インカを旅して……………………………………………………………….山岸美奈子
 
 

うだるような暑さのマイアミを夜中に発ち、インカへの入り口である冬のリマに着いたのは、1999年6月初旬、夜の闇がやっと白み始めた早朝であった。日本の晩秋ぐらいの寒さが心地良く感じられ、空港の外ではタクシーの呼び込みと、出迎えの人々の群が薄暗闇の中で異様な賑わいをみせ、まるで古い映画の一場面を見ているようなその光景に異国に来ていることを実感させられた。今回の旅の仲間であるトム、リリー夫妻、トムの義姉のキミイ、彼らはマイアミ在住、夫と私の計5人、これから始まるであろう旅への思いを馳せながら、迎えの車を待っていた。トムはアメリカ人、奥さんのリリーはペルー人、彼らに出会ったのもやはり旅の中であった。      
  
数年前、スイスの旅行社が募集したイタリア旅行に参加した際、ハネムーンで参加していた彼らと親しくなり、それ以来、文通やE-mailでお互いの近況を知らせ合っていたところ、リリーの里帰りに同行しないかという誘いに飛びついたと言うわけである。トムは31才の白人、快活で一緒にいると、誰でも楽しくなるナイスガイ、リリーは多少東洋的な顔立ちをした、心優しい細やかな女性である。我々とは年が離れているがそんなことが少しも気にならぬ間柄である。インカへの魅力はもちろんのこと、その上彼らと又楽しい旅が出来ると思うだけで、日本から21時間にのぼる飛行機の乗り継ぎも何のそのとばかり駆けつけた。

リリーのお父さん達の出迎えでリマのセントロ(中心街)にあるホテルに向かった。空港から30分ぐらいの間、夜が明け活動し始めた沿道の様子が目に入ってきた。殆ど雨が降らないリマでは、家も木々も埃で灰色、その粗末な造りと荒廃した街のたたずまいに言葉が出ない程であった。道ゆく人々は色が浅黒く、体格は頑丈でそんなには大きくない。顔付きは我々東洋人によく似て、遠い昔祖先が同じであったのではという説が頷ける。多少我々より険しい感じがするものの、なぜかとても懐かしい感じがする。ホテルに着いたのは7時を回っていた。

夕方、食事を兼ねて街の散策に出掛けた。冬のリマは曇天が多く、排気ガス規制のないこの国では、信じられない位のポンコツ車がひっきりなしに走っている。その車からの排ガスで街全体がスモッグに覆われたように、あたり一面がセピア色化している。日本からの中古車が多く見られ、中には日本語のステッカーをそのままにして走っていた。電車、地下鉄もなく、交通機関はバスかタクシーだけ、バスはボロボロな車に、はみ出しそうな位人を詰めて、更に大声で乗客を集めながら運行している。私たちにはとても乗れない。タクシーが主な足となっているのでいつでも、どこでも手軽にすぐ拾える。乗り方もまず行き先を告げ、料金の交渉に入り、双方が合意したら出発となる。スペイン語が出来ない私たちは、すべてリリーにお任せである。ペルーの通貨はソーラスで$1 が3ソーラス、乗れるだけ詰め込んで15分乗っても$1 本当に安い。産業、資源にも恵まれないペルーでは、貧富の差が非常に大きく、就労人口の48%が失業中、平均給与が月収$170と聞くと、このタクシー代も当然といえる。

日曜日のせいか家族ずれや若者で溢れんばかり、教会の広場では薄い夕日の中で人々がゆったりと休日を楽しんでいる様子に心が和んでくる。荒廃しているように見えても、リマは一国の首都。教会、大統領府などの一際立派な建物が目に入る。スペインに統治されていたのでその殆どがスペイン風である。私たちはリリーを先頭にぶらぶら歩きながら、商店街に入った。どんな物でも売られていそうな店がぎっしり並び、雑多な市場の雰囲気である。肩を触れあいながら歩かねばならぬ程混み合い、活気に満ちている。どこからともなく物売りがやって来て、バンドエイド1つからたばこ1本に至るまで何でも売りつけにくる。覚え立てのスペイン語で断って見るが、簡単には引き下がらない。靴磨きの幼い子供が磨かしてと私のスニーカーを磨こうとする。7,8歳位だろうか、埃と垢で黒光りしている少年に心が痛んだが、その逞しさに日本の子供達とつい比べてしまう。

