マインド・コントロールの後遺症と克服法

ウィリアム・ウッド著

(「真理」50号1996年9月1日〜53号1997年5月1日に連載されたものを、
発行者の許可を受けて転載)

 

 破壊的カルトに必ず共通しているものは、マインド・コントロールです。悪い教祖が信者の心をコントロールし、教祖の目的のために信者を利用する訳ですが、教祖(組織)の欺瞞に気付き、そのコントロール下から抜け出ることに成功しても、そこですべての問題が解決される訳ではありません。信者たちは本来の自分を取り戻し、完全な社会復帰をするために、なおも数多くの難関を乗り越えていかなければなりません。自分のアイデンティティの問題、職業の問題、思考力の回復の問題、情緒的問題、人間関係の問題等、カルトを離れた日から直面しなけれはならない難問が、実に多種多様です。このシリーズで、マインド・コントロールの後適症とそれらを克服するための具体的な方法を探ってみたいと思います。

元の心を取り戻すために

 カルト教団では、信者が自分で考えたり、決断したりすることが禁じられています。彼らは、ただリーダーの考えを鵜呑みにし、黙ってその指導に従うように教育されます。その結果、思考停止の人間になってしまうわけですが、組織を離れた信者が最初に悩むことは、自分の決断力の低下です。人生の進路に関する大さな選択は勿論のこと、何を食べたら良いか、どんな洋服を着るべきかといった小さな意志決定にも迷いを感じます。その迷いの状態が長く続くと、自尊心の損失や憂鬱につながります。

 決断力の回復は、まず、決断力の低下の原因を正しく認識することから始まります。その原因は本人の頭の悪さとか怠慢にあるのではありません。決断力の低下は、長期間考えることを強制的に放棄させられ、物事を判断する権利を奪われていたことの当然な結果なのです。そのことを認識しつつ、自分に対して寛容な態度を持ち続けることが重要です。また、失敗をしたり、間違った決断をしたりすることがあっても、自分を赦すことです。

 次に、日常生活の小さな決断から挑戦すると良いでしょう。例えば、食事や服装に関することです。リストを作ることも助けになります。前の晩から、次の日やらなければならないことをすべてリストアップして、一つ一つのことをこなす度にリストから消していく訳です。こうしていく中で、本来の決断力は徐々に回復してきます。言うまでもなく、このプロセスにおいて常に、他人(家族・友人)に頼ってしまいたいという誘惑が付きまといます。しかし、他人の励ましは受けることがあっても、彼らに決断の責任を任せてはなりません。また、家族や友人も、そのようなことを断じてゆるしてはならないのです。せっかく芽生え始めた自立心がつぶれてしまうからです。


 カルト教団のコントロールは信者の言葉にも及びます。それぞれのカルトには、独自の言語があり、信者は仲間として認められるために、その言語を正確に覚えなければなりません。例えば、エホバの証人が使う言糞として、「神権家族」、「奴隷級」、「事物の体制」、「統治体」、「背教者」、「野外奉仕」、「正規開拓者」、「頭の権」等、一般の人間社会で通用しない表現が多くあります。独自の言語が存在するには、幾つかの訳があります。まず、仲間であるかどうか、すぐ見分けがつきます。次に、エリート意識の助長につながります。更に、一つの特殊な意味を持つ言葉によって、信者に思考停止をさせることができます。例えば、エホバの証人があるルートを通して組織の間違いを証明する情報を入手して、疑問を持つようになったた場合、「それは背教者が書いた文書です」とか、「そのような怪しい情報を信じたら、ハルマゲドンで死んでしまいますよ」と言われれば、その「背教者」、あるいは、「ハルマゲドン」という言葉を聞いただけで、慌てて疑問を捨て、批判的な考えをやめるのです。

 長年、「カルト語」に慣れ親しんだ人間は、カルトを出た後、他の人間とのコミュニケーションに困難さを覚えることがあります。何とも奇妙な話ですが、自分の母国語を学び直さなければならないケースさえあるのです。まず、カルトの中で使っていた用語をリストアップして、辞書でその一つ一つを調べることから始めます。どの言葉が「カルト語」に当たるか自分で分からない場合、家族や友人の助けを借りる必要があるかも知れませんが、辞書に載っているかどうか、通常どのような意味で使われているかを確認していきます。このプロセスの中から、コミュニケーションのための正しい表現力が身につきます。次に、テレビのニュースを聞くことや、本・雑誌等を読むことが助けになります。カルト教団の中では決して賛成されないことですが、「世的な情報」に触れることによって、徐々に、現代人に通じる語彙を増やしていくことができるのです。


