生死の境

川端 八重子

生涯忘れる事が出来ない災難に私は3回遭いました。第一回は大正9年(1920年)私が数えの8才の時、横浜市の中央に30ぐらいの町が焼けた大火事がおき、家族6人逃げ惑いお寺に避難させて頂き、3週間後に我が家の焼跡にはバラックが建てられました。

第二回目はそれから4年後大正12年(1923年)関東大震災に遭い又も家は崩壊、街中大火災となり、叔父のはからいで小舟(それでもポンポン蒸気船でした。)で東京湾を横切って、千葉県の港にたどり着き、母の田舎に居候の日々を送ることになりました。今でも傷が残っておりますが、私はその時、柱にはさまれた手に重傷を負っておりました。それでも父と母はすぐに横浜へもどり家業の印刷会社再建に従事しましたが、1927年、父は高血圧の持病がストレスのため悪化42才の若さで急死し私達5人は途方に暮れました。しかし周囲の人々にはもっと不幸の人が多勢居りましたので、みんなで力を合わせて生きなければと、学問をしっかり身につけ、姉妹それぞれが成長して来ました。そして1939年12月末私は26才、夫は30才で結婚いたしました。彼は日本石油k.kのサラリーマンです。その頃より物資が少しずつ消え、社会全体不穏の空気がただよいはじめた様に感じてきました。4年後、長女が誕生、現在、カリフォルニア州サンブルノに居住致して居ります。

さて第三回は第二次戦争の攻撃で生きているのみ不思議で1944年、その翌年3月に横浜市は一瞬の間に焼失していまい、夫はその3ヶ月前出征で何処の戦地に行ったのやら、我が家は跡形もなく廃虚と成り、涙も出ず、唯心臓の鼓動のみ高鳴っておりました。近所の人5人くらいで小高い山の横穴に息をひそんでふるえておりましたら、暗やみの中を主人の会社の人が助けに来て安全と思われる場所に案内してくれました。見渡す限りのガレキとなり焼跡となっていたので空からの攻撃は一応途絶え警戒警報のみとなって、私と2才の娘は会社の寮に案内され、食事、布団を配給され、1週間過ごしまして、夫の実家が4キロ程離れた町の無事を聞き、そこに移る事に致しました。夫の兄弟は出征、兄嫁子供は田舎へ2ヶ月も前に疎開したので姑(64才)一人でした。でもホット息をつくことは出来ません。姑の命令で私の実家の安否を確かめるべく、近くの鶴見駅より2つ先の蒲田駅より又さらに4キロ歩いた先にあります私の実家めざして、幼児を姑にあずけて即走りはじめましたが、目標が焼けて何もないので、線路が唯一たよりでそれに沿って走り続けました。鶴見〜川崎の間の橋は約140m、川崎〜蒲田の橋は約全長450m鉄の部分だけ残ってとても勇気が必要でしたが、泳ぎには自信がありましたので、落ちたら川の水の中だから泳ぐのみと強気をだし、2つの橋は無事渡る事が出来ました。更に廃虚と変わった蒲田の町を実家の方向に走り続けていると22km先にところどころ家が残っているので、どうか無事であります様にと祈りながら走りました。ハアハア息をはづませて家にたどり着きましたら子供たちは疎開、母と妹は無事でした。急に鶴見の姑にあずけて来た我が子が心配になって、トンボ返りに別れを告げもと来た道を又走り通しに馳せて遠くに銃声の音を気にしながら、鶴見にもどってホッと致しました。それからは梅、桜、ツツジの日本代表の花も灰となり見ることがなく、梅雨期に入る頃汽車が走るようになり、妹の会社が栃木県に疎開しているので、家族も同行してくる様にと会社の人が迎えにきてくれましたので、私(32才)、娘(2才)、妹(22才)、妹の友人(22才)、会社の人(48才)の5人グループで満員列車に詰め込まれ平常の2倍の時間をかけ、宇都宮に着くことが出来ました。目的の家までは駅より8kmと乗物は何もありません。徒歩で何も遮蔽物もない田んぼのあぜ道を5人が少しづつ間隔を置いて早足で歩いている時、約3kmの地点で突如スピードで艦載機の機銃に狙撃されたのです。パン、パンと何発かの銃声は耳許できこえたのですが、防空ずきんの上に荷物をのせうつ伏せになって居たので5人全員うまく傷もなく運が良かったと胸をなでおろしました。こんな田舎に来たにもかかわらず、未だ油断は出来ません。みんな畑のどろを全身にあびましたが、そのままの状態で歩き続け、子供は会社の人が背負って、みんなでこれからも何事にも負けず頑張って生きて行こうと話し合いました。そして山の麓の農家の1部屋を借り4人の生活が始まりました。妹と友人はこの農家の近くが会社故毎日出勤、私は畑仕事の出来る事、掃除、洗濯、食事の手伝い等しましたが、幸いの事は全員健康だった事です。かくして8月15日終戦となったので農家の収穫もひと段落と成った11月の末名残りを惜しみつつ、この地を出発、鶴見の夫の実家にもどり其の後、夫も復員致しました。このような状況でも出会った人々が誠に善意善良故に助けられ生かされた事に心より感謝致して居ります。これからはこの世より不幸の争い事の消える事を祈ってやみません。私はこのように生死の境を何度もくぐりぬけてまいりましたが、今は幸せに83才の天寿を迎えております。

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