商店街の中にある食堂に入り夕食となる。チキン料理専門店なのでチキンのバーベキュウ。それとポテトを注文、初めて食べるリマでの食事、おそるおそる口に入れて、思わず「こりゃ旨い」と日本語が出たほど美味しかった。外側がかりっと中が柔らかくジューシー、味もしっかりとした昔ながらの鶏肉の味、それに約30種はあるというジャガイモもホクホクと本当に美味しく、しかも日本に比べるとその安さに嬉しくなる。私が余りに感激したので、後にリリーの親戚に食事に招待される度に、チキンとジャガイモで歓迎される事になった。ペルーは農業国でポテト、トマトが原産、果物も野菜も豊富に採れる、比較的豊かな食糧事情のせいか庶民の表情は明るく、とても社交的、貧しさなんかにめげず、したたかに生きている様子が窺える。味よし、値段よしの食事に満足して、又商店街をぶらぶらしながらホテルに戻った。

翌朝は5時起床、眠い目を擦りながら空港に向かう。今回の一番のハイライトであるクスコ、マチュピチュはかつてのインカ帝国の首都であり、クスコは海抜3300mを越える高地にあり、電車で行くとかなりの時間が掛かるので飛行機で行くことにした。アンデス越えの飛行機は、天候の安定した早朝の便しかない。約l時間30分の飛行でクスコに到着。セピア色のリマに比べて、なんとクスコは美しかったことか。富士山と同じ高さにありながらアンデス山脈の裾野一面に広がった一大都市でペルー最大の観光地である。空気の薄さが多少感じられたが、その分周りが更に鮮やかに見えた。高地特有の太陽光線が燦々と降り注ぎ、このひなびた素朴な、かってのインカ帝国の首都をさらに美しくしていた。私達をインカの世界へ案内してくれるガイドの出迎えでホテルに向かった。

16世紀にピサロ率いるスペイン軍に征服されるまでインカ帝国はメキシコとの境からチリーに及ぶ大帝国であった。首都のクスコは当時、金で輝いていた黄金郷であったと言われている。現在スペインにある金の1/3がインカから略奪されたものであると言われる位、その量は莫大な物であったらしい。海岸から入って来た総勢200人にも満たないスペイン軍が、高地のここまで馬で上り、インカ帝国をあっけなく倒してしまったとは、歴史上の事実であるにせよとても信じられない。インカ帝国は数百年続いたが、プレインカと呼ばれている以前の時代が非常に長く、現在残されている遺跡などはプレインカの時代に造られたとされている。インカ文明は伝達の手段である文字を持たなかったので、はっきりしたことは分かっていない。征服したスペイン軍がクスコの街をすっかりスペイン風に変えてしまい、今では全体がスパニッシュコロニアル風になっている。しかし寸分の狂いも無いほどに積み上げられた城壁や、小道に至るまで敷き詰められた石畳の道が当時のままに残されている。その道を、写真で見た山高帽子に重ねたスカートを着け、背中に荷物を背負った女性達が独特のスタイルで歩いている。遠い昔にタイムスリップしたような不思議な気持ちになる。何世紀もの間、ずっと変わらぬ日々の営みが今も同じように生き続けている重みに感動を覚えた。きっといつまでも心に残る事であろう。                                        
高地のクスコでは空気が薄い故に飛行機で来ると、体がすぐ適応出来ず高山病にかかる恐れがあると言われ、にわかに心配になる。ホテルにはその予防になるカ茶が用意されていた。麻薬で有名なコカインは花の部分で、コカ茶は葉を煎じたものである。ちょうど麦藁を煎じ少々青臭くしたような味で、美味しくはないが、飲み慣れるうちに匂いも気にならなくなる。麻薬の要素はないと言われているが、飲む程に気分がハイになって来るのがわかる。奇妙な体験であった。

街の中心にある教会を訪れた。征服したスペイン人が最初にしたのが、人々をカソリックに改宗させることであった。つまりスペイン化させることであった。現在ペルーでは97%がカソリック教徒である。それまで太陽を神と仰いでいた人々には多くの苦難を強いる事になり、その跡が随所に残されていた。