 マインド・コントロールの特徴の一つに、「白黒思考」というものがあります。カルトの教義によって見えてくる現実は、いつも白か黒、神かサタン、善か悪です。灰色の領域はありません。カルトは、灰色の領域が存在することを許す訳にはいきません。それは、リーダーの権威を落とす恐れがあるからです。カルト教団の指専者は決まって、この世のいかなる問題に対しても、解決を持っていると主張します。どのような難問にも答えられると言います。そして、その答えはいつでも、白か黒です。 教祖にも分からないような「灰色の領域」があっては、神の代弁者としての立場が危うくなります。また、信者の判断に仕せなければならない問題があったりすると、危険な「独立的考え」が芽生えてしまうので、リーダーはいちいち、親が子供を諭すように、「これは正しいことだ」、「これは悪いことだ」と信者を教育していく訳です。

 カルトの世界にいる限り、信者は「白黒思考」に対して疑問を持たないかも知れません。むしろ、分かりやすい世界観・価値観を与えてくれた教祖に感謝するでしょう。しかし、現実の世界に出ると、「白黒思考」が通用しないことが多くあります。世の中の諸問題が、それほど単純なものではないからです。現実の世には、灰色の領域が存在するのです。元信者にとって、この事実を受け止めることは大変難しいことであり、場合によっては怖いことです。ある人は、カルトを出た後、白だと思っていたことを黒にし、黒だと思っていたことを白にします。しかし、このような「世界観の塗り替え」では、マインド・コントロールを克服したことにはなりません。灰色の領域を受け入れること、つまり、「白黒思考」では片付けられない問題があり、一つの問題に関して様々な考え方が可能であると認めることが必要です。なかなか勇気の要ることですが、それは、より豊かな、よりカラフルな人生への戸口なのです。このステップを踏むことによって、カルト的な考えを整理し、独自の世界観・価値観を見いだしていくことができるのです。

 「白黒思考」のもう一つの厄介な産物は、グループの内部におけるエリート意識と、外部の人間に対する警戒心です。結局、カルト教団の信者は、神の代弁者に従っている自分を「宗教のエリート」だと考え、「世の人々」を「神の敵」と見てしまいます。グループを離れても、人をさばいたり、批判的に見たりする傾向が根強く残る人もいれば、神の代弁者から引き離されて、自分の考えを主張できなくなるほど自信をなくしてしまう人もいます。そこで生じ得る問題は、人との交流を避けるようになること、反対意見を聞かされると脅かされたように感じること、人の意見に自分を合わせなければならないとか、人と違った考えを持つことは悪いことであるかのように考えるようになることなどです。いずれにしても、「白黒思考」からの脱出は、独自の価値観を見付けることと、心を広く持つことから始まります。

感情の問題に対応するために

 マインド・コントロールの大きな要素の一つは、感情コントロールです。多くの場合、信者は自分の感情を抹殺して、無私の奉仕に専念するように訓練されます。エネバの証人は、地上の楽園が実現するまでは、本当の幸福感が得られないと教えられているため、楽園にふさわしい者と見なされるように、ひたすら組織から求められる奉仕活動に打ち込みます。そこで、自分の楽しみのために時間を使ったりすると、良心の呵責を感じます。また、組織に不忠実な者はハルマケドンで滅びると恐怖心を植え付けられているので、組織に対して不満、疑問、怒り等を感じても、それらの感情をすべて、打ち消そうとします。更に、模範的なエホパの証人になることを求められている信者は、組織の中で、人と変わった行動、感情表現を極力、避けるようにします。自分のありのままの感情をぶつける場もなければ、そのような自由もないのです。結局のところ、信者は我慢するしかないのですが、組織の監視から解放された瞬間、今まで押さえられていた感情が爆発し、また新たに、様々な感情が大波のように押し寄せて釆ます。

