「弟」

Takeshi Okai


私には年子の弟がいる。とても愛せる奴である。今は心からそう思うことができる。しかし、私たち兄弟がたどった歴史は美しい兄弟愛などというものからは一万光年程もかけ離れたものであったような気がする。私と弟は、東京で生まれて、幼いときに父の転勤で福岡へと越してきた。一つしか歳の違わない私達は、幼い頃は小犬がじゃれあうように仲良く遊んでいた。

その当時、二人はとても同じ両親から生まれたとは思えないほど性格を異にしていた。私は、夜泣きもせず、いつもおとなしく寝ていてお腹が空いた時とおむつが汚れた時に短く泣いて知らせるだけで、本当に手のかからない赤ん坊であったらしい。私は母親のお腹に弟が宿ると早々に乳離れをし、弟が生まれると直ぐ親戚の家に里子に出された。男の子がほしかった親戚の家では、とても大切にされ養子に欲しいとさえ言われたそうだ。父の大反対でその話は流れ、やがて私は両親の元に戻ったわけであるが、そこには私より小さな弟がいて、母親を独占していたのである。私が未練タップリに別れを告げた母の乳房にしゃぶりつき、よく泣き、よく甘え、母親の愛情を一身に受けている弟を見て一歳を少し過ぎたばかりの私は何を思ったのであろう。「奴はオイラの弟だから母ちゃんのおっぱいはあきらめなきゃ。なんたってオイラは兄貴だからな。」なんて大人びた考えだけは絶対持ち合わせていなかったことは確信できる。そうやって私は四歳年上の兄貴と年子の弟に挟まれ、兄貴からの虐待とたった一つしか歳の違わない弟へは「お兄ちゃんなんだから」の一言で寛容になることを強いられて、かなり強い何かを自分の中に培っていった。

弟は、甘えん坊でいつまでも母親のおっぱいから離れられない子どもで、直情的で、なお且つ奔放な性格であった。私と弟の違いをよく理解できるエピソードを幾つかあげてみる。例えば昼寝から目覚めた時、母が近所に買い物へ出て家にいない時など、私は庭で犬とジッと母の帰りを待つ。しかし、弟は、そんな時「お母さーん!お母さーん!」と叫びながら裸足のまま、涙、鼻水を遠慮なく垂れ流しながら町内を駆け回り、近所のおばさんに保護されるのである。とんだ恥さらしである。デパートで母親とはぐれた時も同様である。私は母親を見失った場所でジッと動かずに待っている。やがて母親が迎えに来てくれるのが分っているからだ。だが、弟は違う。例によって泣きながら鼻水を垂らし駆け回る。その鼻水も青っ洟で二本である。実に品がない。母は、運良く駆け回る弟に遭遇できない時は、もうお手上げである。迷子のアナウンスを待つしかない。デパートの方も大変だったろう。大してかわいくもない子どもが青っ洟二本垂らして泣き叫ぶのを相手しなければならないのだ。エピソードは、まだある。朝、母に洋服を着せてもらうと私はきれいに洋服を着ているが、弟は靴下はすぐ脱ぎ散らかし、洋服も汚れて袖は鼻水でガビガビであったそうだ。そのほかにも家族でやっと手に入れたマイカーで佐賀県の唐津城に行った時など、まったくまいった。兄弟三人で天守閣のてっぺんに駆け上がった時のことである。私が目を輝かせて眼下に広がる景色に感嘆の言葉を発するその前を雨も降っていないのに一筋の水流がチロチロと瓦の上を流れ落ちていく。横を見るとやはり弟の仕業である。公衆の面前で不謹慎にもチンチンを出して天守閣から放尿をしている。切腹ものである。幼い頃の私達の性格の違いは誰の目にも明らかで歴然としたものであった。

