを誘導しています。一応考えさせるポーズを取りながら、意図している方向にもっていく、これこそ、マインド・コントロールの手法であることに気づきましたか。
1.「地球と人間の将来」についての聖書の教えを、一言で要約すれば、「楽園」でしょうか。むしろ、地球の破滅と新しい天地の創造ではないでしょうか。イザヤ65:17、22、Uペテロ3:13、黙示録21:1などを開いて、考えてみてください。
2.新世界訳のルカ23:43は、「今日」という言葉を「わたしとともにパラダイスにいる」ではなく、「あなたに真実に言います」にかけています。ものみの塔聖書冊子協会出版のギリシャ語聖書王国行間逐語訳によって(あるいは、他のどのギリシャ語テキストでも結構です)、どこにカンマがあるか、確認してください。新世界訳のようにカンマを打っているいるテキストは一つもありません。新約聖書の権威者ゲルデンハイス教授は、「今日」を「真実に言います」にかけようとする人がいるが、「今日」という言葉が強調されているわけではないので、全くありえない、と述べています(Norval Geldenhuys; Commentary on the Gospel of Luke, (London:Marshall, Morgan & Scott, 1969) p.615)。このように、一般に信頼されている注解書のコメントに対し、新世界訳の翻訳委員会は、どのように答えるのでしょうか(本章の最後に、この問題に関するコメントを載せてあります)。
3.『知識』は、死の間際にある男が、「パラダイス」というイエスの言葉を聞いたとき、「アダムとエバの幸福な状態を思い出したにちがいありません」と述べています。何を根拠に「ちがいありません」などと言えるのでしょうか。
4.『知識』が、ここで、エデンの園を持ち出さねばならない理由を見破ることができますか。実は、ものみの塔の「地上の楽園」という教理は、イエスが語られた将来のパラダイスは、最初につくられた地球と関連があることを証明しなければならないのです。しかし、そのようなことを教えている聖句はありませんので、死の間際の男の想像の中に描き、「ちがいありません」と断定し、読者にあたかも関連があったかのような印象を与えようと努力しているのです。
4.一世紀のユダヤ人が、「パラダイス」をどのように考えていたか、辞典などで調べてみましょう。
1.「地球全体が美しく喜ばしい場所になるまで楽園の境を広げて行くことになっていました」という表現は、楽園ではない場所(美しくはなく、喜ばしくもない場所)が存在することを前提としている、と解釈してよいでしょうか。
2.もし、そう解釈するのでしたら、「神は自分の造ったすべてのものをご覧になったが、見よ、[それは]非常に良かった」というみ言葉(創世記1:31)と、矛盾するのではないでしょうか。
3.創世記1:28の「従わせる」という表現は、「管理する」という意味で、神ご自身が所有されている支配権を委ねたことを表しています。「美しく、喜ばしい場所にする」という理解は、この地球をパラダイスにしていく、というものみの塔の教理を前提にして、読み込んだものです。一つの言葉に、自分が教えたい内容やニュアンスを忍び込ませて議論を展開していくのは、欺きだと思いますが、いかがでしょうか。
1.「楽園」について、「イエスは将来のことを話しておられた」と言うのは正しいでしょう。問題は、その楽園の中味です。『知識』は、悪行者が頭の中で想像したであろう(このようなことは、誰も証明できない)「エデンの園」に結びつけて論じていることにあります。それは、言うまでもなく、エホバの証人が宣べ伝える「地上の楽園」がイエスが教えたものであることを読者に印象づけたいからです。『知識』が、いかに巧みに、聖書が教えていない教義を、聖書が教えているかのように見せるために努力しているか、お分かりになったでしょうか。
