..................................村井 侑子
今年の八月ももう過ぎましたけど、私の心の中にあの1945年8月15日の戦争終結のための降伏をした日のことは、終生忘れることなんく、思い出されていくことでしょう。あれからもう54年、半世紀が過ぎ、平和がつづいて、戦争があったことは徐々に忘れさられようとしている。
忘れもしない、あの終戦の日、夏の日であった。
近くの小学校の中庭に集まって、聞き取りにくいラジオのニュースを聞いた。子供だったので、嬉しいとか、悲しいとかの感情は特になく、ただ、そばに立っていた母が「戦争が終ったのだよ、でもアメリカ軍が来れば、日本の男の人はみな狩り出されてどこかへ連れられていくという話だけど」と言ったので、私は、それでは幼い弟はともかく、父が強制労働に連れ出されるのなら、身体の弱い父は死んでしまうに違いないと思ったのを覚えている。
新聞やその他のプロパガンダによる影響は大多数の日本人、大人も子供も含めて敵にくし、野蛮なアメリカ人というふうに洗脳されていたから、今思えば、信じられぬようなことが流布されていたのだと思う。
この日を境に、何日間か、みなそれぞれの気持ちの整理をつける迄、日本国中がざわざわと心さわいでいたような気がする。
戦争が終ってもまだまだ食料の欠乏はつづき、現在60代の人の死亡率が高いのは、戦争当時育ち盛りの時の栄養が片よっていたからそれが一つの原因と聞いたことがある。
初めてアメリカ兵を見たとき、朝の登校の途中の道であったが、彼らは陽気で大きくて、そして妙に肌の色が赤っぽい印象をうけた。2台のジープにそれぞれ四人づつ乗って、大声を出しながら、風のように走り去った後に砂ぼこりを残して行ったが、恐いとは思わなかった。
真駒内から札幌、千歳から札幌へ至る幹線道路は、当時舗装されていなかったのだが、アメリカ軍が千歳に駐屯してすぐに、まるで魔法のような早さで36キロの道路全部を砂ぼこりのたたないアスファルト道路にしてしまった。その物量の豊富さに、私達はびっくりしてしまった。我々住民はその11丁目の通りを弾丸道路と呼んだ。弾丸のように早く舗装され、そしてその上をひっきりなしにジープやトラックが弾丸のように走り去るからであった。幅広いこの道路は今でも健在である。
どんなに声高く他国を侵略するな、過剰な軍備をするなと呼んでも、世界のあちこちでまだまだ戦争はなくなっていない。国を代表する人達の国家権力か、国益かの判断で、国の運命が決まる。また今でもしばしば起こる宗教と民族の感情がからめが、憎しみの戦争ともなり、それが狂気の常識となって国民を左右するのだ。
縁あって、今はアメリカに住んでいる私。平和をありがたいと思うと同時にもうもう戦時体験は二度としたくないと八月がくる毎に思うのである。
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