井原快彥質問

1幼年期原快彥くんが大好きだったは?
  井ノ原くんは76年5月17日、東京、浅草に生まれた。「ソイャ、ソイャ」のかけ声で有名な、江戸三大祭りの一つに数えられる三社祭のである。五歳上のお姉さんに次ぐ第2子。待望の男の子の誕生に,井ノ原家はそれこそお祭り騒ぎの大喜びだったという。

  ただ意外にも、幼年期の井ノ原くん内気で体の弱い子どもだった。「しょつちゅうが風邪をひいて40度くらいの熱を出して、そのたびにひきつけを起こしてた」とのことで、病院で検査を受けることもしばしばだったという。井ノ原くんは、「 頭にコードをタフさんつけられて、お医者さんが『カルピスだよ』って白い液体の薬を飲ませるんだよ。まずいのをガマンして飲むと、コテンと眠っちゃう。でも、検査の途中で目が覚めちゃ生んだよなあ。真っ暗な中で。ピコンピコン、デデデって電子が聞こえるだけ。『ここ.どこだよおツ!』って。すげぇ怖かった」

  と、当時の”恐怖体驗”を披露している。

  しかし、内気で病弱とはいえ、井ノ原くんは元気なときは外で遊ぶのがの好きな明るい少年。人なつっこい性格も、この時代からのものである。ヨチヨチ歩きのころにもう、僯の居酒屋のおばあちゃんになついて、毎日のように遊びに行くなど、”ご近所づきあい”に積極的なところを見せでいる。

  そんな井ノ原くんが大好きだったのは、ゴミ收集車である。收集車が来ると、親に買ってもらったゴミ收集車のミニチュアカーを手にダーツと收集現塲に駆けつけ、砂をゴミがわりにして遊んでいたという。ゴミを勢いよく車の中に放り込んだり、次の收集場所まで車の後ろにつかまって乗っていたりするおじさんたちが、井ノ原少年の目にはとてもかっこよく映ったのである。

  また、多くの少年たち同様、レインボーマンも大好きだった。デパートの屋上で行われたレインボーマンショーに出かけたときには、悪者にさらわれる子だもに”抜擢”され、井ノ原くんはそのことを「ちょっと自慢」に思っている。周りの大人からよく「かわいいね」と言われていた井ノ原くんは、ショーのなかで悪者のボスが「かわいい子どもわさらって来い!」と手下に命令したとき、「きっとボクが連れて行かれる」と確信したそうだ。実際にさらわれたときは「してやったり」の心境だったことだろう。「ちっとも怖くなかった」とのことである。

 

2)小学生の井ノ原くんが横暴を極めた野球チームの名は
  井ノ原くんは幼稚園卒園と同時に、下町の浅草から大規模な高層団地が密集するニュータウン、品川区八潮にお引越し。新設された品川区立八潮小学校に入した。

  やんちゃ坊主ながら、相変わらず体が弱、病院通いが続く毎日。お父さんはそんな井ノ原くんを心配して、「外で遊べ」と励ましつつ、たくましく育てることに腐心したようだ。また夏休みになると、井ノ原くんを九州の親戚の家へ”武者修業”に送り出した。

  「最初は熊本のみかん農園をやっている家に行かされて、朝五時起きでニワトリにイサをあげて、農園の手伝いをしたんだよ。あと、徙兄弟の剣道の朝練について行かされたり。すっごくイヤだったんだよね。徙兄弟たちとプール行くと、地元の子に『東京モン』とか言われて、水ん中落とされたりするんだもん。もう、早く帰りたくてしょうがなかった」

  と井ノ原くん。しかし、修業のかいあって、2年生になるころには次第にたくましさを増し、ジヤッキー・チェンにあこがれて、空手を始めるまでになった。

  井ノ原くんの空手の腕前が相当のものであることは有名だ。小学校4年生のときには全国大会で3位入賞を果たし、1級を取得した。小学生では最上級の茶色の帯を締めていたのである。ただ困ったことに、腕っぷしに自信をつけた井ノ原くんは。五年生になるころからだんだんにクラスのなかでばりだし、嫌われる存在になっていく。

  たとえば、仲間と「ハニージャイアンツ」という野球チームを作ったのに、井ノ原くんは勝手に「八潮チンコーズ」なんて妙な名前に変えてしまう。しかも力にモノを言わせて、自らピッチャーで4番を務め、自分より上手な子をもアゴで使うなど、彼の行動は横暴になっていく一方だったという。

