..................................岸上 順一

カリフォルニアの乾いた空気に日本の流行歌は似合わない。101を走りながら似合うのは、
オフコースや荒井由実などではなくKKSFやJazz。
極端に少ない湿度がまぶしいほどに輝かせる月の光では日本の情緒は味わえない。
からりとした夏。コートも着ない冬。たまに訪れるNew Yorkに四季のなつかしさを感じる。
ここは本当に日本と空間的に離れたところ。いくらインターネットで時間的には近くなっても
やはり外国。
いつから「時間」という概念が形成されてきたのだろう。一直線に、
そして無限に続く一次元の流れの中に、「今」がプロットされ、その少し前に昨日があり、
そこから望遠鏡でずっと先を見ると遥か昔の幼稚園のころの自分がいる。
ベッドで熟睡しているときでも夢の中で、
ホテルのバーで飲んでいるときでも頭の中からこの一次元の物差しは離れることはない。
過去と未来が明確に分かってしまった時から、否が応でも自分の限界を感じてしまう。
それは決して逆転できない時間を分かってしまうから。子どもの間は、
もっといろんな可能性があって、他人とは全く違う時間の中で生きることもできた。
大人になっても、ときどきプルーストの言う「特権的瞬間」に出会うことがあった。
でも、アメリカにきて全く異質な環境で過ごしている内に、
あまりに遠くなってしまった過去と切れてしまったのかもしれない。
デジャブを感じることがなくなってしまった。
ふと思いついて、その瞬間に忘れさられること。多くの貴重な考えがそこで消えていく。
車を運転しているとき、どこまでも青く広がったカリフォルニアの空に一筋の飛行機雲が描かれていくのを見ながら、
思いついた「あの思い」、疲れた頭を切り替えるためにキッチンにコーヒーを入れにいく時ドアの前でふと頭を横切った
「その考え」。すべてが時の扉の中に消えていく。毎日の判断の中で、
自分にはもうこれだけの選択の余地しかないと悲観し、自分を追いつめる。
でも、ちょっとそんな自分を傍観者的に眺めたとき、今悩むのはなんてばからしいのだろう。
だって、今なんて相対的な流れのほんの一瞬、過去の
「あのこと」に比べれば取るに足らない物でしかない。
一度切れかけたいろんな時間の流れを示す糸が、また少しずつ絡みだしてきている。
あの瞬間確かに絡んでいた糸が、ふとしたきっかけからまた、お互いを見つけてしまったような。
もう一度、同じことはできない。でもあの時を一緒に過ごした安心感が、お互いの今を高めあう。
ひとつひとつの響きが脳の奥底に眠っていた別の糸と共鳴するとき、錆びつきかけてた魂を呼び起こす。
忘れかけてたあの感覚が蘇ってくる。
久しぶりに自分の時間に浸り、
熱くなった真空管から飛び出た粒よりの音を聞いている内にいつの間にかこんな文章を叩いていました。
ちょっとトリップしてきたようです。

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