Q.あなたの創価学会との関わりについて教えてください。
A.私は2歳のときに家族が入信したせいで、強制的に入会させられました(いわゆる2世です)。小学生や中学生の頃はそれなりに活動していましたが、高校あたりから、家族ともどもだんだんと創価学会に疑問を感じるようになり事実上活動休止。19歳のときに本尊を焼却するにいたりました(この焼却については完全に家族の承諾を得ています)。一時は年に3桁(100万円のこと)の財務(寄付のこと)をするような熱心な家庭でした。
Q.仏罰についてどのように考えていますか?
A.基本的には科学的に全く根拠のない妄想の類だと考えています。
「基本的には」という意味ですが、こういうことです。つまり、まだあんまり決心のついていない方が安易に本尊を燃やしてしまうと、そのことが心のわだかまりとなって長い間引きずってしまうことになり、何か悪いことがあるたびに「あのとき燃やしたのが悪かったのだろうか」などと後ろ向きの発想をしてしまうことになりかねません。そうなると、心とは不思議なもので物事を悪い方へ悪い方へと考えるに至ってしまうのです。もし仏罰というのがあるとすれば、多分に人間心理への悪影響を与えるもの、というのがその正体ではないかと考えています。
また、創価学会の批判に熱を上げるあまり、自分のなさねばならないこと、例えば勉強や仕事ですが、そのような自己研鑽がおろそかになってしまうことも、一種の仏罰だといえるのかもしれません。そのような行為は学会員の思う壺です。「それみろ。退転者(脱会者のこと)は、ちっとも社会で成果を出していない」と罵られかねません。
ですから、学会を批判する者は常に礼儀正しく、自己研鑽怠り無く、人格陶冶を心掛け、世間をして「あの人は本当に立派な人だ。え、学会批判をしてるの? だからなに? あの人の価値がそれでどうこうなるわけじゃない」とまで言わしめるぐらいの人間になることを目指さなければならないと思っています(私も頑張ってますけど中々難しいです。つい感情的になって学会員を批判したりしてしまいます)。
Q.「仏罰は主観だ」と説明する学会員と、「仏罰は客観的に存在する(事故に遭ったり病気になったり不幸なことが起こる)」と説明する学会員がいますが、これはどういうことですか?
A.結論から申しますと仏罰主観説を採る学会員は至極まともで良心的な方です。
仏罰主観説では、仏罰というのは信仰を維持するために採られる宗教内部での方便、規律であって、何か本尊に対して不敬な態度をとったからといって、不幸な事が起こるわけではない、と説明します。
一方、仏罰客観説では、実際に何か超自然的な力によって、本尊や創価学会に対して不敬な行動をとった者に不幸な事象が訪れる、と説明する説です。
ところで、仏罰主観説の中でもやや客観説に近い説明をする学会員もおられます。これは、「御書(創価学会の根本たる書物。日蓮の著した物です)を信じている人間にとっては仏罰は感じられるが、無信仰者にとっては仏罰は感じられない」という考え方です。
この説が普通の主観説と違う部分は、「実際に不幸な事象が起きるか否か」です。すなわち、この説では、「本尊不敬」は
「実際の不幸を発生させる」のだが、信仰心のない者にとってはそれを仏罰と認識できない、という部分です。ちょうど主観説と客観説の間に収まる折衷的な考え方です。
以上から総合すると、仏罰に対する学会員の態度としては以下の3点に整理することができるでしょう。
1.仏罰主観説
2.折衷説
3.仏罰客観説
なお、折衷説では、無信仰者にとっては仏罰は「感じられない」だけで、その存在は肯定しているのですから、客観説に近い説だと言えるでしょう。
Q.では、実態としてどちらの説を採る会員が多いのでしょうか。
A.これは圧倒的に、後者、すなわち仏罰客観説を採る会員が多いです。事実、私の子供のころの経験から言っても、仏罰は主観だ、と説明する会員は皆無でした。
Q.あなたのカルトの定義ってどんなものですか?
A.私個人の意見で言えば、カルトとは以下の2点のどちらかを満たす宗教だと考えます。
1.他者に対して信仰を強要すること
2.その宗教からの脱退に際して、超自然的な力の存在を暗示してその脱退を妨害すること
1に関して。強要とは信仰をすすめることまでも含ましめるものではありません。すなわち、「結構です」と一言言えば「そうですか。失礼しました」とこちらを尊重してくれたり、「ではこの冊子を是非お読みください」と言って、冊子類を置いていき、あくまで無理強いはしないような態度は、強要ではありません。ただ、人にものを薦めるという行為の強さは連続的なものですから、どの辺からが強要かというのはなかなか難しい問題ですね。嫌だと意思表示をしているのに何度もしつこく勧誘するのは強要といっていいと思います。
2に関して。あくまで脱退しようとしている人間に対して行われる刷り込みを問題としています。内部の人間向けに教え込む分には、信教の自由との兼ね合いもあり、外部の人間がとやかく言える筋合いのものではありません。
逆に言えば脱退しようとしている人間に対して、説得以上の行為、すなわち、仏罰が落ちるなどとしつこく申し向けていたずらに恐怖心を煽り、本人の脱退意思を妨害しようとする行為は「信仰をしない自由」との関係から言って大いに問題です。