2.新約聖書には、ここ以外に、「パラダイス」という言葉は二回使われています。その一つは、Uコリント12:4です。それは「第三の天」と言われている場所で(12章2節)、「神の御座」のことです。もう一か所は、黙示録2:7です。そこで言われている「神のパラダイス」には、「いのちの木」があります。黙示録22:4から、この「いのちの木」があるのは、「新しい天と新しい地」です。また、イエスは、悪行者が「ご自分の王国に入られる時には、わたしのことを思い出してください」という願いに答えて、「パラダイス」という言葉を使いました。これらの状況を考慮するなら、イエスが言われたパラダイスは、イエスが王として支配する「神の御国」を指していることは明らかではないでしょうか。
3.何を根拠にして「イエスはこの地球という住みか全体が楽園になることをご存じでした」と言うのでしょうか。イエスが語られた言葉や教えの中から、この言明を確証できる聖句を指摘してください。もし、そのような聖句をあげることができなければ、『知識』は、イエスに対し、勝手な解釈をしている(自分が主張したいことをイエスに冠らせながら語る)ことになります。
4.イザヤ55:10-11は、神の言葉の確かさを教えています。しかし、この言葉は、バビロンからの解放を念頭に置いています。ところで、この『知識』は、「地球に対する神の最初の目的は楽園の拡大にあった」と説明し(聖書からそのことが証明されているわけではありません)、イザヤの言葉を、ものみの塔のその勝手な説明に当てはめているのです。結局、聖書が主張していないことをでっちあげ、そのこととは直接関係のない聖句を、もっともらしい理屈を見つけて、結びつけながら、議論を展開しているということなのです。このようにして教えている教義を聖書の教えと言うことができますか
5.「そうです。確かに楽園は回復されます」と、そのことを確証する聖句をあげずに、自分たちの主張を断定しています。あることを繰り返し、繰り返し聞き続けるなら、読者の頭の中には、そのことが事実として描かれてきます。しかも、それが、巧みに聖句の衣を着させられて提供されるなら、聖書が教えている真理であるかのように形成されます。ものみの塔が教える「地上の楽園」という教理は、このようにして、エホバの証人の頭脳にたたき込まれた「架空の真理」に他ならないのです。もう一度、聖書が「地上の楽園」をほんとうに教えているかどうか、聖句の一つ一つを注意深く、吟味していただけませんか。
1.イザヤ35:5-6は、終末にもたらされる神の国を描写しています。通常、福音的な聖書学者は、この預言を「千年王国時代の光景」と解釈します。聖書が教える「千年王国」と、ものみの塔が教える「地上の楽園」とは、いくぶんかの共通項がありますので、イザヤ35:5-6の聖句を、ものみの塔の「地上の楽園」というフレームで利用することは可能です。しかし、10節には、「シオン」が出てきますので、『知識』のようにこの箇所を文字どおりに解釈するのであれば、ユダヤ人の回復を基調とした千年王国に適用して読む方が、自然です。いかがでしょうか。
2.黙示録21:3-4は、1節と2節から「新しい天と新しい地」のことです。もし、これを現在の地球と考えますと、太陽も月もない(23節)、夜もない(25節)という描写と矛盾します。それに対し、ある箇所は文字どおり、他の箇所は象徴的に解釈して弁明するかも知れません。しかし、それでは、自分たちに都合のよいところは文字どおり、都合が悪くなれば象徴的、ということになってしまいます。そのようにすれば、自分が言いたいことを聖書を使って何でも言えてしまいます。そのような聖書解釈の態度は、正しいと思いますか。
1.『知識』は、詩篇37:9を将来の楽園の光景を示す句として引用しています。しかし、詩篇37編を、1節からじっくり読んでください。この詩篇が、ダビデの時代の「悪を行なう者」と「義なる者」について語っていることは明らかではないでしょうか。