  「でもね、ある晩、呼び出されたんだよ、街灯の下に。10人くらいが円くなってコワイ顔しててさ、『イノ、オレたちチンコーズやめる」って言われたの。結局、全員がいなくなっちゃってね、それからは”嫌われ者街道”まっしぐら。『遊ぼう』って誘うと、全然違う集合場所を教えられたり、林間学校で全然仲良くないヤツのグループに入れられたり、さんざんだったよ」と井ノ原くんは振り返る。

  もつとも、こうした”村八分”状態は6年生になると、なんとなく解消され、仲間が復活した様子。井ノ原くんにとってはツライ思い出だろうが、人づき合いをするうえでさまざまな教訓を得たことだろう。

 

3)トニセンの3人がジャニーズ入りしたきっかけは?
  坂本くんには、これといったきっかけがなさそう。ただ、昭和第―高等学校商業科に進学した当初、男子ばかりの学校があまりおもしろくなかったことが背景にある。で、「気持ちのどこかに高校を辞めるきっかけにしたかった」こともあり、ジャニーズ・タレントが気持ち良さそうに歌って踊っているのをテレビで見て、「オレでも入れるのかなあ。よし、試してみよう」という気持ちになったのだ。消極的と言えば消極的ながら、情熱を傾ける何かを探していたときに巡り会ったのがジャニーズだった。ただし、高校中退まで考えた(現実には卒業までがばった)わりには、レッスンに対するやる気がいまひとつ盛り上がらない。レッスン行っても、ほかのレッスン生たちとおしゃべりばかりしていて、見かねた先生に「帰れ!」と叱られることもしばしば。そんなとき、本当に帰ってしまう坂本くんだったのである。

  長野くんがジャニーズ入りしたのは、中学2年のとき。しぶがき隊ファンの姉さんが勝手に履歴書と写真を事務所に送ったことがきっかけた。かねて弟ジャニーズに入れたかったお姉さんは、テレビで錦織くんが「バック転ができなくても入れるから、どんどん応募してね」と呼びかけた、その言葉にがせんバッスルしたそうだ。オーディションの通知が届いたのは、それから約1ヶ月後のこと。長野くんはジャニー喜多川さんとの面接で、ジ:「バック転できる?」長:「できません」、ジ:「何か質問ある?」長:「ありません」という何とも素っ気ない会話を交わした後、あっさりジャニーズ入りを実現させた。ダンスの「ダ」の字から始めたレッスンが長野くんの心を魅了するのに、そう時間はかからなかったようだ。

  幼稚園のころからジャニーズファンだった井ノ原くんかジャニーズ入りしたのも、お姉さんが勝手に履歴書と写真を事務所に送ったことがきっか。弟の気持ちを汲んでのことで、小学校6年生の秋ごろにオーディションが届いたときには、井ノ原くんは大喜び。すでに練習を積んでバック転ができるようになっていた彼は、オーディションの日が空手の練習日と重なっていたにもかかわらず、迷わすオーディション会場へ。もしろん、バック転を披露して、見事に合格を果たした。井ノ原くんはよほど嬉しかったのだろう。クラスメートみんなに「誰にも言うなよ」と前置きしながら、ジャニーズに合格したことを触れ回ったと伝えられている。

 

4)井ノ原くんが一時期プロになろうと考えたスポーシは?
  井ノ原くんはジャニーズ入りした翌週ぬもう、光GENJIのファ一スト・コンサートに出演する光榮に浴した。始めての大きなステージだったが、彼は「緊張感より気持ち良さのようが強かった」と言う。なかなかの大物である。

  「ただ、たんたん微妙な感じになってくるんだよ。最初のうちはジュ二アの仲間と仕事に行くのが楽しいだけなんだけど、友だちんちに電話で誘いがあるのにオレにはなかったり逆の場合があったりで・・・。一度。半年くらい連絡もらrなかったこともあった。

  と井ノ原くん。その間、スケボーにはまり、「プロになろうか」と本気で考えたこともあるそうだ。「ま、久しぶりに電話をもらったとき、すぐに『やっばり、こっちだよなあ』って思い直したけど」と笑う。

  そんな井ノ原くんが次第に忙しくなってきたのは、中2のころから。先輩のバックで踊るだけではなく、SMAPの番組「アイドル共和國」に出演するなど、ジュニアとしての仕事が順調に増えていくなか「湘南ペンツョン通り」でドラマ初挑戰。 ペンツョンのオ-ナー(山崎大輔)の息子、祐太朗役だった。祐太朗は「高校1年生のわりにはガキで、いつもふざけてケンカばかりしている」キャラ。テストで25点しか取れなくて

                                                                                                 

*由於時間的關係,所以還有其他的仲未打呀>.<*