“ひとり自慢の褒め手無し”…………………………………………………..松崎敏子
 
 

     今は亡き男優の西村晃氏が、生前ある対談で、一寸頭に手をやり笑い乍ら、「いうなれば、私の“ひとり自慢の褒め手無し”でしょうなあ」とおっしゃいました。内容は忘れたのですが、この言葉が強く印象に残りました。TVを見ていた私は「これはいける。早速いただきましょう」と思ったのです。全くぴったりの事柄が思い出されたからです。30年も経過した現在でも思い出すと、顔の筋肉がたるんでしまうのですから筋金入りです。然し、他人様が聞いたら「何だ!つまらない」と、一笑に付されてしまうでしょう。そこがこの題名の題名たる所以となるわけです。
  
    さて、今から35年前の1965年のころの話ですから、当時の近辺の様子の説明から入らなければなりません。その時私は小学校の教師をしておりまして、大綱小学校に転任しましたのが、1965年,42才の4月でした。大綱小学校は6月に旧校舎から移転しました。旧校舎の上を東海道新幹線が通るので、騒音やその他の理由から移転が決まったらしいのです。

  新校舎は田んぼの中央に建っていました。片側には民家が点在しておりましたが、三方は見渡す限り、田と畑と、草むらと、沼でした。晴れた日の朝は、富士山がくっきりと浮かんでいるように眺められましたし、夕日が沈み薄暮れになれば、茜色の空をバックに黒富士山のシルエットが見えて、詩心を揺さぶられる光景でした。
旧校舎の上を通る新幹線の車両が一直線に見えました。もっとも新横浜駅に停車する「こだま号」だけでして「ひかり号」は、アッと云う間に通過したように思いました。子供でなくても「カッコいいなあ」と思った位です。

  バス停から学校まで200m程の道の両側は草むらばかりでしたが、一ヶ所、沼がありました。ズブズブ入り込んでしまうので、人は入りませんから、沼の住人、いや、どじょうやざりがには肥えるばかり。大人の親指より太いどじょうが、あちらこちらととびはねておりました。

  校舎の裏側は一面たんぼでした。田植えも終わり200m位に育った若い緑の稲の葉が緑の絨毯の感じでした。3階の廊下から窓越しに見ていると、風に揺られて緑の波の模様が出来て、自然の造形にしばし見とれる事もしばしばありました。危険防止上、子供達は見ることができません。或る日、私が眺めていましたら、男の子が「先生!何見てんの?」と声をかけてくれましたので、「稲の苗が風に揺られていてきれいだから見ているのよ」と答えましたら、「何だ、つまんねえ?」と行ってしまいましたが、朝、夕、通学路で見慣れた風景では無理からぬことですね。前置きが長くなりましたが、この様な情況での話です。

  世の中も落ち着きを戻した頃、他校(近隣)の教師の親善の為のソフトボール大会の提案がありました。9名の中、年齢は不問。ただし2名だけ女性が入る事だけが条件でした。若手幹事は、女性2名の確保に努力しておりました。1名は確実でした。彼女は学生時代はバスケットボールの選手、現在はゴルフを楽しむスポーツウーマン。問題はもう一人です。若い女性に声をかけても、OKが取れないらしいのです。42才の私には、声もかかりませんでした。無理もありません。4月転任してきたばかりで、その上、身長152cm、体重42kg浅黒い顔をしているのですから、どう見ても、スポーツに縁があると思えないでしょう。ところが私は野球が大好き人間だったのです。

  或る日、幹事におずおずと申しました。「私でも出して頂けるでしょうかしら」と。幹事は「いいよ、いいよ、助かるよ」とふたつ返事でOKでした。何しろ女性でさえあれば、出来ようが、出来まいがかまわないのですから。
 

「いよいよ本論その1」

  或る土曜日の午後1時から、近くの大綱小学校の校庭で、最初のチームと対戦することになりました。のんびり出かけて行って、対戦相手の練習風景を見て、正直度肝を抜かれました。揃いのユニフォームできびきびと動いています。何も服装で決まるわけではありませんが、何よりも、投手の球が速いのです。既に試合前から「勝負あり」の感じでした。