2.9節は、「エホバを待ち望む者たちは、地を所有するものとなる」と述べています。ところで、8節で「怒りをやめ、激怒を捨てよ」と語りかけられている人は、ダビデ時代の人でしょうか。それとも地上の楽園に復活する人でしょうか。むろん、前者でしょう。すると、9節で語られている「悪を行なう人」も「エホバを待ち望む者」もダビデ時代の人です。すると、ダビデ時代に「エホバを待ち望む者」は「地を所有する」ことになってしまいますが、それでよいのでしょうか。ダビデ時代に「エホバを待ち望む者」は、千年王国時代に地上に復活し、その後、エホバに忠実に仕えれば、「地を所有する」、とものみの塔は教えるのではないでしょうか。
3.29節は、「義なる者が永久に地を所有する」と述べています。ところで、25-26節から、この「義なる者」がダビデの時代の人々を指していることは明らかです。としますと、ダビデ時代に「義なる者」である人が、地上の楽園を相続することになってしまいます。しかし、ダビデ時代の人は、どれほど正しく生きたとしても、死ねばそれで終わるのであって、「地を所有する」ことなど無い、というのがものみの塔の教えではないでしょうか。
3.ものみの塔は、詩篇37:10の「ほんのもう少しすれば」(新世界訳)を、間もなく「地上に楽園」が到来すれば、という意味に解釈します。しかし、このヘブル語「オッド・メアット」は、「しばらくの間だけで」(新改訳)という意味で、悪者の生存期間が短いことを述べているにすぎません(ヨブ20:5-11参照)。このような誤解は、前後の文脈を正確に読まず、組織が教えるフレームから聖書を解釈した結果起こる、典型的な例ではないでしょうか。
4.ものみの塔は、「地を所有する」という句を、「回復した地上の楽園に永遠に住む」、という意味に解釈しています。ヘブル語「ヤラーシュ・アーレッツ」に、そこまでの意味を考えるのは、ものみの塔のフレームからの読み込みです。その句の使い方の歴史から言えば、もともと、「約束の土地パレスチナを相続財産として受け継ぐ」という意味でしたが、「契約の祝福に与る」という内容に転化していった言葉です。詩篇37篇も、そのような意味に理解するのが最も自然だと思いませんか。
5.箴言2:20-22は、箴言2章の結論です。すると、1-19節に記されている正しいことを行なう人が「地に住み」、そうしない人は「地から断ち滅ぼされる」ということになります。もし、ここに出てくる「地」を将来実現する「地上の楽園」と解釈すると、この地上で箴言2:1-19の戒めを守るなら、将来、地上の楽園で永遠に生きられることになってしまいます。しかし、ものみの塔は、旧約聖書の人々は、たとえ、この箴言2:1-19を守ったとしても、死んでしまえば、それですべてが終わってしまう、と教えるのではないでしょうか。あるいは、「地に住む」を「千年王国時代に復活する」という意味に解釈して、つじつまを合わせようとするのでしょうか。
1.詩篇46:9を、将来起こるであろう「地上の楽園」を描いている、と考える根拠は、どこにあるのでしょうか。むしろ、神の絶対的な力、権威、勝利を宣言した表現、と素直に読むべきではないでしょうか。
2.もし、『知識』の書物のように解釈するのであれば、8節の「主は地に荒廃をもたらされた」(新改訳)も楽園の姿と解釈しなければならず、おかしいことになるのではないでしょうか。
新世界訳は、この8節を「神が驚くべきことを地に置かれた」と訳していますので、神がすばらしいことを行なった、と誤解するかも知れません。新世界訳は、ヘブル語シャマーを(8節は、複数形のため、シャモートとなっている)、通常「驚きの的」と訳出していますが、この語は「荒廃」、あるいは「恐怖」を背景としています。この言葉が、すばらしい驚き、あるいは、感嘆の驚きに対して使われているケースは、旧約聖書中には、ただの一か所もありません。
3.ものみの塔は、詩篇72篇を将来の「地上の楽園」のことに言及している、と解釈しています。はたして、その解釈は正しいのでしょうか。表題は誰について歌ったものとしていますか。また、20節は誰の祈りだと述べていますか。
