..................................川端 八重子
1999年8月6日、広島の原爆の日も今年で54回目を迎え、誰にも忘れることはできない、あの忌まわしい日々の深い思いは、個人々々違った辛いことがあったと思う。私には、夫の復員当時のことが思い浮かんだ。
フェーン現象か、連日連夜、32℃から36℃まで上昇した猛暑の日本。かと思えば、洪水豪雨で大きな被害が出ているところもあり、世界中でいろいろな出来事が起きている。
部屋の中で、私はエアコン2時間と、扇風機3時間と交互に温度をコントロールしながら、今日の日を生き延びなければと暑さと戦いながらかろうじて生活している。頭脳はボ―ッとしているが、自分個人の夏の思い出を書いてみた。
54年前、私は、前回の『話の種』にも書いたが、当時2歳半の長女を連れ栃木県の奥深い田舎、見渡す限り水田と山に囲まれた農家に疎開していた。終戦が報道され、夫の帰還が近い日となり、宇都宮の爆撃の音もなくなり、静かな夜のことであった。この部落には街灯はない。突然、事件を知らせる鐘の音が闇を破った。2人の若者が「今、兵隊さんが川に飛び込んだ、自殺でないか?皆そう言っているよ」といってきた。私はこの家の息子と、自分の子供の手を引いて思わずタオルをつかんで、若者のあとを走った。この家の息子の持った提灯は、約1キロくらい先の川の辺りの草の上に横たわった兵士を照らした。走ったのでハアハア言っていたが、かすかな提灯のあかりでも視線が合った。その兵士は顔を見るなり「八重子!陽子!」とはっきり叫ぶように、私と長女の名前を呼んだ。
すぐ医師が来てくれ注射を受け、医師が起こして立たせて2,3歩歩かせ「ああ大丈夫だ」と、人だかりの一同も田舎言葉で「良かった、良かった」と我が事のように喜んでくれ、近所のリヤカーを借りて若者2人でお世話になっている農家まで連れていってくれた。全くこの村は、田舎のその奥の田舎であるが、親切な人達ばかりで、感謝のみ、夫は数日間静養して回復した。リュックの中身も乾いていたが、全部使用不可能であった。歩行も普通となったので、この家の息子に案内してもらい、助けていただいた家々にお礼の挨拶をするのに2日間かかったが、皆口々に「兵隊さん、ご苦労様でした。」と嬉しい対応であったと夫は喜んでいた。夫は復員して栃木県に疎開していた私達を迎えにきたのだが、闇夜で道に迷いながら歩いているうちに、例の川に落ちたという次第。
この翌日より、私達は約一ヶ月間、この農家の仕事を奉仕した。我が家は空襲で焼失したが、夫の実家が無事に残ったので、居候の日々が続いたが、若い頃より勤めていた日本石油に復職でき、会社の人々にも良く帰ってきてくれたと皆さんの親切を受けた。
夫は1981年突然脳溢血で他界。あれから18年経過し、私はこの夏86歳となり、何とか今日にいたりました。
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