「いい音を聞きたい」

岸上 順一


もうあれから10年近くたった気がする。武蔵野にある研究所の一室、ゆったりとした空気の 中で社内誌のお正月特集号を読んでいた。そこには各所長が「今一番したいこと」を綴って いた。その中にY氏がいた。普段から厳しく、夜中に部下を呼び出したり、徹夜でレポートを 書かせたりして多くのノイローゼを出したほどの人だ。当然彼のことをよく言う人はあまりいな かった。「いい音を聞きたい」とただ一言書かれていた。他の人が、ゆっくりと海外旅行をし たいとか、大発明をしたいとか無邪気なことを書いている中、ただ一言書かれていたことば にひどく引きつけられた。   

でも彼の思っていたことは僕なりに賛成できた。すごく理解できた。良い音楽を聴きたいとい う話はよく聞く。でもいい音を聞くということは、音楽を聴くのとはまた違った感覚なのであ る。音を聞くこと、音楽を聴くこと、どちらも楽しい。ベートーベンの第7交響曲第3楽章から 始まるあの躍動感を感じるのもいい。しかし、それなりのオーディオで、バイオリンの弦がは じかれる直前の息づかい、空気の震えさえも感じる快感。僕の一番好きなドラマーのスティ ーブ・ガットのたたき出す無機的で渋い音。脳のどこか一部分を直接たたかれているよう な。マライア・キャリーの緊張感のあるボーカル。ボストンのドライブされたリードギター。いい オーディオでこれらの「音」を聞いた時の感激は言葉に代えがたい。   

おそらくアルファ波が豊富に出るのだと思う。疲れて帰ってきた深夜に少し大きめの音で聞 くオーディオ。まさに至福の瞬間。   

PCやワインなど日本でも随分価格破壊が進み、アメリカでわざわざ買う意味が無くなってき ている。しかし、まだある。オーディオがそうである。大学の頃からあこがれていたイギリスの セレッションというスピーカーがある。日本では60万円以上する高級機だ。音は繊細で、と てもブックシェルフのスピーカーからとは思えないのであるが、いかんせん能率が許せないく らい低い。20年近く使ってきたYamahaのアンプでは全く力不足である。   

これに一般のオーディオ雑誌ではやってはいけないと言われていることだが、真空管のアン プを合わせてみた。ここ数年真空管アンプ全盛である。アメリカではいくつかの新しい真空 管メーカーができるくらいである。トランジスタの発明からちょうど50周年になる年に、ハイオ ーディオの世界では真空管の地位が確立するとは皮肉なものである。とにかく、僕としては アメリカに来てから二番目の高額な買い物になる真空管アンプを手に入れて鳴らしてみた 。...ことばで表すにはあまりに素晴らしすぎる音がした。これだけでも十分にアメリカに来た 意味があったと思っている。   

最近の僕の趣味はこのオーディオとワインになってきている。どちらもお金のかかるものだ。 でも、自宅を持つことを諦めればなんとか続けていける。リラックスできる瞬間は今の僕には なにものにも代え難い。

表紙へ戻る

目次へ戻る

投稿・お便りは、tane@nttca.comまでお送りください。