4.この72篇は、理想の王について述べていますので、地上の王を越えた未来の理想の王(キリスト)を読み取ろうとする聖書の研究者もいないわけではありません。しかし、そのように解釈する場合でも、この詩篇の言葉の中に、どのくらい神の国の描写を読み取っていくかということは、慎重にしています。ものみの塔の聖書解釈は、そのようなつつましさが欠けているように思えるのですが、いかがでしょうか。
5.例えば、1節は「王」と「王の子」について言及しています。「王の子」とはその王の継承者という意味ですが、王をキリストと解釈しますと、王の子は誰になるのでしょうか。このことだけでも、「王」をすべてキリストと読んでいくと、問題が生じます。
6.さらに、この72篇を、地上の楽園の描写と読むなら、神の民の中にも苦しみが存在したり(2節)、苦しんでいる民や貧しい民がいること(4節)になってしまいます。千年王国とは、そのような場所なのでしょうか。
7.1-8節には、王に対する多くの祈りがささげられています。もし、ここに出てくる王がキリストであれば、ここでささげられている祈りは、既に実践していることであって、祈られる必要はありません。あなたは、そう思いませんか。
1.イザヤ65:21-22は、神の国の姿を描写しています。しかし、『知識』のように、「家を建てる」ということを、文字どおりに解釈しない方がよいのではないでしょうか。もし、「家を建てる」ことを文字どおりに解釈するのであれば、前の20節も文字どおりに解釈しないと一貫性がなくなります。すると、楽園で生きている人も死ぬことになってしまいます。それでよいのでしょうか。
2.さらに、22節の後半は、楽園の神の民の生きる日数は「木の日数のように」なると述べています。現在より長生きしますが、それでも永遠ではありません。それでよいのでしょうか。
65:20の後半において、新世界訳は、「罪人については」というヘブル語原文にはない句を挿入しています。これは明らかに誤訳です。直訳は「百才に到達しないで死ぬ人は呪われている」です。
1.詩篇72:16が、ハルマゲドン以降の「地上の楽園」に言及していると、どうして言えるのでしょうか。
2.穀物のことを、このように文字どおりに解釈するのであれば、8-15節もまた、地上の楽園の描写と考えるのでしょうか。そうしますと、キリストの敵も存在し(9)、キリスト以外の王も(11)、貧しい者、苦しんでいる者や助けてのない者(12)などもいることになります。14節には、「虐げ」、「暴虐」、「血」などが出てきます。はたして、そのようなものがあるところを「楽園」と呼ぶことができるのでしょうか。
3.14節の「彼が生きながらえるように」という祈りは、長寿を願う祈りです。このような祈りをキリストにささげるというのは、不自然だと思うのですが、いかがでしょうか。
4.「健康に良い食物」という表現は、どこから出てくるのでしょうか。「健康に良い」という言葉を入れることによって、詩篇72:16が、この地上の延長上の世界のことを言及しているという印象を与えようとしているのではないでしょうか。聖書が直接言っていないことを、少しずつ加えて、聖書のメッセージを曲げてしまう(違った印象を与えてしまう)危険性を感じませんか。
5.『知識』は、詩篇67:6は、「地上の楽園」に言及している、と解釈しています。すると、この節に出てくる「わたしたち」は、地上の楽園で生きている人々になります。この詩篇67篇を1節からじっくり読んで、「わたしたち」が、いつの時代に生きている人々かを、考えてください。もし、自然に読むなら、ここは、一般的な神の祝福について述べているのであって、地上の楽園について述べていると読まねばならない理由はないと思うのですが。
1.マインド・コントロールの手法の一つは、聖書に出てこない観念を、聖句をまとわせながら繰り返し使って、その観念を聖書的な真理と錯覚させてしまうことにあります。「楽園の地で永遠に生きる」という文章こそ、『知識』が研究生の脳裏に焼付けたい観念です。従って、ここでも何げなく、繰り返しています。このような記述の仕方に、マインド・コントロールの手法を読み取ることは、間違っているでしょうか。