 まず最初に対応しなければならない感情は、悲嘆です。カルト教団を離れるということは、本人にとっては、多くの損失につながります。家族のように思っていた仲間を失い、心の支えになっていた希望(真理)を失い、自尊心を失い、生き甲斐を失います。カルト教団の信者は、自分が「真理」を知っているという確信によって、心の平安を得るし、「真理」を伝える自分が必要とされており、世界に青献していると感します。多くの場合、そう感じることがそのまま、生きる喜びとなる訳ですが、組織を離れた途端、その喜びは消えます。また、カルトを出る時、自分の青春(時間)や財産が奪われてしまったという事実に直面しなければならない場合も多くありますが、失ったものについて考えれば考えるほど、元信者は深い悲しみに沈みます。更に、自分がだまされて、利用されたという認識に伴う悔しさもあります。ひどい場合は、元信者が憂鬱症に陥ることもあります。

 こうした感情を乗り越えるために必要なのは、自分には、悲しんだりする正当な理由があると認識することです。神と人のために奉仕をしたいという純粋な、献身的な心が悪質な集団によって利用されたのですから、悔しい思いを持っても、当たり前なことだと言えましょう。また、現実に多くのものを失っている訳ですから、悲しんだりするのは自然なことです。その気持ちを打ち消そうとしたり、否定したりする必要は全くありません。むしろ、自分の悲しみを素直に認めて、また何らかの形で表現した方が、心のいやしを早めます。ただ、いつまでも悲嘆に暮れるのではなく、カルトを出たことによって与えられた自由に感謝し、これからの新しい人生の可能性に目を向けることが重要です。

 元信者が次に直面するのは、退屈な気持ちです。カルトにおける生活は、多忙を極めるものです。信者は勉強・奉仕活動・布教活動などで目の回る毎日を送ります。その暇のない生活の中で疲れることもありますが、高い目標に挑戦して、それを達成した時に満足感や喜びを味わいます。ですから、脱会後は、無気力になったり、無力感を覚えたり、退屈したりします。

 この気持ちを追い払うのに役立つのは、知的な刺激です。学校に戻るとか、読書にふけるとか、講演会に参加することによって、眠っていた思考力・想像力を覚まし、将来に対する夢が持てるようになります。カルト教団は現世の生活を楽しむことを決して肯定しません。むしろ、犠牲を払うことによって神の国の到来を早めなければならないと強調します。そこで、信者は現世のあらゆる状況に我慢し、神 の国が到来した後の世界の楽しみを夢見る訳ですが、カルトを出た者は、神の国が到来した後でやろうと思っていたことに、今、挑戦すれば良いのです。神の国で楽しもうと考えていたことを、今、経験すれば良いのです。それは快楽にふけることではなく、神が造られた世界を健全にエンジョイすることです。 そのような生き方は決して、神の意思に反するものではありません。なぜなら、聖書にはこう書いてあるからです。

 「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Tテモテ六章十七節)


 次に、元信者は、罪責感や自己嫌悪に陥ることがあります。組織の欺瞞に気付いても、組織を出た自分の方が悪いと自分を責めたり、自分が馬鹿な人間だからカルトにだまされたと思ったりします。「どうしてもっと早く組織から離れる決心がでさなかったの」と人から聞かれて、ますます落ち込むこともあります。  人間としてのプライドや自信を取り戻すのに、まず日常生活の小さなことに挑戦してみることと、成功した時に自分をほめてやることが肝心です。たとえ、早起きをするという些細なことでも、チャレンジに打ち勝ったことを日記にメモして、自分を励ますことです。

 もう一つ、大切なのは、カルトを離れるのになぜ時間がかかったのか、その理由について文書(原稿用紙二〜三枚程度)にすることです。カルト教団が用いる巧妙なマインド・コントロールのテクニック等について、簡潔にまとめておけば、自分を赦すことができるようになるし、人にも納得してもらえるはずです。(勿論、必ずしも、その文書を人に読んでもらうことが必要であるとは限りません。ただ、説明する時に参考にすれば良いのです。)

 更に、有効な対策は、自分がカルトにいた頃のことで、自分が今恥ずかしいと思ったり、後悔したり、罪責感を覚えたりすることをリストアップして、信頼できる人間に見せ、その客観的な立場から意見を述べてもらうことです。次に、リストに書いてある事柄と関係のある人間に対して、何かの償いができるかどうかを考えます。最後に、自分を赦すことです。