ヨーロッパの寺院を思わせる大聖堂の中は黄金色に輝き、特に回廊に囲まれた中庭が美しく、彩り豊かに草花が植えられていた。小高い丘にある遺跡などを見終わった頃には日はとっぷり暮れて、辺りは目を凝らさないとはっきりわからない程になっていた。

昼間の暖かさが嘘のように日暮れとともに、しんしんと冷えこんできた。ガイドに頼んでセーターを売る店に連れて行って貰った。日本を発つ前、暢気な私たちは地図上では赤道に近いから冬といえどもそんな寒くはないだろうと、薄手のセーターを持って来ただけであった。特産品のアルパカのセーターを現地調達するつもりであったのだが。海抜3300mの冬の日没後は想像を越えて寒かった。
連れて行かれた店はバラックのような戸口から中に入ると、薄暗い裸電球の下、かなりの広さの中に驚くべき品数のセーターが山のように積まれていた。アルパカの中でも赤ちゃんのアルパカの毛で作られたものが最高でそれらが売られていた。寒さにふるえていた夫は早速待ちかまえていた店の人に、カラフルな手編みセーターを着せられて、否応無く買うはめになった。きれいな原色のインカ模様で暖かそうであった。私は日本の友に頼まれた分も含めて黒っぽい厚手のものを選んだ。

買い物は旅の楽しみの一つで、それが日本より遥かに安く手に入るとなると、心が弾む。キミーはアルパカの毛皮で出来た短い丈のジャケットを着せられ鏡の前でいろんなポーズに余念が無い。彼女の愛らしい顔に真白い、ふわふわした毛がとても良く映る。よく似合うと言う事だけで彼女は思い切り良く買ってしまったが、後になり冷静に考えたら、亜熱帯のマイアミでは殆ど着る機会が無い事に気付き、寒さの厳しい日本に住む私に買ってくれと頼んで来たが、私が着ると殆ど絶望的に見えそうなので断った。いよいよ選んだものを抱えて、値段の交渉にはいった。そのような事に慣れていない私たちは、言い値で買ってしまうのが常であるが、今回はリリーが通訳に入り、まず定価の半値位から値切り始める。女主人がとんでもないと言った様子で早口のスペイン語で何やら叫んでいる。こちらは夫も交えて3人も居ながら、まんまと彼女ののらりくらりしたペースに巻き込まれ、気が付いたら2割引き程度で妥協していた。恐ろしく気の長い彼女との交渉はさながらこちらの根気負けであった。店をでる頃には夜のとばりがおりて、頭上には満天の星空が広がり、眼下にはクスコの街が、さながらライトアップされたように、無数の電光が散りばめた宝石のように見え、それらは息を飲むような美しさであった。買い物に夢中になっていた時はさほど感じなかったが、車中に座って居ると頭痛を感じた。それがだんだんと酷くなってきた。疲れか風邪かなどと思っていると、キミーも夫も同じ症状を訴えている。ホテルに着いた時は話しをするのも億劫な程で、3人ともすぐ休んだ。それが軽い高山病からきている事が後でわかった。コカ茶の効き目が十分ではなかったものの、大事に至らず翌日は朝からインカ遺跡見学のトレイルに殆ど一日費やした。                              
   天気は昨日とほぼ同じ、日溜まりの中を30分位山道を歩いて、インカ城塞跡に着いた。巨大な石の城塞であたり一面おおわれている。石で作られた遺跡であるが故に、気の遠くなるような時の流れを経ながら、これからも変わらぬ姿で存在し続けていくだろうことに深い感動を覚えた。これらの遺跡を作った人々が、太陽を神と崇め、天災に備えて生け贄を供え、死者に対しては敬意を払い埋葬していた様子が遺跡から容易に想像できる。それにしてもこの巨大な石はどこから、どのようにして運んできたのだろう。長い石段を登ったり、降りたり殆ど歩きとうしの遺跡巡りである。登り坂になるとキミーは悲鳴をあげ、そのどことなく愛嬌のある仕草が皆の笑いを呼ぶ。

市街に残されている数カ所の遺跡を見学し、我々5人とガイドを乗せた車は山道を里に向かっていた。山間から突然信じられないような山里が広がっていた。アンデスの峰を背に緑豊かな牧草地と畑、その中をアンデスの雪解け水が川となり、太陽の光を受けて銀色に輝いている、桃源郷という想像の世界を真の辺りにしたような美しさであった。時の流れが止まっているような牧歌的な風景に我々はすっかり魅せられてしまった。