  いよいよ試合開始。案の定、我が方は、三振続出。私から見れば、我がチームの主力選手はいい線上にあると思っていたのですが、余りにも投手(相手チーム)の投手の球が速かったからでしょう。それでも2点入って、8回裏では、7対2となってしまいました。

  相手チームは勝ちを確信したらしく、2番手ピッチャーと交替しました。2番手投手も上手でしたが、1番手とは、大分差がありました。我がチームの強力打線なら若しかして!と期待もかかりましようが、何と、ワンアウト1塁で、バッターボックスに立ったのは、ラストバッター松崎でした。前述しました通り、152cm,42kgがバットを持って構えています。云うなれば、マンガのポパイの相手のオリーブが立っている姿をご想像下さい。1番手投手の時には、球はバットにもかすりもしませんでいしたから、たとえ当たっても内野ゴロと踏んだのでしょう。センターは前進して2塁近くまで来ています。ゲッツーをするつもりでしょう。私も「敵もなかなかやるじゃないの」と内心では思いましたが、実績がありませんから、「まあ、仕方ないか」とあきらめて、バットを振りました。何とその球がバットに当たってくれました。センターが定位置にいれば、完全にセンターフライで捕られますが、前進していたので、その頭上を越して、校庭を転がっていきます。センターは必死でボールを追いかけ、ボールが戻った時には、私は2塁まで走っておりました。

  さあ大変、我が方は、1番の強打者からです。俄然元気づいた男性は、バンバン打ったらしく、その1回だけで7点入って、7対9と大逆転となってしまったのです。相手チームの投手は交替は出来ませんので、遂に、7対9で我がチームの勝利となりました。7点の中にはランニングホームランを打った猛者がいたそうで、話題は専ら、その話にかくれてしまいましたが「その口火を切ったのは私よ」と云うのが、私の唯一の自慢なのです。後日、聞いた話では、相手チームは優勝候補だったそうです。1番手投手が続投していれば、多分そうだと思います。大袈裟に云えば、投手交替が勝敗の分かれ目でしたかしらね。
 

「本論その2」

   2回戦は我が大綱小学校で行いました。校庭は工事のために後方は土で山が出来ていました。今度のチームは、実力は5分5分だろうと思って試合をしました。大した波乱もなしに回が進んでいきました。何回目かは忘れましたが、相手チームのカウントはワンアウト1塁で、バッターはチーム1番の強打者でした。私の守備はライトです。平らな校庭ならばライトにボールが来ても、センターが走ってきてカバーしてくれますが、前述通り、センターは土のお山の頂上で動けません。そこに大きなフライがライトの私の方向にとんできました。守備の人達はどうにもならないので見ているだけだったようです。多分、ランニングホームランで2点追加と思っていたのでしょう。ところが、私はがっちりと受け止めました。捕手には一寸自信があるのです。一塁に投げるには遠すぎます。二塁手が走って近づいてきましたので、その人に渡し、二塁手はボールを一塁に投げて、ゲッツーでチェンジです。

  相手の打者は、私が捕るとは思わないでしょうから、見もしないで、ぐるぐる一周してホームベースを踏んでいるところに、守備陣が戻ってきたので、変な顔をしていましたが、やがて情況が理解出来たらしく「エッ!あのボール捕ったの!」とキョトンとした後「いや?、参った、参った。」と頭をかかえていたので、全員大笑いでした。この時も勝ったのです。

  これで自慢が二つになりましたが、何時までも続きません。運悪く、私がソフトボールの試合に出ていたことが、母に知られてしまったのです。土曜日に遅いのは、ピアノの練習でもしていると思っていたらしいのです。母が私の体調を心配するので内緒にしていたのですが、残す2回戦は、母から出場停止を申し渡され、止む無く帰りました。

  それでも42才の私が出場した事が結果的に良かったらしく、若い女性の立候補者がふえて、とんとん拍子で勝ち抜き、4回戦で優勝に輝きました。でも最後の名誉な優勝の美酒を味わう事が出来なかったのが、今でも残念でなりません。

  後日談になりますが、校長さんが「今回のソフトボール大会には、優勝したらしいね。何でも予想外の伏兵がいたとか。若しかしてどこかの学校から、スカウトされるのではないかと云われているようで…。」と意味不明瞭な内容を笑い乍ら話されたときには「あの伏兵は絶対私の事よ」と、今でも“ひとり自慢の褒め手なし”を自負しています