2.詩篇37:29において「永久に」と訳されたヘブル語は「ラアド」です。このヘブル語は、いつでも文字どおりの「永久」を意味するのでしょうか。例えば、詩篇9:19は、「柔和な者たちの望み」(新世界訳は、「いつまでも」と訳し、貧しい者にかけていますが、原文は「柔和な者の望み」にかかります)に対して使っています。詩篇21:6は、「王に対する祝福」に対して、詩篇22:26は「賛美する人々の心」に対して、アモス1:11は、「エドムの怒り」に対して使っています。これらの用例は、その文脈から、「かなりの長い期間」という意味であることが分かります。
3.詩篇37篇が、将来の地上の楽園に言及している、と解釈することは不自然です。それについては、12節のコメントを参照してください。
4.『知識』は、「地上の楽園」で生きる人々の「大きな喜び」を、イザヤ35:1の聖句から説明しています。しかし、イザヤ35:1の「荒野と水のない地域」あるいは「砂漠平原」という表現は、神の恵みから見捨てられたものの代表例としてあげられています。そして、地上の楽園で生きる人々の喜びではなく、それよりはるかに大きな、被造物全体の楽しみ、喜び、栄光を伝えている、と読むべきでしょう。なぜなら、聖書によれば、贖いには、全被造物の贖い(ローマ8:18-21)が含まれていますので。
1.「楽園での生活が訴えるものであれば」と、ここでもまた、人々が「地上の楽園」で生きることを前提として、話しを進めています。『知識』は、ある言葉や概念を、聖書から明確に弁証しないで、繰り返し、繰り返し使うことによって、その言葉や概念を読者の脳裏に事実であるかのような印象を与えようとしている、と既に述べました。ここにも、その手法を見いだすことができると思うのですが、いかがでしょうか。
2.ダニエル2:44が言う「ひとつの王国」とは、どのようなものでしょうか。その王国は、「それらの王たちの日に」起こる、と言われていますので、第四の王国の時代、すなわち、ローマ帝国とそれ以降の時代、ということになります。とすれば、『知識』が主張する「現在の体制が終わってはじまる地上の楽園」ではないはずです。むしろ、歴史的キリスト教が主張する「キリストの初臨にはじまり、再臨をもって完成する神の国」と考えないと、つじつまがあわなくなります。いかがでしょうか。
3.エホバの証人は、Uペテロ3:13の「新しい世」を「地上の楽園」と理解します。しかし、ここに出てくる「新しい天と新しい地」は、7節の「今ある天と地」と対比され、その「今ある天と地」は焼き尽くされる、と述べられていますので(10節)、「新しい天と地」がこの地上につくられる楽園でないことは明らかです。そう思いませんか。聖書を比喩的に解釈しないで、素直に読んでください。
4.Tヨハネ2:17は、この世とこの世の欲を捨て、神のみ心を行なうなら永遠に生きる、と教えています。また、この同じ手紙の別の箇所には、御父およびみ子のうちに留まる者に永遠の命がある(2:24-25)、ひとり子を通して命が与えられる(4:9)、み子をもっている者が永遠の命をもっている(5:11-13)、などが教えられています。これらの聖句は、「神に関する知識を取り入れるなら永遠に生きる」という言明に一致していると、思いますか。
1.「今でさえ」という表現は、将来の地上の楽園に対比される、現在の地上の生活においてさえ、という意味です。聖書は、将来の永遠の命を大切にしていますが、その永遠の命を受けた者は、現在の生活を重要なものと受けとめるよう、説いています。「今でさえ」という表現はふさわしくないと思うのですが、いかがでしょうか。
