『話の種』35号から38号まで4冊拝読いたしました。読み終わって感じ入りました。それぞれ文章には豊かな感性が溢れていて表現の巧みさに引き込まれました。さて、然し同時に一抹の不安が頭をよぎったのも事実です。「これは、いささか安請け合いをしてしまったかな〜」と。
申し遅れましたが、私は桧木陽子さんが小学校5年、6年の時の担任教師でございました。教え子達の卒業後は、各自それぞれ進学、就職、結婚、子育てという人生航路を懸命にひた走っていた事でしょうし、私もまた自分の生活で精一杯でした。
暫くあたりを見回す程の「ゆとり」ができた時は、既に30年は過ぎ去っておりました。ところが或る日、卒業生からのクラス会への招待状が届いたのです。私も嬉しいような、少し不安のような気持ちで出席しました。
30年ぶりに見る、かつての子供たちの立派な成長ぶりに、眼をみはりました。(考えてみれば当たり前の事ですけどね)挨拶をされても、どうしても思い出せない顔、かと思えば「 ○ ○ 君でしょう」とすぐ分かる程、童顔がそのまま大人になったような人もいて、しばらくはわいわいがやがやのはじまりでした。
自己紹介から始まって、陽子さんがカリフォルニアに在住と知った次第です。賑やかな会も、あっという間にすぎて、これからは2年毎に会を開きましょうと約束をして、ひとまず第一次会は終わりになりました。
それから数ヶ月後、陽子さんからの便りで、こちらのクラス会の様子とか、写真、名簿等が送られていったそうで、遠く離れていても、何等かの形で結ばれていた様で嬉しく思ったものです。
1998年1月2日に陽子さんから電話がありました。現地からかとびっくりしましたが、今回は日本の実家の鶴見からとのことで、安心して長話しをしてしまったわけですが、その話題の中の一つが『話の種』だったというわけです。
私は「『種』ならいくらでもあるわよ」と、まあ冊誌を読まないうちから、請け合ったというのが事の成り行きでした。ところが届いた本を読んでから、前述したような不安がよぎったいう次第です。確かに32年も教職にありましたので、『種』はたくさんあるにはあるのですが、いささか小粒なので恐縮に思っています。
前置きが長過ぎましたが、40年位前の頃の小粒な話をしましょう。
題名は「自分の短所も『話の種』に」とでもしましょうか。
3月の年度替わりに、校長移動があって新校長の着任の時の挨拶の話です。お話ししたままの通りを書くことにしまよう。
朝礼台に立たれた校長さんは、大きな声で「皆さん!おはようございます。私が校長先生の原山三郎です。今朝ネ!鶴見駅から学校へ来るまでの間に、こんな話し声が耳に入ったんですよ。『今度の校長先生は、ハラヤマ先生っていうんだってさ。』と言えば他のひとりは、『ちがうよ。ハゲヤマ先生だってよ。』と言っていました。私の本当の名前は、"ハラヤマ"です。でもね"ハゲヤマ"でも間違いではないみたいですね。ほーらね、この通り」と言うと同時に首を前に深く下げ、次にクルリと後向きになりました。全児童は一斉に「アッハハハ......」と笑いました。だってまさしく、十三夜の月の様に禿げ上がっているのですもの。児童はひとしきり笑っていましたが静かになったところで続けて「本当はハラヤマですけれども、もし忘れたら、この禿山を思い出してくださいね。これから仲良くしましょうね。よろしく。」と言って十三夜の月を見せておじぎをして台をおりました。ただ、これだけの話です。が、.......
もしも、威厳に満ちた校長訓話であったらどうでしょうか?私の想像では、上級生の中には、早速渾名をつけただろうと思います。渾名は隠すからこそ、付けた醍醐味を感じるのであって、この様に機先を制されては、新鮮味も面白味もありませんでしょう!
その後、どうなったかもわかりませんが、多分誰も「ハゲヤマ先生」とは言わなかったと思います。何故なら校長さんは、何時も優しく、児童からの挨拶にも、にこにこ応じておられましたから。
私も隠しておきたい短所を多く持っていましたが、この話から「時と場合によっては、自分の短所も教材になるな」と思いつき、実際に使わせていただきました。少しオーバーな表現ながら、私の人生観、教育観が変わった様にさえ思えました。
ちなみに、現在設置されている特殊学級の必要性を説かれ、努力したのも校長先生でした。厳しさと、思いやりの心を持たれた校長さんで、話をするときの癖らしく、十三夜をつるつる撫でておられたご様子が鮮明に浮かび、懐かしく回想している昨今です。
(注)特殊学級は、差別ではありません。理解困難な事を特に指導しながら、他の学級と交流をしている学級です。