シカゴの現在時刻と気温
Click for Chicago, Illinois Forecast

エッセイ…
『200年U』
戻る…戻る
現在“シカゴ”として知られる地域に初めて住んだ人というのは、恐らく判らないだろう。それは太古の昔のことである。何処かを掘り返した時などに発見される遺構などをよく分析して旧い時代に迫る考古学によって、そうした角度での回答は得られるかもしれない。が、誰かが判読可能な型で書き残したものに依拠して旧い時代を語る歴史学の角度で考えて、“最初のシカゴの住人”とされているのはデュサーブル(Jean Baptiste Point du Sable)と伝えられる。彼はフランス領だったサント・ドミンゴ(Santo Domingo)-カリブ海の島で、今日のドミニカ-からやって来た毛皮商人で、黒人だったという。彼がシカゴ川河口に定住したのが1779年と伝えられている。サント・ドミンゴを領有していたフランスでは革命が起こっていた頃だった。
1830年になり、ミシシッピー川とシカゴが運河で結ばれるようになると、シカゴのあるイリノイ州やミシガン湖の対岸にあたるミシガン州への入植が活発化し、1833年には“シカゴ町”が設けられた。シカゴという名称の由来はネイティヴアメリカンの言葉で「強く偉大である」という意味の語句に由来するらしい。1837年、人口が4,170人にまで増えたことを受け“シカゴ町”は“シカゴ市”となった。1848年には、シカゴは運河と鉄道が交わる場所となり、流通拠点としての地位を得た。そのことにより、シカゴへの人口流入は加速し、“3年間で3倍増”というような勢いで急速な発展を続けた。
が、1871年、シカゴに大火が襲い掛かった。300人が死亡し、90,000人が住む家を失い、被害額は2億ドルにも上ったという凄まじい大火であった。被害は甚大であったが、逆に新たな計画を練って、新しい市街を再建する好機となった。
1893年には、半年の開催期間で約2,600万人の来場者を数えたという万博が開催された。この時期から、今日お馴染みの高架鉄道の建設も始まり、オーケストラや博物館など、シカゴの文化を支えているものも登場し始めた。
今日“摩天楼”と称される高層建築の“元祖”とも呼ぶべき建物が出現したのは、1885年のシカゴであったという。爾来、シカゴでは才能溢れる建築家達が活躍し続け、アメリカの建築の歴史に特筆すべき建物が続々と出現した。
シカゴの“生い立ち”は、ざっとこんなところである…
私が興味を覚えるのは、シカゴは大火による壊滅的な打撃-1871年当時に記録された“2億ドルの被害”という額は、今日の貨幣価値であればどの程度なのか、想像も出来ない…-を受けながら、それを都市計画の好機として活かしてしまっているということである。現在、シカゴの揺籃期でもある1871年以前の雰囲気を微かに伝えるのは、ミシガン・アヴェニューに立っているウォータータワー程度のものである…こうした“生い立ち”を振り返り、改めて偉大なリンカーンが生まれた大草原に建設された偉大な都市、というシカゴのイメージを、そしてこの街の名が「強くて偉大である」という意味だったことを思い起こす…
2002年3月5日 管理人 タシケント