「テレビジョン」をはじめて観た時の驚きと今
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私は1998年5月で満74才になった大正13年生まれです。欲を言えば、きりがありませんし現在では、分相応に「足るを知る」気持ちであれば、私が食べたい物は手に入るし、私なりの着たい洋服も身につけられるし、医療にしても安心(私にすればの話ですが)して頼れるので、心豊かに暮らしています。この進歩、発展も先人の大変な努力によって築かれたものと喜びと感謝の日々と言うわけです。ただ、美食をしても、新品の洋服を買っても、勿論嬉しいには違いがありませんが、身ぶるいする様な感激に浸る事が少なくなったような気がしてなりません。そこで、初心にかえったつもりで、30年程昔に時計を巻き戻しをしてみようかと考えて、題名のような小さな種を選んでみました。
さて、戦後夢中で働いていたころは、ただ食べることのみで頭の中は満たされてていましたが、ようやく満腹感が実感出来てくると、次の望みは娯楽でしょうね。その先端はラジオと映画でしょう。ラジオでは、今迄の堅苦しいニュースばかりから一転して軽快なメロディーが街中に流れるし、ロマンチックなドラマには、忘れかけていた青春と重ね合わせて、皆それぞれの思いに酔いしれた思いでした。
ラジオのドラマの代表作と言えば「忘却とは忘れ去る事なり...」の名文句ではじまる「君の名は。」でしょう。故佐田啓二さん(中井貴一さんの父)と現女優の岸恵子さん主演で一声を風靡したと言っても過言ではありません。このラジオ放送の時間帯には、大衆風呂屋の特に女湯は、がらあきだったと言われていました。当時、内風呂のある家庭は、ごく限られておりましたから。
映画館も連日満員御礼、すしづめで背の高い人が前にいると、よく見えません。ようやく人と人の間から見えた程度でしたが、それでも何となく満足して帰ったものでした。
そのうちに、誰と言うとなく“映画館で見るようなのが家の中で見られるらしい。名前はテレビジョンと言うそうな”とのうわさです。フィルム無しで、どうして映るのか想像もつきませんでしたが、程なく現実となって発売されました。勿論私共一般には高嶺の花、私の近所での一番のりは、お大尽の家。羨ましく思いながらも諦めておりましたら、私の家の前の米屋さんが買うと言うではありませんか。これなら見せてもらえる可能性十分と、我が事のように嬉しくなりました。
いよいよ米屋で設置する日(私は出勤で不在)母と叔母は工事の様子を家の窓から見ていたそうです。何やら高い所にトンボのような形のアンテナを立て、大きな箱が控えられた。スイッチをいれた途端に小唄勝太郎の姿と共に「ハ~~島で~~」と言う島の娘の歌声が聞こえてきたのにはびっくりしたそうです。勤めから帰った私に、母は聊か興奮気味に説明してくれました。
その頃のスポーツの中でレスリングの力道山の空手チョップが大人気でした。米屋は営業が終わり、番組のある日はTVを奥から道路近くまで移動して、サービスに皆んなに見せてくれました。店の前が道路より内側だった事と、車が通るわけでもないので、結構な広場が出来ました。早々来てる人、台を持ってくる人で、我が家の前は集会場に早替わり。私も一寸だけ覗きましたが、どうして写るのだろうと不思議でなりませんでした。(尤も今でもわかりませんが)私はこのスポーツは好みませんので見ませんでしたが、同居していた親類の家族は窓から見て大喜びではしゃいでおりました。(特等席というわけ)
同じ頃、NHKでの人気番組は素人のど自慢大会です。合格すると「カン・カン・カン・」と鐘が3つ鳴り大喜び。たとえ1つで不合格でも出演出来ただけで満足と言う雰囲気で希望者が多かった様です。地方予選で1位の人が集まって日本一を決める時はテレビで放映です。昼間ですから、前の米屋は営業中。母は姪2人と一緒に500メートル位離れている薬局まで行って、立見する釈2時間余り。満足して帰り夜は姪達も交わって日本一になった人の話に華が咲きました。
各企業がこぞって研究してくれたお陰で私たちにも何とか手が届くようになり、我が家も購入する事になりました。尤も同居して勤めていた弟からの借金でした。弟はボクシングだけ見せてくれればOKと言うので、私共の部屋に設置する事にしました。私が勤めの昼間、業者が設置に来たのです。スイッチを入れた途端に大きな体の相撲の力士が眼の前に現れたので、母は「ワッ」と叫んで後へ跳びさがり、業者に笑われたと言って、帰宅した私に嬉しさと、おかしさの混じった顔で説明していました。私も「嬉しくて、嬉しくて」と言う言葉以外の表現が見つからない位、嬉しかった事を覚えています。
番組の中でも特に圧巻は大晦日の紅白歌合戦でした。暮れの忙しい仕事はさっさと仕上げ待っていました。どちらかが勝っても負けても、あのすばらしい歌声に時のたつのを忘れました。終わった頃から除夜の鐘が「ゴーン」と鳴り渡り、何とも言えないしんみりした気分と共に、平和の喜びが沸沸と腹の底から湧き立ってくるような気持ちでした。
豊かさを求めてと申しましょうか、白黒テレビからカラーになるのには、時間は速かった様な気がします。でも母は「カラーは嫌だ」と申します。赤い血等を見るのが嫌だと言うのが理由です。近所中がカラーになっても、我が家は白黒でした。私も初心の感激も忘れたかの様にカラーTVがあったらいいなと思いましたから、人間の欲望には限りがありませんね。そのうちに転機が転がってきました。
それは、茨城県の生家の法事、私が母の代理として出席した事がきっかけです。帰宅後の報告の中の一つに、「田舎でカラーテレビ見てきたワ」と申しますと母は「エッ!田舎にカラーテレビがあるの?そりゃ大変、我が家も買わねば」と早速カラーに入れ替え、感激して慣れ親しんだ白黒ともお別れと相成りました。
「どうして母が驚いたのか?」と不思議に思われるでしょうね。実は母は明治生まれで満96才になります。80年前にその生家ではじめてランプから裸電灯がついた頃を知っていますのでいくら時代の流れとはいえ我が家より早く、カラーテレビになろうとは想像もつかなかったのでしょう。理由はどうあれ、私にすれば嬉しい事でした。
その母も、方々の自然の風景が写しだされると「まるで旅行しているみたいね」と満足げに眺めています。母はいまでも元気に家事をこなしていますのに、若い頃から乗り物酔いで旅行は出来ませんでしたのでカラーテレビは最高の贈り物と言えるでしょう。科学の進歩の速さのすさまじさは、驚くばかりで、今では世界中の出来事が即座にわかります。原稿を書いていながら、フランスでのW杯サッカーが映しだされるのですからびっくりします。
題名からはすこし余談になりますが、私は母の90年間の時代の移り変わりを聞くのが好きなのです。特に母の青春時代(大正年間)には興味が深いのです。例えば、前に一寸触れましたが、ランプから電灯に。13才で東京へ来て、初めて自動車を見た時とか。当時、日本では飛行機は飛べば、どこに落ちるのだろうと思っていた頃、アメリカの19才の女性飛行士が空中で木の葉のようにクルクル回るのを見て、「本当に人が乗っているのかしら」と思った事、空ばかり見てたので首が痛くなった等々...言うなれば語りべとしての話です。機会があったら、書いてみましょう。