  マチュピチュはクスコから約1000m下った所にある。翌朝7時発の電車に乗り、往路3時間、なんともローカル色の濃い電車であった。奮発してl等車にしたので朝食付き、しかも若い娘さんのアテンドがいろいろなサービスをしてくれた。電車は所どころでスイッチバックしながら山間をゆっくりと走って行く。車窓から見る外の景色は自然のままの木々が生い茂り,所どころに原色に近い色をした花が艶やかに咲いていた。切り立った谷間を抜け一段と深いジャングルの中に入っていく。車内にインカの民謡であるオカリナとギターの曲が流れその素朴な物悲しい調べが一層情緒を誘う。

1911年に偶然からアメリカ人の歴史学者によって発見されたマチュピチュは現地のケチュア語で「大きい山」を意味する。長い間雑草の茂みに覆われていて、それを取り除くと完全な形の都市が現れた。後になって、ここに埋葬されていた遺骨を掘り起こした結果80%が女性のものであった事や、寺院などセレモニーをおこなった跡が多く残って居たことから推測してインカ帝国の特殊な役目を担っていた都市で、インカ帝国が滅亡した後は同じ運命をたどったと考えられている。

電車から降りて20分位バスで山に上り、降りたところがマチュピチュの入り口である。スペイン語しか話せないガイドの説明を私たちに英語に通訳してくれていたリリーがここに来て体調を崩してしまった。誰よりも元気であっただけに彼女の辛そうな姿に、その心労の程が察せられ、余りにも好意に甘えすぎていた私たちの責任を感じてしまった。多少スペイン語が理解出来るトムが代わり、説明を簡単化したのが、返って我々の想像力を刺激する事になり、遺跡を深く味わう事が出来た。 

ここでも又どんな手段を使って背丈以上もの多くの石を運んで来たのだろうと素朴な想いに駆られた。周りを深い山々に囲まれたさながら空中に漂っているような住居跡が殆ど完全な形で目の前に広がっている。無数の石で作られた壁、家々等、外側には段々畑のような耕地が整然と並らび、薬草や穀類が栽培されていたらしい。太陽光線の動きにより時を知り、信じられないような高度な日常の生活がおくられていた様子が窺える。遥か昔に消滅してしまった都市とはとても思えなかった。その辺りの草陰から当時の人々が現れてきそうな程、不思議な雰囲気が漂っている。  

肩を並べていたキミーが「霊気を感じない?」と興奮気味に尋ねた。彼女はコンピューターに関わった仕事をしていたが、数年前に考える所があり、現在はセラピスト兼マッサージャーの仕事に就いている。科学の力を超越した霊の世界の存在を信じ、その力を感じ得るという。私自身は今まで興味本位に考えた事はあったにせよ、それ以上は皆無であった。しかしここに来て、現実の世界と隔離され、しかも何ともいえない空気の重さに、頭の中の或部分が真空状態になったような実に奇妙な気分に襲われていた。今までに体験したことがない感じであった。コカ茶のせいかも知れないと思ってみたがそれよりキミーの感じた霊気に近いように思えた。外側からは全く隔離された神秘的な山奥で生きていた人々の霊がここには漂っているのではと信じられる程に奇妙な雰囲気に包まれた世界であった。

足元にはわすれな草やベコニアの原種が咲き、その可憐さが廃墟の中で愛おしく思われた。雑草の中にはカボチャのつるがのび小さな実までつけていた。遠い昔からきっと繰り返し咲き続けて来たにちがいないと思うと、そのけなげさに心が打たれた。4時間余りの散策はあっと言う間に過ぎてしまい、心を残したまま、往きと同じ電車で帰路についた。

4日間に渡るインカ巡りが終わり翌日、リマの同じホテルにもどった。夕食後はひと足先に帰るキミーの送別会をトム達の部屋ですることになった。地酒であるピスコというトウモロコシから作った酒とワインを飲みながらの楽しい一時であった。リリーの大切なダイアモンドリングを消してしまう夫の手品は皆の拍手喝采を浴びた。ユーモアいっぱいのおしゃべりと笑いで皆大はしゃぎ、キミーとはたったl週間前に出会ったとは思えない程仲良しになっていた。「こんなに楽しい旅は初めて」と言う言葉に彼女の気持ちが現れていた。近い将来の再会を約束して別れとなった。 

