関西人おそるべし(1)
「ボンジュール阪神?」
飯田仁子
恐怖の仏語IIAクラスはなんと土曜の朝のそれも一講目、その為学生達は眠い目をこすりながらのろのろと教室に入ってくる。「もう、たまらんなあこのクラスだけは...」と誰かがつぶやきながら窓をガタガタ開けている。そう、もう7月。いくら朝が早くても、京都の朝はやっぱりムシ暑い。「ああ、この授業だけは本当に嫌だなあ...」と黒板の前で2−3人の生徒達がぶつぶつ言っているのが、私の耳にもそれとなく入ってくる。そんなところへ、ゴリラ、いや失礼、仏語の教授がのっしのっしと入ってこられた。とたんに、どの生徒も急に無口になり、うつむいた姿勢のままであわててテキストブックを開けるのであった。
授業はいつも超スパルタ式であった。そのせいか授業中どころか予習する時でさえも、私達はいつも涙が出てくるような思いを心の底から感じていた。 テキストには“パリの歴史”というタイトルがついており、その表紙には今の女子大生達が「超 いい−」とでも言ってくれそうな大変洒落たエッフェル塔のイラストが描かれていたが、私などそれを見る度にびくびくしてしまうこともあった。それどころか当時“パリ”という単語を道端で聞いただけで身震いすることも度々あった。しかし、教授に文句など言えない。パリ在住10年プラス東大仏文卒の重みは、40人以上もいる学生達にグチの一言も言わせない彼の強みであった。
さてその日の授業が始まると、すぐに教授は次の週に行われる予定の前期期末試験の話を始めた。「おはようさん。試験やで」。先程、教授は東大仏文卒と言ったが、実は彼は生粋の関西生れの関西育ち。大学時代とパリ時代を除いてはずっと関西で過ごした人だ。そのせいか私達の授業では関西弁か仏語しか使わない人であった。「ほんなら、来週の土曜に行う仏語IIAの試験範囲の説明を今からするで。ええか?」私達はテキストブックの他にノートも出して準備を整える。この時ばかりは祈りたくなる一瞬だ。どうか試験範囲が広くありませんように、そして問題がそれほど難しくありませんように...と。しかし、そこはやっぱり関西人。言う事が違う。「試験範囲は今まで習ったところ全部な。問題はな、最近阪神タイガースが連敗やから、めちゃくちゃ難しなるで。よーく覚悟しとけよ、お前ら」当然のことであるが、この言葉を聞いた私はあまりのショックでしばらく蒼然としてしまった。一体、この仏語の試験と阪神タイガースの間にどんな関連があるのだ? 仏語の勉強よりも阪神タイガースの試合の方が私達の人生にとって大切で意義のあるものなのか? 今の私でこそ、このネタでちょっとした笑いをとれるまでになったが、当時まだ18才かそこらの私にとっては、このことが人生観を変えてしまう程の大きな衝撃となった。
それでも、その日以来試験日の前夜まで、私はそれまで全く興味のなかったプロ野球ナイターやスポーツニュースをしっかり見るようになってしまった。しかし、残念ながら阪神の連敗は続き、私はとうとう、「もうパリなんか行かれへんでもかまへん。フランス語なんか嫌いや。阪神のバカヤロー、パリジェンヌも死んじまえ――」などと愚かでわけのわかならい言葉を心の中で叫んでしまったのであった。
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