 脱会後の非常に強い感情として、恐怖心の問題があります。恐怖心は、マインド・コントロールの最も強力な武器です。カルト教団は、「このグループを出たら、ハルマゲドンで滅びる」とか、「教祖を裏切ったら、不幸な目に遭う」と信者にたたき込むことによって、信者を組織に引き留めます。カルトの世界を知らない人間にとっては理解しがたいことですが、信者はカルトの脅迫に脅えて、身動きが取れません。 脱会しても、長年、植え付けられていた恐怖心がすぐに消える訳ではありません。「私は本当にハルマゲドンで殺されるかも知れない」とか、「私の方が間違っていたら、神に裁かれるに違いない」と悩みます。

 恐怖心に対する有効な処方箋は、他の元信者と体験を語り合うことです。話し合うことによって、恐怖心が人をコントロールするための、心理的なトリックであることが明らかになります。また、聖書の約束も大きな力になります。聖書の神は、人を奴隷にするために恐怖心という武器を用いたりなさいません。 むしろ、聖書の中で三六五回も、「恐れてはならない」と言われるのです。

 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ四十一章十節)


 元信者にとって、最も対処しにくい感情は、怒りです。カルトから脱会した者は、グループに対して、特にその指導者に対して、怒りを感じます。これはだまされたことに対する極めて正常な反応ですが、元信者は誰に、どのようにこの怒りをぶつけたら良いか、迷います。言うまでもなく、カルト教団において、怒りを爆発させることはゆるされません。怒りの感情は押し殺されなければなりません。しかし、不正に対して怒りを覚えることは、人間としてのごく自然なことであり、むしろ当然な責任だと言えましょう。カルト教団を出た者は、カルトの欺瞞に対して怒る権利があり、大いにその怒りを表現すべきです。実際に、怒りを覚えることは、回復に向かっている証拠なのです。 怒りは、カルトの不正を糾弾する力となり、新しい人生に立ち向かって行く勇気ともなり得ます。但し、その怒りはあくまでも、カルトのリーダーに向けるべきものです。

 怒りの感情を発散させるためには、様々な方法があります。まず、リーダー宛に、手紙を書くことです。実際に郵送する必要はありませんが、その中で、自分の率直な気持ちを表現しま す。公の場で自分の経験やカルトの実態について話すことも考えられます。カルトに対する反対運動に参加することも有効ですが、「復讐してやる!」とばかり考えることは、今後の新しい生活にマイナスとなる可能性があります。カルトヘの一番の復讐は、幸せな人生をつかむことです。

新しい人生を切り開くために

 元信者は、組織を離れた直後は、自分が別の惑星からやって釆たと感じるかも知れません。カルチャーショックに悩むこともあり得ます。政治の動き、フアッション、職蔵業の可能性、科学技術の進歩等について勉強しなければならないでしょう。健康の悩みもあるかも知れません。これらはすべて、大きなチャレンジですが、自分にプレッシャーをかけずに、一つ一つの問題に立ち向かっていけば、道が開かれるはずです。

 まず、健康診断を受けましょう。多くのカルトでは、信者の健康の問題がないがしろにされます。体力の限界に挑みながら、組織のために労することが神を喜ばせる最善の生き方であると強調されるからです。また、間もなく神の国が実現して、そこで健康な体が与えられるから、多少、無理をして体を壊しても構わない、と考える人もいます。あるいは、治療費にお金を使うのはもったいない、自己中心的だという極端な考えを持つ人間もいます。更に、カルト教団の中で、必要な栄養のある食事が与えられていなかったということもあるのです。ですから、体を調べてもらって、病んでいる部分や弱っている部分がどこかを認識し、直していくことが新しい人生を切り開くためには不可欠です。薬で直るものもあるでしょうし、また、きちんと食事を取ることや、定期的に運動をすることによって解決される問題もあるでしょう。運動は、肉体だけでなく、精神にもとてもよい影響を及ばします。