私は物心がつく頃から、弟は自分が守ってやるべきものという気持ちと、私の取り分を搾取する憎い奴という二つの気持ちの間で葛藤し、時には弟をかばい、時には弟をボコボコにシバクというごく一般的な兄弟関係を成立させていた。しかし、大きくなるにつれて「弟は奴隷」的な要素がだんだん強くなってきた。兄にいつもブチのめされる悔しさも弟に対するいじめに拍車をかける原因となったのも確かだと思う。私は、兄に喧嘩で負けるのが、すごく悔しかった。どんなに頑張っても四歳違いの壁は厚く、私は鼻血を流したり、たんこぶを作るはめになり、いつも泣きながら「大きくなったらプロレスラーになってお前をブッ殺してやる。」と物騒な決まり文句を兄に投げつけていた。一歩間違えば今頃アントニオ猪木の後継者になっているところであった。弟は、「打倒、兄貴!」に燃える私の練習台として毎日プロレス技をかけられて泣いていたが、かなわないと分っているので、私のように悪あがきはせず、ただいじめられていた。可哀相に弟は毎日が拷問であっただろう。根が明るい弟はそれでも健気に元気に生きていた。だが、奴が中学に入学してから色気づき始めたのか様子が変わってきた。その上、不幸にも奴は部活に私の所属するサッカー部に入部してしまった。それは、あまりに無謀であった。奴は、公私共に私の奴隷となってしまったのであった。学校では兄の私に敬語を使い、一切の反抗は認められない。私は、公私の区別をつけず家庭でも先輩であったので、弟は余計に私に無抵抗にいじめられるハメになってしまった。弟は部活では才能を発揮し二年生でレギュラーをつかみ、私と隣のポジションであった。二年でサッカー部のレギュラーになり、三年では私が幅を利かせているので上級生からの締めつけも緩い。これで今まで溜まっていたものが出て弟は学年を代表するいっぱしのワルになっていった。いくらワルになっても相変わらず私にはやられっぱなしで、私はまさしく弟にとっては目の上のたんこぶであった。兄弟とは不思議なもので、仲があまり良くないのに弟は兄の真似をする。それも悪いところばかり真似る。弟は単純で馬鹿正直な所があり悪事を働くと必ず事が露見し大問題となる。大して悪いこともしてないくせに札付きのワルに祭り上げられてしまった。こうなっては単純な弟は周りのワル仲間の期待に応えなければならない。そしてまた悪事の仲間入りをしてしまうのであった。お人好しで馬鹿者なのである。

私の両親は、弟がグレたのは私のせいでもあると言ったが、私に言わせれば、それは要因の一つにすぎず、もっと大きな原因は奴が単に付き合いが良すぎて仲間の悪い誘いを断れなかっただけである。踊らされやすいタイプである。私を悪者にされても困る。兄貴が弟をいたぶるのは世の常である。弟がそのままグレ続けてヤクザ者になってしまったとか犯罪者になってしまったなどという哀れな末路をたどったというのなら私もあえて責任の一端をひっかぶろう。しかし、奴は成人する頃から立派に更生し、二十歳の誕生日を境にタバコも見事にやめた。ちりちりパーマでリーゼントだった髪の毛もサッパリ短くした。だけど、その髪型が寅さんの映画に出てくるタコ社長に似ていたのはいただけなかった。

更生した弟は、生来人に好かれやすい性格をしていたこともあり、仕事にも恵まれバリバリ働いた。高卒ながら同級生の中でも将来有望株であろう。その上、どうやって騙したのか美人でしっかり者で気性のサッパリした素晴らしいカミサンをもらった。めでたい事である。私達兄弟は現在はお互いを大人の男として尊重し一目おきながら、いい関係を保っている。私も三十を越えて弟にドロップキックをお見舞いするほどの元気もない。子育てで疲れている。弟にも昨年末、元気な男の子が生まれた。名前を楽と書いてガクと呼ぶ。お気楽な名前であるが弟らしい良いネーミングだと思った。電話で「何か楽君は西郷さんのごたぁる顔しとうとですよ。」と弟の嫁がぼやくのを「心配いらんよ。赤ちゃんは皆西郷隆盛みたいな顔しとうとよ。」と、いいかげんな事を言って励ましながら、「楽は間違いなく弟の子だ。」と確信するのだった。今はただ、私の愛すべき弟が西郷さんに似た息子と良く出来たカミサンと幸せな家庭を築いてくれることを心から願うのである。

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