2.ここでは、ローマ15:13および33節が引用されています。『知識』の著者は、「聖書の導きを受け、神との親しい関係を養うなら」という文章を支持するためにこれらの聖句を引用したのでしょうか。それとも、「神だけが与えることのできる平和」、あるいは「平和を楽しめる」という文章に対してでしょうか。ローマ15章のこれらの聖句は、「平和」という言葉以外、これらの文章との共通項を見いだすことができません。普通、自分の主張と同じ主張をしている聖句を引用するものです。ものみの塔の出版物のように、単語がたまたま出てくるので引用する、というようなことはしません。ものみの塔は、どうして、そのようにしてまで、聖句をあげようとしているのだと思いますか。
3.17-19節、そして下のコラムにおいて、「知識」の重要性が繰り返されています。正しい信仰には、知的理解を欠かすことはできませんが、「永遠の命に導く」のは「神に関する知識」ではありません。聖書は、イエスに対する信仰が、永遠の命に導くと教えているのではないでしょうか。
1 聖書を、「神についての知識を収めた書」と規定するのは、正しいでしょうか。むしろ、イエスを証詞している書物、と言うべきではないでしょうか。ヨハネ5:39-40を読んでみてください。
ルカ24:34のカンマのうち方
新世界訳は、ルカ23:43を、「するとイエスは彼に言われた。『今日あなたに真実に言いますが、あなたはわたしと共に、パラダイスにいるでしょう。』」と訳している。この訳は、他の翻訳聖書と違い、「今日」という言葉を「パラダイス」にかけないで、「言います」にかけている。
ギリシャ語原文は、エイペン・アウト、アメーン・ソイ・レゴー、セーメロンとなっている。参照資料付きの聖書の脚注は、ウエストコットとホルトによって復元されたギリシャ語本文には、セーメロン(今日)の前にカンマがあるが、文脈に沿って、そのコンマを省いて訳した、と解説している。
資料付き聖書が述べるように、大文字写本にはコンマがない。しかし、ウエストコットとホルトは、彼らが手にしえたすべての写本を比較検討して、ギリシャ語本文を復元したことを忘れてはならない(ギリシャ語聖書王国行間逐語訳参照)。どこに句読点を打つかは、聖書本文の研究家にとっては、最も重要な課題なのである。ところで、ウエストコットとホルトの本文は、1881年に出版されたものであり、前世紀までに発見された写本しか、参考にされなかったことは言うまでもない。現代の聖書研究家は、二十世紀に発見されたすべての写本を精査した上で、本文を復元した『クルト・アラントによる修正三版』というギリシャ語テキストを使う。この写本研究によれば、新世界訳のような読み方をする可能性は全くない。文字どおり、まったくあり得ない読み方である。
では、なぜ新世界訳のような訳文ができあがったのか。理由はきわめて簡単である。ものみの塔は、魂の不滅を否定する。死んでしまえば何もない。とすれば、イエスが語ったパラダイスは、死後行く場所ではない。すると、パラダイスは他にあるはずである。そこで、ものみの塔は、ハルマゲドンの後に「地上の楽園」がもたらされる、と想定した。もし、パラダイスがハルマゲドンより後の出来事であるなら、「今日」を「パラダイスにいる」にかけたのでは、矛盾してしまう。従って、新世界訳は、「今日」を、「言う」にかけたのである。
では、新世界訳のような訳は、どうしておかしいのか。かなり専門的になってしまうが、検討してみよう。
イエスは、しばしば、「真実に言います」と言われたが、ギリシャ語では4通りの言い方がある。まず、最も一般的なのは、話す相手が複数の場合で、「アーメン・レゴー・ヒューミン」(直訳すれば「真実にあなた方に言います」)にカンマが続くケースである。マタイ5:18 6:2,5,16 8:10 10:15,23,42 11:11 13:17 17:20 18:3,13,18 21:21 23:36 24:2 25:12,40,45 26:13 マルコ8:12 10:15,29 14:9 ルカ18:17 ヨハネ1:51 5:19 6:26,32,47,53 8:58 10:1 12:24 13:16,20 14:12 16:23 などにその用例が見られる。
