■ モサドのナチス狩り
モサドは諜報活動以外にも、世界中に潜伏しているナチス戦犯を探し出し、逮捕もしくは暗殺するという任務がありました。
そのモサドに、アイヒマンの情報が飛び込んできたのです。モサドはこの件を最優先事項に指定し、アイヒマン逮捕に向かいます。
リカルド・クレメントという偽名で、アルゼンチンの自動車工場に勤めていたアイヒマンを発見したのは1959年12月の事でした。
注 : アルゼンチンはWWU時下、絶対中立を貫きます。終戦直前、中立各国が枢軸国に宣戦布告し連合軍に加わった時にも、アルゼンチンは国交を断絶すると宣言したのみで、あくまで中立を貫いたのです。
そのため、戦後ナチスの人々がアルゼンチンに逃亡してきたと言うわけです。もっとも、ドイツ系移民が沢山いたと言うこともありますが。 モサドの工作員はアルゼンチンに潜入し、アイヒマンを見張ります。そして、ついに逮捕・・・となれば一件落着でしたが、まだ問題がありました。
その場で処刑してしまえば、後はモサド要員が各々イスラエルに帰るのみですが、アイヒマンは裁判にかけるためイスラエルに連れて帰らなくてはなりませんでした。しかし、誘拐して、連れ帰るとなれば、親ナチのアルゼンチンも見逃すはずがありません。出国するときに見咎められるに決まっています。
そこへ、偶然チャンスが訪れます。近く開催されるアルゼンチンの独立記念式典にイスラエルから外務大臣が参加する事になったのです。モサドはアイヒマンをこの特別チャーター機に乗せ、連れ帰る事にしました。
そして、1960年5月11日、モサドは帰宅途中のアイヒマンを逮捕(拉致)したのです。アイヒマンは自分がイスラエル機関に捕まったことを悟り、無駄な抵抗する事なくお縄につきました。
しかし、問題はこのあとです。アルゼンチン独立記念式典が終わり、チャーター機がイスラエルへ戻るのは5月21日でした。それまでの10日間はアジトへ隠れていなくてはなりません。
アイヒマンが捕まった(行方不明)事は、会社へ出勤しないのですぐに分かります。アイヒマンの会社の社長は彼が誰であるのかを知っていたのでした。イスラエルが拉致した事が分かると、アルゼンチン政府もアイヒマンを渡せと言ってくるに違いありません。さらには、地下組織がアイヒマンを救出にくるかもしれないのです。
しかし、アジトは発見されず、アルゼンチン政府もアイヒマンが捕まったことに気づいていませんでした。そして、式典は終了し、モサド工作員達はSPのふりをして、外務大臣一行とともに飛行機に乗り込みます。 飛行機は無事イスラエルに到着し、アイヒマンは刑務所に入れられました。そして、1960年5月23日、イスラエルはアイヒマン逮捕を発表しました。
アイヒマンは裁判の後、1962年絞首刑にされました。その裁判の記録はDVDになりました→ スペシャリスト〜自覚なき殺戮者〜 |