 インカ遺跡を見終わった私たちにはl週間の自由リマ滞在が残されていた。夫の希望でナスカの地上絵を見にイカの町に行った。イカはリマから長距離バスで5時間、海岸に沿って南下した所にある、そこから更に車で2時間砂漠に入った所にナスカある。殆どの観光客はリマから飛行機を使う。私たちは時間もあるし、ローカルバスにも乗って見ようという事でのんびりと旅を楽しむ事にした。朝9時、かってはさぞ立派であっただろうと思われる大型バスにはほぼ満員の乗客、途中3カ所で休憩、スペイン語に 吹き替えられたアメリカ映画を見ながら目的地イカに着いたのは夕方であった。

砂漠のオアシスの町イカは一段と強い太陽光線でカラカラに乾き、空に向かって伸びているヤシの木や泥で作ったような家が印象的であった。ターミナル横の観光案内に行き、ホテルと明日のナスカ行きタクシー、それに遊覧飛行の予約をする。案内された3ツ星 ホテルは中心街にあり、l泊$20、余りの安さに、違う世界に来たような感じであった。

翌朝5時、日の出前にナスカに向けて真っ暗な砂漠の中の道を走った。真っ暗闇の中に突然、地平線上に光が差し、ゆらゆらとオレンジいろの炎のような太陽が瞬く間に前方を覆った。すばらしい日の出であった。こんなにも壮大で神秘的かつ美しい光景がこの世に存在している事が信じられぬ程筆舌に尽くし難い光景であった。太陽がかなり高くなった頃、6人乗り小型機で約30分の遊覧飛行となった。地上絵は写真で見た通り、砂漠の中にいろんな図が描かれて、その中をアメリカンハイウエイが縦断している。古代の遺物と現代を象徴するハイウエイが共存しているのがおもしろかった。どのような目的で描かれたのだろうと問題にされているが、インカの遺跡を見た跡の我々には、余り重要に思われなかった。砂漠の町イカを跡にしたのは夕方、来る時と同じバスでリマに戻った頃はすっかり夜になっていた。           
      
   残りの三日間はリリーの親戚が招待してくれるいろいろなパーテイー、10才の少年の誕生祝いから日本の法事にあたる親戚の集まり事に至るものにまで出かけて行った。昼、夜通してお呼びいただける所はどこへでもという案配に。ブーゲンビリアの咲き乱れる素敵な家であったり、コンクリートの床に粗末なテーブルとソファーだけの質素な家もあったが、どの家庭もトム、リリー夫妻の友達である私たちを暖かく迎えてくれた。数十人に及ぶ人々とまず抱き合い頬にキスする挨拶で始まり、ギターに合わせて歌を歌い、ダンスに興じ夜がふけるまで楽しく過ごす、そして最後に又同じ挨拶を銘々に交わして終わる。すべてスペイン語で何を言っているのか分からなかったが、彼らの素朴な暖かい人柄は肌で感じ得るものであった。心のこもった歓迎には言葉の壁は存在しないかのようでもあった。家族、親戚が助け合い仲良く暮らしている様子が伝わって、もう日本では過去のものになってしまったような情景が羨ましくもあった。どこに行っても若いトム夫妻と同年輩を遥かに過ぎた私たちがどうして友達になったのかと不思議がられた。「運命と神様が出会わせてくれた大切な友達」とその度毎に答えてくれたリリーの言葉に、改めて人と人との出会い、それから生じるすばらしい贈り物に深く心が打たれた。

このようにして私たちのインカの旅は終わった。前後を入れると三週間に及ぶ長い旅で体力、気力とも限界に近いものであったが、トム達と過ごした日々は何とも楽しくその機会を与えてくれた彼らに感謝の気持ちでいっぱいである。帰国後の便りによると、トム夫妻はあれから又メキシコに足を運んだとのこと、キミーはマチュピチュで得た霊気で更にパワーフルに仕事に励んでいるとのこと、私たちはといえば、日本の梅雨あけの霊気ならぬ熱気にうんざりしながらも元気に旅の出来事を楽しく想い起こし、次なる機会を楽しみにしている。