自分を許せないなら・・・



われわれのとがは、あなたの前に多く、
罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、
とがは、われわれと共にあり、
不義は、われわれがこれを知る。

われわれは、そむいて主をいなみ、
退いて、われわれの神に従わず、
しえたげと、そむきとを語り、
偽りの言葉を心にはらんで、それを言いあらわす。

(旧約聖書「イザヤ書」59章12・13節)


あなたは何かについて、自分のことを責めているのでしょうか。

それとも自分を愛せず、受け容れることができず、苦しんでいるのでしょうか。

自分のしたことを許せず、他でもない自分自身を許せない苦しみ・・・。

はっぴも、どうしようもなく自分を憎んでいる時期がありました。

わたしは生きていてはいけないんだ。
わたしなんか死んでしまえばいいのに。
生まれてこなかったほうがよかったのに。
・・・幾度か自殺も試みました。

でも、心の奥底では、だれかに「いや、あなたは死んではいけない。あなたは生きていてもいいんだよ。わたしがあなたを赦すから」と言って欲しかった。

そして、そのことばを言うことのできる権威ある存在を求めていたのだと思います。

それは人間ではない。人間には自分を救うことはできないのだ、とはっぴはうすうす気づいていました。

だって、しょせん人間は人間。はっぴに「生きていてもいい」という許可を与える資格や権威は持っていません。すべて人間は弱く罪深い生き物で、自分自身の問題さえ、どうすることもできない者なのです。

だれかわたしを助けて。
だれか助けて。だれかぁ・・・。

はっぴはひとり部屋の壁を打ち叩き、泣き叫びながら助けを求めました。

そんな時、通っていた教会の祈祷会で、聖書を読んでいた牧師の声が厳かに響いてきました。



「子よ、しっかりしなさい。
あなたの罪はゆるされたのだ」

(新約聖書「マタイによる福音書」9章2節)


「わたしこそ、わたし自身のために
あなたのとがを消す者である。
わたしは、あなたの罪を心にとめない」

(旧約聖書「イザヤ書」43章25節)



「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、
わたしはあなたを愛するがゆえに、
あなたの代わりに人を与え、
あなたの命の代わりに民を与える。
恐れるな、わたしはあなたと共におる」

(同上43章4・5節)


聖書の中に、わたしへの神さまの必死の語りかけを見出し、涙がとめどなくあふれました。イエスさまの静かな声が、はっぴの魂の奥底まで染みわたり、はっぴは「おまえのしてきたことも、心に抱いている思いも、何もかもすべてをわたしは赦しているのだよ」と神さまが言っておられることを知りました。

「でも、神さま、わたしの心は汚らわしい悪い思いでいっぱいで、骨の髄まで腐りきっています。今までわたしのしてきたことといったら、最低最悪以外の何物でもありません。わたしのような人間は、生きていてはいけないのです。そうでしょう?」

そう訴えると、畳みかけるように神さまは、こんな聖書のことばを聞かせてくださいました。



「神がきよめたものを、
清くないなどと言ってはならない」

(新約聖書「使徒行伝」10章15節)


それで、わたしは床にひれ伏して、大声で泣きました。わたしを、こんなわたしを赦すと言ってくださるのですか、主よ。その上、「きよい」とまで言ってくださるのですか。

古代のイスラエルの王・ヒゼキヤという人が、神さまの前に泣いて祈り、その祈りが聞き入れられたときに歌ったのが、下の詩です。



見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、
わが幸福のためであった。
あなたはわが命を引きとめて、
滅びの穴をまぬかれさせられた。
これは、あなたがわが罪をことごとく、
あなたの後に捨てられたからである。

(旧約聖書「イザヤ書」38章17節)


自分を許せないとき、それは「赦しを求めているとき」なのです。

赦しとは、赦す権威のある者から与えられるものです。どこかから湧いてくるものではなく、努力とか償いとか、そのような何かと引き替えにできるものでもありません。

犯罪Crimeは服役で赦されても、罪Sinは消えません。

たとえ人が赦しても、自分自身がどうしても許せないとき、いったいどうしたらいいのでしょうか。地上のすべての罪・とが・あやまちを赦す権威のあるだれかに「あなたの罪は赦された」と宣言してもらうまでは、わたしたちの心は本当のやすらぎを得ることはできないのです。



わたしたちが罪に死に、義に生きるために、
十字架にかかって、
わたしたちの罪をご自分の身に負われた。
その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。

(新約聖書「ペテロの第一の手紙」2章24節)


もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、
神は真実で正しいかたであるから、
その罪をゆるし、
すべての不義からわたしたちをきよめてくださる。

(新約聖書「ヨハネの第一の手紙」1章9節)



自分を許せないことほど、常に首を絞められているように苦しく、つらいことはありません。自分を許せない人は、真に人を愛することも、許すこともできないのですから。

あなたがもし、自分を許したい、自分を愛せるようになりたい、と願っておられるなら、すべての罪を赦す権威のある方の御名を呼び、ひざまずいて、ご自分の思いをすべて申し上げてください。

「教会で懺悔する」というわけではありません。ご自分の部屋で、ひとりになって、「神さま、もしあなたが本当にいらっしゃるなら・・・」と、心のうちで話しかけてみてください。神さまは必ずあなたの声に耳を傾けておられます。



この大祭司(イエスさま)は、
わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではない。
罪は犯されなかったが、すべてのことについて、
わたしたちと同じように試練に会われたのである。
だから、わたしたちは、あわれみを受け、
また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、
はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
(新約聖書「ヘブル人への手紙」4章15・16節)



「見よ、わたし(イエス)は戸の外に立って、たたいている。
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしはその中にはいって彼と食を共にし、
彼もまたわたしと食を共にするであろう」
(新約聖書「ヨハネの黙示録」3章20節)




あなたも罪の赦しを得て、
自分自身を許し、受け容れられるようになってください。
その時、少しずつ、少しずつ、
自分をいとおしく思えるようになってきます。

そして赦されて生きる者の喜びを、はっぴ共々に
感謝しつつ胸に抱いて、イキイキと生きていって欲しいと思います。






Photo:Happy Islands
"Little feeble flower in my heart"
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