 カルト脱会後の人生の中で、次に取り扱わなければならないのは、アイデンティティーの問題です。つまり、「私は誰なのか」ということです。カルトの信者の多くは、マインド・コントロールのプロセスにおいて、性格が極端に変わります。カルトの要求する性格を身につける訳ですが、それは本来、本人が持っていた性格ではなく、カルトの世界で生きていくために無理矢理に作ったものです。言い換えるなら、本来のアイデンティティーを否定して、自分をグループに合わせています。しかし、脱会後は、新しい世界に突入する訳ですから、新しいアイデンティティーを見付けることが必要になります。この作業で役立つのは、まず、カルト時代の性格を分析して、何が良くて何が悪かったか、本来の自分とどこが違っていたか、不自然な部分はなかったか、これからも大切にしておきたいものはないか等を考えることです。カルトの世界で育つ人格のすべてが悪いとは限りません。例えば、規律正しさ、勤勉さ、正直さ、忠誠心、奉仕精神などの立派な面もありますが、自分を偽ってまで無理をして作り出そうとした性質もあるかも知れないし、はっきりと間違っていたと現時点で判断していることもあるかも知れません。いずれにしても、自分の自然な姿を見つめながら、どのような人間になりたいと望んでいるかを描くことです。周りに、自分が尊敬している人間がいるかも知れません。その人の性格、態度、価値観、考え方、あるいは生き方で、引き付けられるものがあれば、それを見習えば良いのです。

 第二番目に、自分自身のことで、自分が嫌いだけれども自分で変えることのできない事柄をリストアップすることです。性別、年齢、人種、外見、知的能力等です。次に、自分自身のことで、自分が好きなところ、上手にできること、誇りに思える才能のリストを作ります。このリスト作りの最柊目的は、自分のありのままを受け入れることができるようにすることです。聖書にあるように、人間は神によって造られたものです。神の栄光を現すことができるようにユニークな賜物を授けられています。誰であれ、短所もあれば長所もありますが、目的をもって造られた、神の作品です。カルト脱会後の人生において、神の作品としての自分を新たに発見し、神から与えられた才能を再認識し、それを活かしていけば良いのです。

 第三番目に、自分自身の中に、変えたい、あるいは直したい部分があるかどうかを検討することです。本当に変える必要があるか、また変えることが可能かどうかを考える必要もあるでしょう。人間として成長するとか、あるいは変わるということは素晴らしいことです。カルトを脱会した人は、自分が良いと思うように変わる自由を持っています。望みどおりの人間となり、望みどおりの人生を歩む権利があるのです。

 第四番目に、人前で、自分の意見を堂々と述べることです。「私はこう思います」とか、「私はこう信じます」と努めて、自分の考えを主張すればするほど、アイデンティティーを確立させ、自尊心を取り戻すことができます。

 カルトを離れた人にとって、もう一つ切実な問題は、新しい人間関係の設立です。ほとんど例外なく、カルトに入信する者は、「この世」の友達との縁を切ります。一般の人間との交流がなくなり、カルト一色の人間関係になる訳ですが、脱会した時点で、今度は信仰の仲間だった人々との交わりが向こうから一方的に断たれてしまいます。そこで、信者が味わわせられる孤独感・孤立感は、想像を絶するものです。組織に裏切られたことに対する反動として、人間不信に陥ることも有り得ます。

 これらの問題を乗り越えて、新しい人間関係を築き上げるために、まず周りの人間に対する見方を変えなければなりません。エホバの証人などは、外部の人間を「神の敵」、「悪魔の手先」、「悪い人」と見なしており、警戒心を持っています。しかし、それでは、信頼関係が築けるはずがありません。少しずつ、警戒心を捨てて、人々を神の愛の対象として考え、自分が愛すべき人々だと見るようにしなければなりません。確かに、世の中には、警域しなければならないような、悪い人間もいます。しかし、彼らがすべてではありません。善良な人々も大勢います。それに、「神を知らない人々を敵視しなさい」という教えは、聖書にはありません。むしろ、罪人を愛し、彼らに助けの手を伸べてあげることこそ、キリストの愛の精神なのです。

 「なぜ罪の多い人間と交わるのか」という質問に対して、キリストは次のように答えておられます。

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコによる福音書二章十七節)。

 罪人に対して神の愛を積極的に示す者こそ、キリストの弟子であると言えましょう。

 ものみの塔から脱会したある主婦が、私に宛てた手紙の中で、脱会後の生活や、気持ちの変化について詳しく知らせてくれました。特に興味深いのは、最初に買い物に出掛けた時の体験です。

 「主人はいつも、そばにいてくれましたが、学校の用事で、二時間ほど出かけました。私は少しだけ勇気を出して買い物に行きました。スーパーで会ういつもの人達が、とてもいとおしく感じ、これまで体験したことのない、さわやかな愛情がわきあがってきました。私はうれしくて、主人が帰ってくるとすぐ報告しました。世の人々は、サタンと決めつけていた私に、こんな心が残っていたなんて、とてもうれしかったです。」

