鈴木冨美子さんの自由詩について…………...…………………………...……松崎敏子
今回、新しく自由詩を寄せてくださった鈴木冨美子さんをご紹介させていただきます。私とは、1995年7月に、フラダンスの同じグループでご一緒することになりました。まず、鈴木さんが36才の頃の話に戻ります。当時、公的には二人の息子さんの通う学校のP.T.A.の役員を続け、私的には、家事全般は勿論のこと、刺繍では講師として、デザインの創作から指導にあたり、お花を教え、お茶の稽古と、エネルギッシュに活動を続けていたようです。ところがある日、血圧が240まであがったのに驚いて北里大学病院で検査入院をしました。色々な検査の間に書かれた3編の詩が浮かんで来ました。
第一作目は、「緑の血は、ガラス管の彼方へ」何本も採血される血を眺めているうちに浮かんできた詩。第二作目は「爆音」やけどを負った母子の問題、空路の問題等、相模原市に移った頃。38才の頃の詩。そして、第三作目は「雪の北鎌倉、東慶寺付近を想いうかべて」です。建長寺の僧徒さんが、一軒一軒雨の日も雪の日もお経をあげてくれたそうです。鈴木さんは和服がお好きで、雨コートの下駄の姿でお稽古に通っておられたとか、和服もお似合いのよいスタイルと雰囲気の方ですから、さもあらんと思いました。
これらの詩の勉強は、相模女子大学の国文科の先生に「花伝書」の勉強を受けていた頃、その中に7,8人のメンバーで「メビウス(ギリシャ神話)の輪」という詩を作る会があったので、そのメンバーの一人となり、いろいろ教えを受けたそうです。その頃の作品の中から3編を選んで下さいました。
北里大学病院を通い続けて治療を受け乍らも、今迄の延長線で仕事に趣味にと活躍をしておられたようです。大学病院で治療を続けているのだから、その内に健康になるだろうと信じていたので、それから20数年後になって、まさかこのような病気を宣告されるとは、夢々思わなかったと述懐しておられました。
その「まさか」とは「人工透析」を続けなければならない体調になっていたと云う現実でした。火、木、土の一週間に三回、一回の時間は四時間とのことでした。一方の腎臓の機能が働かず、他の一個の腎臓だけでは間に合わないので、人工透析の方法に踏み切られたそうです。
専門医の話では、過激な運動は勿論のこと、目を使う細かい仕事もいけませんと警告されて、鈴木さんは「一生のお付き合いになってしまいました」と、淡々(私にはそう受け止めましたが….)と話されるので、そこまで割り切るまでの、心の葛藤やいかばかりかと思うと、胸がしめつけられる思いでした。常に心は揺れ動いているでしょうけれども、生来の忍耐強さに加えて、理解ある優しいご主人や、二人の息子さんとそのお孫さん達の愛情に支えられて、もう一匹の家族のワンチャンの可愛らしいしぐさにも慰められて生きる張りになって今日が続いているのだと思いました。つらい話の合間にも、ユーモアが飛び出すのが、私としては何よりの救いでした。
5年前にお会いした頃は、透析に入る準備(検査も含めて)だったらしく、外見からは想像もつかない位、明るくて、思いやりのあるお人柄で、却って、他人様の悩みを聞いてやる位でしたから、私も病気を知らせられた時には、「まさか」のひとことに尽きて続く言葉がありませんでした。
医師からフラダンスは許されているようで、ダンスをきれいに踊っている姿を拝見すると、「今を生きる」ことの意義を教えられ、また勇気づけられて、嬉しくなる良き友人として紹介させて頂きました。