「殺戮す、かくの如き凶暴の輩」だってさ、厨房将校は! |
利権の拡大に利用された挙句、 磯部浅一(いそべ あさいち) 1905.4.1〜37.8.19。山口県大津郡菱海村河原出身。 26年陸軍士官学校卒。33年陸軍経理学校卒。34年1等主計。安藤輝三と同期。北一輝の「日本改造法案大綱」の影響を受け、急進派将校の代表的存在となる。34年11月士官学校事件で拘禁され35年停職処分。停職中に村中孝次と粛軍意見書を配布して統制派を攻撃、軍部批判で免官となる。36年の2・26事件では指導的役割を演じて逮捕され、軍法会議で死刑判決。37年7月処刑。 戒名 深廣院無涯菱海居士 東京都荒川区南千住5丁目の回向院(えこういん)。 辞世 国民よ 国をおもひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ 三十二 われ生涯を 焼く情熱に 殉じたりけり 嬉しともうれし 2・26で処刑された渋川善助は銃殺される寸前に「国民よ軍を信頼するな」と絶叫してたおれた。まさに、信頼などできないその日本皇軍が翌年には日華事変を引き起し、次いで大東亜戦争で国民を地獄に叩き込んだ。この「軍を信頼するな」という絶叫は「軍が自分たちの志を阻んだから」という感情的なものでなかったことは、銃殺の前々日、「為政者が国内問題をゴマかす為に、新しい対外紛争を起す危険の有る事を」くりかえしていた。事実その通りになった、現在でも愛国を装う軍事利権屋は番犬マスコミと結託してありもしない危機を煽ることを商売にしている。 浮かばれない戦死者 例えば満州から遺骨が還送されると、留守隊では遺族を招いて、営庭で慰霊祭を行うのだが、それがすんで遺族のなかの誰かが遺骨を抱いて一歩衛門を出ると、きまってそこで親戚間で遺骨の争奪戦が、見得も外聞もなくはじまる。そのたびに、それを仲裁するのが予期しなかった留守隊将校のつとめとなるのだったが、並大抵の苦労ではない。これも、もちろん遺骨を祈る名誉のためでなく、遺骨に下がるお金が目あてのものだけに、留守隊に残った将校は、戦地のものが味わう苦労とちがった苦労をさせられるわけだった。 「お前は必ず死んで帰れ。生きて帰ったら承知しない」という手紙を書いた親もいた。「おれはお前の死んだあとの国から下がる金がほしいのだ」ということです。農村の疲弊はあまりにひどかった。この手紙を受け取った兵は、「希望通り」すぐ戦死したという。 このような国家の疲弊は、富国ということを軍備強化にすり替えて国民資産を食い尽くして行く日本皇軍の巨大な利権構造に大きな原因があった。2・26の厨房将校や兵士たちは自分たちがその構造の単細胞PASIRIであるという自覚すらなかった。閣僚の寝込みを襲い残虐極まりない殺人を平然と犯した2.26青年皇軍たちの狂気はやがてアジアの人々の大量虐殺へと一気に突き進んで行く。 陸軍大臣告示 (二月二十六日午後三時三十分 東京警備司令部) 一 、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり 二 、諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む 三 、国体の真姿顕現(弊風を含む)に就ては恐懼に堪へず 四 、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合せたり 五 、之れ以上は一に大御心に待つ 河野司編『二・二六事件――獄中手記・遺書』河出書房新社、1972年、443ページ。 「陸軍大臣告示」について裁判で公式のものとされた午後3時20分、東京警備司令官から下達された大臣告示、第1項と第2項。 一、決起の趣旨は、天聴に達せられあり (訳:決起の趣旨は天皇のお耳に入れつつある) 一、諸子の行動は、国体顕現の至情に基づくものと認む (訳:お前たちの行動は国体を明らかにしたいという真心からでたものと認める) ただし、いわゆる「大臣告示」は細かな文面の違うものが十種類以上もあり、事件収拾を長引かせる原因となった。 従来、「大臣告示」は正午過ぎに開かれた軍事参議官会議で作成されたものと言われてきたが、正式裁判記録の中の近衛師団長、橋本虎之助の匂坂検察官への回答書によると「午前10時50分」にすでに下達されていたことになる。 