 次に必要なのは、人に期待し過ぎないことです。エホバの証人などは、厳しい戒律主義の中で、知らず知らずのうちに、周りの人を批判的な目で見たり、さばいたりする習慣が身についてしまいます。

 言うまでもなく、これも新しい人間関係の大きな障害となります。誰でも正直になれば分かるように、完全な人間は一人も存在しません。皆、長所もあれば、短所もあります。弱さを覚えたり、未成熟であったりするために、失敗をします。動機が良くても、コミュニケーション不足で人を傷つけてしまうこともあります。あるいは、心が満たされていないために、道を踏み外すこともあります。

 人の間違いを批判するのは簡単ですが、冷たい視線や言葉や態度では、何の解決も生まれません。彼らとの間に、壁を作ってしまうだけです。自分の不完全さや、至らなさを正直に認めつつ、相手をありのまま受け入れなければなりません。自分流の完全主義を押し付けてはなりません。自分を赦すように、相手を赦すことです。また、さばくのではなく、周りの人間を励まし、彼らのために祈ることです。

 三番目に、自分のペースを保つことが重要です。人との信頼関係を築き、友達をつくるのに、時間がかかります。焦らずに、少しずつ自分から近づいて、勇気を出しながら、人々へのアプローチを試みれば良いのです。初めは、その人間関係において、一線を画することが必要であるかも知れません。つまり、人の要求をただ鵜呑みにして、人の言いなりになるのではなく、自分にできることとできないことをはっきり言う、ということです。自分のペースを守りつつ、真実の愛をもって接すれば、必ず、周りの人々との良い関係が築き上げられていくはずです。

 最後に、職業の問題を考えなければなりません。世の終わりが間近に追っているのではないかも知れないという事実を受け入れる時に、元カルト信者は、「これから、どうやって食べていけば良いのか」という現実問題に直面します。彼らの多くは、数年のうちにパラダイスが実現することを期待して、経済的に厳しい生活に我慢しながら、できるだけ多くの時間を伝道活動に注いでいました。しかし、カルトを出ると、考え方が変わります。将来に対する夢が膨らみ、この世にあってチャレンジしてみたいこと、成し遂げたいことが出て来ます。そのために、どうしてもお金が必要になります。そこで、彼らは就職戦線に戻ることを考え始めるのですが、自分の経験や知識の乏しさ、あるいは年月が流れてしまったというマイナス面ばかりを嘆いていては始まりません。プラス思考で、自分の「カルト経験」を売り物にし、就職口を捜していけば良いのです。カルトの中で身につけた技術、話術、時間の管理、リーダーシップ、正直さ、勤勉さ、誠実さ、自己管理等を、自分のセールスポイントにすることです。あるアメリカの新聞の漫画に、仕事の面接を受けている男性と、会社側の人事部長が描かれていますが、面接を受けている男性は次のような台詞を言っています。

 「『チームプレーができますか』って?私にとっては、朝飯前です。カルトに入っていましたから。」

 この前向きな姿勢が肝心なのです。

 ジェリー・バーグマンという元エホバの証人で、精神科医は、マインド・コントロールからの完全な解放に必要な期間は、カルトに入っていた年数を二でかけて、その合計を二乗した数字が妥当である、と言っています。例えば、十年入っていた人なら、四・四七年かかる(一〇X二の√)という計算になります。少し、長いような気もしますが、いずれにしても、自分自身の幸せのためにも、またカルト教団の脅迫(「この組織を出たら滅びる」)が嘘であることを証明するためにも、頑張っていただきたいと思います。カルトのマインド・コーントロールから立ち直った方々が増えれば増えるほど、カルトの勢力が衰えていくはずです。

 最近、ものみの塔から脱会した一人の主婦が、その後の報告として、私に次のような手紙を書いてくれました。

 「以前は、子供が誕生日の話をしたり、クリスマスソング、ひな祭りの歌を歌っていると不機嫌になっていた私ですが、今では喜んで話に応じ、歌を何の気がねもなく、大きな声で子供といっしよに歌える楽しさを味わっています。初期のクリスチャンも、パリサイ人たちからの重い律法から解放された時、こんな感じだったのでしょうか。」

 「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします』」(ヨハネ八章三一〜三二節)。

 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(ガラテヤ五章一節)。


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