..................................八木 博
第88号
日本的なものと西洋的なもの その1
世界経済と日本の状況を比べて感じるのですが、日本的なものがすでに世界の各所で取り入れられて来ているということではないかと思います。新しいところから見ると、カンバン方式というのはすでに国際標準の製造工程の物流方式になってしまった感がありますし、企業内集団活動なども米国の企業では、Teamworkという言葉で従業員への教育が進められています。またその反対に経営手法など何時の間にか、国際会計基準がグローバルスタンダードになるという事で日本の企業会計もその中に繰り入れられようとしています。これらを比べる中で、日本(人)の古くからの個性や、創造性というものを見直してみたいと思います。
縄文文化と弥生文化
私の手元には吉川弘文館の世界史年表があるのですが、日本の縄文時代と弥生時代の記述はほとんどありません。最近発見されている三内丸山遺跡などは、紀元前45世紀という古いもので、エーゲ海文明が始まるより1000年以上古いものだそうです。(平凡社マイペディア98による)そのような早期の文明なのですが、次に続く弥生時代とのつながりが、私には未だ良く解りません。縄文とは異なった文明であるというところまではいいのですが、それでは一体この国の中に何が起こって、新しい文明に置き換わっていったのか、その筋書きがはっきりしないのです。
邪馬台国から古墳時代へ
そして、弥生時代の終り頃、邪馬台国の卑弥呼が現れてきます。このあと古墳文化へと移って行きますが、これも邪馬台国と古墳文化のつながりが非常に見えにくく、どうやら関係ないとしか結論が出せない状況にあると思います。おのおの独立した文化が入れ替わり立ち代わり栄えていったというのが、本当の姿かも知れません。ここは、考証学的にも議論の多いところですから、私の理解は、多くの文化が混在したのが日本の歴史の根底にあるということでとどめたいと思います。古墳時代の後期には、飛鳥時代そして大和朝廷へとつながって行きます。
聖徳太子の出現
飛鳥時代の人物で日本の文化に大きな影響を与えた人はやはり聖徳太子だと思います。彼は幼い時から聡明で伝説的な逸話があります。その一つが同時に7人の人の言うことを別々に聞き分けたというのがあります。これなど、日本人の一つの価値観で、あらゆる事に広く聞く耳を持つことが大切だという価値観に相当していると思います。一方、西洋は個人の主張が激しく、個々の話し合いこそ、重要なことであるとされ、ギリシャ時代にはプラトンやソクラテスの対話や、ローマ時代の公民権の普及など「個」の主張や権利をどのように生かしてゆくかを重要視しています。言い換えると、日本はいかに個々をまとめるかというところに重要性が置かれているのに対し、西洋はいかに個々を主張するかが出ているように思うわけです。
和を以って尊しとなす
聖徳太子の17条の憲法は、和を以って尊しとなすという有名な言葉が入っています。これは先ほどの、多くの人の声を一度に聞いてしまうという作業と良く似ているように思います。それは、個々人としてではなく意見を聞いて、それに答えるという要素があるからです。そして、それらの意見を一つ一つを説得し、それに納得して和を保つということを理想としたわけです。西洋のように、個性を尊重すると個々を生かすことはそれぞれの意見を生かすことになります。それらが一つにまとまれば良いのですが、まとまらない時にはやむなく数で決する方法を取らざるを得ないということになます。多数決の根底は、このような個性を生かすことだと思います。これは聞いた話ですが、ユダヤ人の社会では全員一致の場合は、それを採択しないというルールがあるそうです。その心は、そのような結論は、検討が十分行われていない証拠だからというのがその理由だそうです。一つの結論に至る過程でも、日本と西洋で(あえて言えば日本以外ですが)異なっていることが判ります。これらを再認識することは、日本(人)の思考における好みや癖を知る上で重要なことだと思います。理由は、西洋は自分達の文化以外のものから、多く学び始めており、それによって成果を上げているものが出て来ているからです。
第89号
日本的なものと西洋的なもの その2
前回は、聖徳太子の時代の、和というところに一つの特徴があることを考察しました。蛇足になりますが、Be OSを開発したGasse氏は、日本のことも詳しいフランス人ですが、「和」では仕事は進まないといって日本の仕事のやり方が、すでに遅れてしまったことを暗に指摘していました。それでは聖徳太子以降の日本の文化はどのように進んで来て、今の日本人に影響を与えたのでしょうか。当時の庶民の考え方は、明確に記録に残っていませんが、残された歴史の跡から推察してみたいと思います。
奈良時代は、国の思想中心
奈良時代が仏教思想での政治に移行し、国の事業として東大寺の建立が行われたりしました。聖武天皇は国の平和と国民の安寧を願って立てられたとおあります。当然のことですがそのような仏様に守ってもらうのが、国を平和にする上で一番重要なことと考えられてきたわけです。私は、その事のやり方は別として、為政者が「自分より優れたものにお願いする」という姿勢を見せているところが、現代の日本と比べると、大きな違いであると思います。
平安は仏教思想のるつぼ
平安時代には、仏教が実に幅広く伝来しそして、各々流派として成長して行きました。あるものは密教となりその論理をどんどん追求して行く形を取りました。しかし、まだ民衆が取りいれるというものは出て来ていない状況でした。そして、藤原氏の全盛へと向かうのです。これが今からやく1000年前の話でして、歴史年表で見る限り、前の千年紀突入の時には、大異変は起こっていないように見えます。そして、あの藤原道長も西方の極楽浄土に行けるよう、死の床では阿弥陀仏に色糸を掛けて往生したということです。権勢というものと個人の意識とで、やはり外に偉大なものがあることを素直に受け入れていたことがうかがわれます。
いざ、鎌倉は
鎌倉に入ると、多分農民から武士への頻度が増えて、戦の場での死や個人の死生観が出てきたためだと思うのですが、仏教が個人を相手にし始めます。その一人が日蓮であり、彼の法華経への信仰は個人としての覚醒となって、あの生涯の強い意志での伝道へとつながったわけです。私は無宗教なのですが、法華経を(口語訳で)読んだ時にすごく感動しました。一つは、教義を羅列したものではなかったこと。もう一つは、あたかもファンタジーのごとく、一人一人の人間が悟りを開いて行くところを描いているのです。その時に、私なりには、一人一人が神であるといわれた内容を確信することが出来ました。もう一人はここでは親鸞でしょう。彼は妻帯して伝道するという、従来とは異なるアプローチでしかも、念仏に精進するということで、多くの個人に信仰の一つの姿を与えたと思います。特に、私が以前聞いた話では、妙好人という人達は、あらゆる事に感謝しながら生きることで、その浄土信仰を実践しているそうです。何やら、お客様のお望みのままにするのが、私どものサービスですといい始めた、ホテルや、デパートなどのサービス精神の元祖のような気がします。この風潮は、米国も日本も同じで、お客にありがとうすら言えないサービス業は、凋落の一途をたどっています。また、別な話になりますが、最近、ユダヤ教のラビ(司祭)は妻帯者でないと勤められないという話を聞きました。それは、人生のことが解らない人は、信仰についても指導できないからだ、ということだそうです。なかなか面白い智慧だと思いました。世界にはいろいろな考えがある事が分かります。
このように見て行くと、人間の思考の中には、文字通り多種多様のものがある事が分かります。しかしその根底の思想は、割と古くから真や善や美を求める作業の中ですでに知られていたような気がします。その意味で、歴史を振り返り、洋の東西の思想を見詰め直す作業は重要だと思います。これからの時代、その流れをつかみながら見据えてゆきたいと思います。(つづく)
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八木 博 e-mail hyagi@infosnvl.com
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