シアトル便り................................................中島由美代

 

 「話の種」....友人と話す時には決して尽きない種、でもいざ文章にするとすぐに尽きてしまう不思議な種。今まで何十回この種を書き始めてはリサイクル箱に入れてしまったことか。今朝,三女を日本語補習校に送った帰り道、運転しながら今日は書けそうという気になり、帰宅するなり書き始めた。それなのに、もう尽きてきている。あまり深く考えず身近なことから書いてみよう。

私は週に2回、近所のコンベント教会にあるプリスクールでお手伝いをしている。3才児クラスなので毎年9月にはまだ赤ちゃんが抜けきらないような子供たちが入ってくる。クラスの中でぽかんとしている子、おもちゃで遊んでいいのかしらとおそるおそるさわっている子,さまざまな不安を見ているようで思わず抱きしめてしまいたくなる。ここでお手伝いを始めたきっかけは、二女が高校の授業で通っていたプリスクールに日本人の男の子が3人いて、日本語のみ3人で話し、先生の話を少しもきかないので、二女の後、私が通うことになった。行き始めた頃は、子供たちに私の話が通じず、このおばさんどうしたんだろうという顔をされ、また子供の顔も名前も覚えられず、苦労した。去年は三つ子の男の子がいて、いつもおそろいの洋服をきているので、さあ大変、先生達はすぐに区別がつくのに 私は何ヶ月かかったことか。彼らがクラスを卒業する頃になり、やっと名前と顔がわかるようになった。三つ子だけでなく、クラスの子供達の名前をなかなか覚えられない。毎年、今年こそはと、紙に名前を書き台所のキャビネットに貼ってある。年が明けるころになると、今まで何回も話さなければ通じなかった私の話を子供達が一回で理解してくれるようになる。主人に私の英語もたいしたものだと話すと,ニヤニヤしながら「子供達が、これは新しい英語だと思い、一所懸命聞くからだ」といわれてしまった。

私が、学校のお手伝いを始めたのは、サンマテオのパークスクールがきっかけだった。家にとじこもり、カウチおばさんになるのはいや、かといって働けるビザもないし、それでは子供の相手ができるところと思ってスタートした。長女も次女も、今は大学の勉強が忙しくてしていないが、サンフランシスコでも、シアトルに戻ってきてからも、ボランティアをしていた。三女は、ジムナスティックにはまり、夢中になっているが、彼女の通っている高校では卒業までに100時間のボランティアをしなければならない。そこで、ジムのお手伝いをすることにしたが、(学校では公共の場所で、という事だったのだが)彼女が働いた時間分のお金がインディアン保護の為に使われるのでよいという事になった。とうに、100時間は超えているけど今だに続けている。

話は飛ぶが、以前我が家の近所の山がどんどん宅地造成されてきたことを書いた。1年ほど前まで雑木林だった所が、今では道ができ家が建っている。私の散歩道だった「山羊の家」...私が勝手につけた名前だけど、いつも黒い山羊が庭で遊んでいる農家があった。たった一匹の黒山羊だけど、「山羊の家」という印象が強くあった。今では、ミリオン以上の家が10軒近く建っている。あの山羊はどうしているだろうと、前を通るたびに思う。

我が家から見える低い山々は四季の変化を十分に味あわせてくれていたが、今ではゴルフ場にと変わりつつある。私が住むようになった4年程前は、道路も混んでなかったのに、今は朝の交通ニュースにばっちり出ている。今朝のニュースで近くのイサクワという所でクーガが捕まり、スノーコアミというスキー場の手前で雪のないノースベンドの山に移されたといっていた。昨年春には、我が家のすぐ近くに熊を生け捕りにするための罠が仕掛けられ、罠のドアの閉まる音がしたらポリスに通報するよう連絡がきた。春になると、散歩をしている鹿の親子にぶつからないように運転していたが、この頃はそんなにあうこともない。ラクーンが去年の夏、我が家の雨どいにぶらさがり壊してしまって、それからは庭にいようがデッキにいようが決してグラハムクラッカーをあげないことにしている。

こうして書いていると、まるで山の中という感じがするでしょうが、そうではなく住宅地なのである。それだけ山が住宅になってしまっているのだと思う。以前住んでいたフォスターシティより自然はいっぱいあることは確かであるが、10年先にはどんな風になっているかわからない。

そろそろ私の「話の種」も尽きてきたようだ。