次は、カンマで区切らず、語られた内容をホティという言葉で表すケースである(直訳すれば「真実にあなた方に次のことを言います」)。マタイ16:28 19:23 19:28 21:31 24:34 24:47 26:21,34マルコ3:28 9:1,41 11:23 12:43 13:30 14:18,25 ルカ4:24 12:37 18:29 21:32 ヨハネ5:24,25 8:34 10:7 13:21 16:20 に出てくる。
三番目は、話している相手が一人の場合で、「アーメン・レゴー・ソイ」(直訳すれば「真実にあなたに言います」)にカンマが続く。マタイ5:26 ヨハネ3:3,5 13:38にその例が見られる。
第四番目は、話す相手が単数で、話された内容をホティで表すケースである。マルコ14:30 ヨハネ3:11に見られる。
これらいずれの場合も、「真実に言います」という句は、独立句(決まりきった表現法)である。新世界訳でさえ、ルカ23:43を別にして、すべて独立句として扱い、「真実に言います」と訳出している。しかし、このルカ23:43だけは、例外とする。それはきわめて不自然である。
ところで、イエスが悪行者に語った言葉は、「今日」でなければならない理由はあるだろうか。ものみの塔が言うように、地上の楽園に復活するという内容であると考えても、他の日ではなく、その日に言わねばならない理由を、特に見いだすことはできない。
むしろ、悪行者は、「イエスがご自分の王国に入られるとき」と語りかけた。イエスの返事は、そのような語りかけに対するものである。すると、イエスは、「王国に導くのは、遠い将来のことではなく、『今日』という時だよ」、と返答されたことになる。もし、そう理解するなら、「今日」は「言う」にかけてはならず、「パラダイスにいる」にかけなければならない。
ところで、『聖書から論じる』424-26頁は、次のように論を展開している。1)魂の不滅という考えはギリシヤ的なもので、2)一世紀のユダヤ人には一般的でなかった。3)もし一般的であったとしても、イエスはパリサイ人たちを批判していたのだから(マタイ15:3-9)、そのような考えに同調されるはずはない。4)使徒2:30-31によれば、イエスはハデスに行っており、パラダイスではない。5)伝道の書9:5および9:10は、そのハデスは意識のないところである。6)イエスが天に帰るのは、復活してから40日後のことである。7)悪行者は、新生や聖霊を受けていないから天に行くはずはない。そして、次のような結論を導出する。「イエスはその悪行者の悔い改めた恭しい態度をご覧になり、その悪行者を復活させられて地上の命を受け、パラダイスで永遠に生きるにふさわしいことを証明する機会を与えられる何十億もの人々の一人に含めることができるとお考えになりました。」(426頁)
以上の陳述は、聖書の時代的背景と知識をを全然知らない人の論理である。まず、ギリシヤ的背景をもつ「霊魂不滅」という教えと、聖書が言う「霊の不滅性」とは異なる。また、一世紀のユダヤ人が共有していた「霊の不滅性」を、イエスが他のことでパリサイ人を批判したことを取り上げて、その点でも批判したはずだ、と論じていくのはまことに乱暴な議論である。伝道の書の言葉は伝道の書全体の文脈に沿って、正しく解釈しなければならない(このことは、『知識』の後の章で触れるので、ここでは問題にしないことにしよう)。むろん、ペンテコステ以降に与えられた「聖霊の賜物」がこの悪行者に与えられたわけではない。しかし、イエスが地上にご在世当時、イエスのもとに来て、イエスに信頼を表明した人に、イエスは救いを約束された(例えば、ルカ19:1-10)。イエスは、そのような救いを、この悪業者にお与えになったのである。
ものみの塔は、新生や聖霊が与えられることは、ペンテコステ以降の144,000人の天的クラスのみである、と教えている。従って、イエスと対話した悪業者が天のパラダイスに行くことなどはじめからあり得ない。しかし、そのような聖書の理解の仕方は、自分たちの教理を優先させて、聖書本文を解釈する、という絶対にしてはならない間違いを犯しているのである。