この10時50分の大臣告示については、様々な説があるが、東京警備司令官、香椎浩平とその直前に面会している山下奉文少将の2人がこの文章の下達に関わった と推定した。なお、この大臣告示「午前節」については、これまで松本清張の「昭和史発掘」や東京憲 兵隊長、坂本俊馬大佐の軍上層部検挙計画でも触れられているが、今回の裁判記録はそれを補強する資料として位置づけられる。 「電話傍受綴」 国会図書館憲政資料室 匂坂資料。閲覧可能。第8巻、その中に「西田税から真崎甚三郎宛に2月21日の電話会話が傍受されていた記録がある。戒厳令施行前の電話傍受は当時の電信法で保証されていた「通信の秘密」を侵すものである。 誰が行っていたかについては統制派の勢力が及んでいた陸軍省・逓信省・参謀本部の可能性が高いが、断言は出来ない。(NHKエデュケーショナル中田整一氏談) 憲兵隊盗聴レコードから「・・・北です・・・北一輝です・・・」 「キタ」「えっ?」「キタ!」「えっ?」とか 「マルマル、カネはいらんかね、」 事件当時の様子 裁判記録の検証調書の記述。 「被害者渡辺錠太郎が西側床の間に南枕にて仰臥しおり付近に巾一尺長さ一尺五寸の血痕並びに血塊あり。同室押入襖前に巾七寸、長さ一尺の血痕、一部血塊となりあり。同所角柱わきに長さ二寸余の骨片三個あり。周壁を検するに東襖に二個、上部欄干に十三個、北方襖及び壁上に三十個の弾痕認められ・・・骨片押入内に散乱す」 「食事を支給される反乱軍写真」が共同通信社にある。 「軍隊に対する告示」 26日午後3時に下達された告示。決起部隊を正規の軍隊の一部に組み入れる命令。これによって原隊から決起部隊に食事が支給されるという奇妙な光景が生じた。 これはまさに2・26の厨房将校や兵士たちが皇道派とか統制派とかの恣意的な物語とは関係無く皇軍総体の利権拡張に都合よく泳がされた明らかな証拠であった。 |
安藤輝三 明治38年2月25日 東京に生まれる。大正15年7月陸軍士官学校卒業。歩三勤務中の秩父宮とは非常に親しくかった。2.26事件の判決では首魁として断罪されている。 戒名 諦観院釈烈輝居士 辞世 一切の 悩は消えて 極楽の夢 尊皇の義軍 敗れて寂し 春の雨 心身の 念をこめて 一向に 大内山に 光さす日を 國體を 護らんとして 逆徒の名 万斛の恨 涙も涸れぬ ああ天は |
「匂坂春平」について 東京陸軍軍法会議で、12人の検察官を取り仕切る主席(主任ともいう)検察官。 明治35年、明治法律学校を卒業、はじめ司法省、後に陸軍の法務官となって以来、数々の軍法会議で活躍。5・15事件で主席検察官を務めたときは、その法の正義に則った論告求刑のありかたで知られた。 13年前、NHK特集「二・二六事件 消された真実」で、匂坂家に残されていた匂坂春平関係史料が戦後はじめた公開された。そこでは、大臣告示の下達時間の問題に踏み込みながら、匂坂が軍上層部を追及していた過程が描かれた。 |
「昭和11年1月21日の真崎日記」 「斯くしても平沼男に政権の来ること断じてなからん。斯くして失敗したるとき何人が責任の衝にあたるや、この際、青年将校より責めたてらるれば進退に極まるに至るべし・・・」 「其の通りに放置せば其の結果如何、吾人の自滅を待つのみ、愚劣なる策動をなすも不可なれど無為にして終わるも愚なり・・・」 真崎がこの時期、平沼内閣を実現する困難に直面し、焦りを感じていたことを伺わせる記述。 |
2.26事件のさい、外の状況がほとんど分からなかったので、天皇は自ら 皇居近くの交番に電話をして警官と話しをしようとしたのだけれど、 「朕は、朕は、、、」と電話口でいくら言っても、警官はいたづら電話だと思って いい加減に対応していて、そのうち「これは本当なんぢゃ、、、(汗)」と 固まってしまった、という逸話がある。臆病で小心者だった天皇は、以後、空威張りの強気と、跳ね上がり軍人への恐怖の間を逡巡するのである。 |
