自分暦
自分は経歴書にいろいろと書いてしまう。それは、過去だから、そして変えられないから。でも未来のことは書けない。
「なんかすごく色とりどりの人生で、楽しいおはなしが聞けそうで楽しみです。」
「プロフィールがすごいですね。外国の大学に行っていたみたいですが、英語もペラペラなんですか?」
「経歴すごいから、本当すごい羨ましいです。」
こういうことを人に言ってもらえるのは本当にありがたい。実際、自分自身、本当に自由勝手気ままに生きていて、楽しい。日本で生まれ育ち、海外の大学で学び、生活し、そして旅することによって、常に新しい刺激を受け、自分史を形成している。
特にいくつもの言語がぺらぺらしゃべれるとかそのような言語センスはないが、理想はなんとか世界中の人とコミュニケーションができ、自分史形成のためになにか多くのことがいろいろな人や土地から得られれば幸せだと思う。
だれの経歴もが尊敬で、すごく価値がある。
それはその人だけが経験した過去だから。
その人の経験した過去はその人の大切な思い出として大切にしまっておいてもいいし、楽しい話、悲しい話、つらい話、あるいは自慢できる事、知識、経験として、他人に披露しても良い。それは、個人の自由であり、事の内容など時と場合にもよるだろう。良い話でも悪い話でも他人に話すことにより新たな情報をお互いに共有することができるかもしれない。もちろん、利害のある社会で生きるがためマイナスに働くこともある。難しいところである。正しい答えはないだろう。でも、マイナスさえもプラスにすることが理想なのではないだろうか。
「私なんて経歴を語ろうもんなら、3秒もあればじゅうぶん時間が余るくらいです。履歴書書くとき、書くことなくて困るくらい。これからの人生何か資格を取得したいと思っているんですが、大学も行ってないし受験資格すらないので困ってます。」
けっしてそんな事はない。
未来のプロフィールは、だれもが白紙な状態。だからこそ、自分の好きなようにクリエイトしていくことが、人生で楽しいのではないだろうか。
過去を満足することや後悔することはできても変えることはできない。それよりも、まだ起こらぬ先に何が起こるかが今を生きているうえで大切である。そのために、失敗を恐れずにどんどんいろいろなことに挑戦していければいい。やってみなければ何が起きるかはわからない。だれも先のことはわからない。ただ、その経験や過去から学んで次に進んでいけば良い。失敗も成功のもとというではないか。
やりたいことを決めてしまうのではなく、やりたいことみつけていけばいいのではないだろうか。時は変わり自分も常に変わっている。過去を経験した今の自分に素直に生きていけば、新たなプロフィールが書き加えられる。
だから、人にだれかに似ているといわれてもあまりうれしくない(いい意味で言われていればそりゃぁ悪い気もしないが、でもなんか違う)。自分は当然その人とは違うし、こんな自分じゃその相手にも失礼な気もする。でも、わがままを言わしてもらえば、だれだれが山内潤一郎に似ているといわれた方が気持ちがいい。きっと、多くの人が、少なくとも自分は、自分中心で自分のことが他人より良いところも悪いところも含めて好きなはずだから。
外見的なものは結局は表面上の話題にしかならない(もちろん、それも大事である)。人は同一種の動物なのだから、大きな意味で皆同じで、客観的にみてどっかしら似ていてもおかしくない。
なんか硬い話になってきているが....。
それに、人の外見・みためなんていうのは、結構変わるものである。自分も髪型や髪の色、ヒゲがあるのとない、あるいはサングラスをつけているのとつけていないので違ってくる。
「プロフィールは金髪でしたが、髪の毛の色変わりました?」「プロフィールの写真より今日の顔はひげとサングラスのせいでなんだかワイルドに見えますね。」という感じに。
最近は頻繁に髪の毛の色を変えている。ヒゲはこう見えても肌がデリケートで弱いので、月に今は1回ぐらいのペースで剃っている。そういうことをするのに非常にめんどくさがるのも事実である。不精ヒゲを武将ヒゲと勘違いして、気分をよくしていた時期もあったが。サングラスはなんか1年中つける(持ち歩く)癖がついてしまっている。
それに女性は化粧することによって、いろいろな変化を楽しんでいるのじゃないだろうか。
でも、中身あるいは生き方は、現代社会の枠組みの中で個人にある程度依存されていると思う。だから、それはその人の過去によって築き上げられたその人だけの人物像であるといえる。そういう意味でも、その人の生き方に学ぶことは大切である。あの人みたいだと言われると、ありがたく、大変恐縮である。だからこそ、そういわれた人の良いところと、悪いところを知り、自分の糧にしていければ理想である。人に影響されるというのはそういうことのような気がする。
また、歳は暦年を重ねると自然と増えていくもの。あたりまえのことだが、その人の生年月日だけがその人の暦年月日齢を適確に表現している。
それにも関わらず、人、特に日本人はその人の歳を聞きたがり、気にする。
相手の歳を知ることによってその人への対応がかわることはよくある。人を生きている年数で評価することは大切なことであるが、それが極端だとなんかまどろこしい。例えば、歳がわかったとたんに呼び方が'君'が'さん'になってみたり、'さん'が呼び捨てになってみたりと突然態度が変わる。
歳じゃないんだよね。
その人それぞれの生き方をどう尊敬(respect)しあうかが大切なんじゃないかな。
だから、歳がわからない方が気を使わなくていい。
ただ、生まれた日は祝ってもらいたいから、出生月日は6月24日と記しておく。
「なんか楽しそうな人生を歩んできていますね」と単純に人からこういう言われる生き方をしていきたい。
山内潤一郎