2.26裁判は予想された通りメチャクチャであった。 日本皇軍そのものがビジョンもモラルも見識も知性も、欠片すらない破廉恥利権集団であったのだからこの殺人犯人と事件を裁くことなど最初から無理な話だった。裁判は軍の利権拡張に徹底して利用された。水上源一(民間人) に対する死刑判決。陸軍刑法は軍人のみが適用されると規 定。彼は民間人だから通常の刑法で裁かれなければならない。そうすると刑法77条(叛乱罪)中の謀議参与で裁かれますと、無期禁錮が最高刑なのに彼は死刑。法治国家もくそもなかった。陸軍刑法の総則によると陸軍刑法は「陸軍軍人ニシテ罪ヲ犯シタル者」に適用 (第一条)。「陸軍軍人」とは何者を指すのかは、 第八条で列挙。そのうち、第四号が、 「前二号ニ記載シタル者ノ外陸軍ノ制服著用中 又ハ現ニ服役上ノ義務履行中ノ在郷軍人」と規定す。 多分、これが根拠となって陸軍軍人の扱いにされて しまったのではないか? 昭和天皇にしてみれば陸軍のエリート連中は 軍の統帥権は天皇にあるから政府の言うことなんか聞かないよ〜 とばかりにすき放題をしつつ、 いざ天皇が何か言うと、「恐懼」しつ結局無視。 (2.26事件後に天皇が「粛軍」を求めて出した詔勅を改竄したなど) 天皇の基本姿勢である国際協調も見事に踏みにじり、 不快感を示そうものなら「天皇皇后両陛下は陸相を待たせたまま麻雀に夢中」 なんて凄まじい流言を飛ばすし 挙句の果てには「昭和天皇を廃して秩父宮を擁立しよう」なんて動きもあった。 無茶阿呆関係だったのだ。 イカれた親分に金(皇軍の権力と資金や地位)のためには何でもする恥知らず子分ども、昭和の日本である。 2・26事件の時弘前の連隊にいたはずの秩父宮(天皇の弟)が 急遽上京して上野駅に降り立った。 しかも、上司である連隊長の許可もえずに勝手にだ。 反乱軍のリーダー格である、安藤輝三は第三連隊時代の 秩父宮の教え子。 細かい事実を把握していなかったとしても、秩父宮が過激な 青年将校たちと付き合いがあることは天皇も知っていた。そして、それを 苦々しく思っていた。もちろんそういう連中の間で秩父宮の人気が高いことも 知っていたはずだ。 側近であり、自分を支えてきてくれたおじいちゃんたちが殺され、殺した連中に 人気が高い生意気な弟がやってくる。 天皇がキレた、怒るのはあたりまえだけど。 これが当時の日本を動かしていた連中だから国民はたまったもんではない。 青年将校が哀れなのは、彼らは立憲君主としての先帝を全く知らなかった事。 武力に頼った時点でもう全て終わっていたというべきだろう。 簡単に言うと「厨房青年将校がこれ以上ない最低な手段で先帝の国体を踏みにじった」。 この時、裕仁が激怒して断固討伐を命じたことは有名で、統帥権者のあるべき姿として評価されているようだが、事実は秩父宮に皇位簒奪の野望があるものと思って、それがよほど腹に据えかねただけだろう。 なぜなら五・一五事件の時には、裕仁はこれほど強い怒りを表明してはいない。なぜ二・二六の時だけ、裕仁はこんなに怒り狂ったのか? やはり秩父宮の存在を抜きにしては説明できない ように思う。事件後に秩父宮のとった行動を見ても、叛乱将校とのただならぬ関係は否定しようがないし。 秩父宮こそが、真崎以上の黒幕ではなかったのか?皇族一家のハチャメチャ利権争いが日本を訳のわからん方向へ引きずり込んだ。ネパールの皇太子銃乱射殺し合いのようなものだったのかも。 敗戦後とあるアメリカ人になんで開戦に反対しなかったのかを問われた天皇はこう答えた。 「国民は私を愛してくれている。だからこそ、私が反対したら私を精神病院に押しこめただろう。」 病気である。 皇国国策基本要綱 昭和8年8月16日、陸軍省軍務局は「皇国国策基本要綱」をまとめた。皇国という呼称がついていることから分かるように、皇道派と呼ばれた荒木陸相の肝いりで作られた基本国策。荒木、真崎らの皇道派は、青年将校の支持を基盤としており、その主張には疲弊した農村、漁村の救済策が含まれている。9月には内田外相に代わって広田弘毅が外相に就任。五相会議は10月3日から開始、皇国国策基本要綱を審議、財政を預る高橋蔵相の強い抵抗にあい、10月25日、ついに皇国国策基本要綱は廃案に追い込まれる。2・26事件で高橋是清が狙われる一因になった、同時に荒木陸相に期待していた二葉会・一夕会系の中堅幕僚が荒木を見限る要因にもなったのである。 |
Copyright(C) 2001 All Rights Reserved.