− パックス・ジャパニカーナ −


アドルフ・アイヒマン拉致作戦


アドルフ・アイヒマンSS中佐

■ アドルフ・アイヒマンとは誰ですか?
元ナチス親衛隊の中佐で、ユダヤ人最終解決法を実行した人物です。そのため、イスラエルから仇敵として狙われており、多くのナチス高官がそうするように国外に身を隠していました。

■ 誰が誘拐したのですか?
もちろん、イスラエルの対外情報収集および特殊工作機関”モサド”です。モサドはアイヒマンを逃亡先のアルゼンチンで拉致し、イスラエルに連れ帰りました。

これで、ナチス戦犯の大物であり、ユダヤ人の憎悪の象徴が捕らえられたのです。

 

■ アドルフ・アイヒマン
アイヒマンは第2次世界大戦時にユダヤ人を虐殺したナチスのユダヤ問題総責任者です。彼の仕事は効率がよく約600万人のユダヤ人が抹殺されたとしています。

ブダペスト駐在スウェーデン公使のラウル・ウォーレンバーグは、ユダヤ人を救出するためビザをばら撒き、時には処刑寸前のユダヤ人をナチスからお金で見逃してもらうというようなことまで行いました。

あるパーティーでウォーレンバーグは敵の大ボス、アイヒマンと対決します。ユダヤ人から手を引けと言うアイヒマンに対し、ウォーレンバーグは毅然と拒否します。

アイヒマンは『あなたは人間じゃない悪魔だ。』と罵ったウォーレンバーグに『私は命令に忠実な、いちドイツ人だよ。少し勤勉すぎる嫌いはあるがね・・・。』と返します。

この直接対決の後、アイヒマンはウォーレンバーグを暗殺しようとします。ウォーレンバーグはからくも逃れましたが、SS(ナチス親衛隊)に狙われる事になり命の危険は常に付きまとっていました。

それでもウォーレンバーグは自身の命を捨てる覚悟でユダヤ人救出を続けます。そしてその後、ついにドイツ軍がソ連軍によって撃退されたのです。

ドイツが降伏するとアイヒマン中佐は姿を消します。もちろん捕まれば戦犯になる事が分かっていたからです。

そして、ウォーレンバーグはソ連軍へ事後処理のため交渉に行く事となり、出頭する時、『私は客人としていくのか、それとも捕虜としていくのか。』とつぶやきます。その意味深い言葉は現実となり、ウォーレンバーグは出発したまま帰って来なかったのです。なんと、彼はスパイ容疑でKGBに逮捕されシベリアに送られていたのでした。

アイヒマンは逃亡し、ウォーレンバーグは逮捕されるという不思議なめぐり合わせが起こったのでした。

ユダヤ人救出に尽力したのは、ハンガリーに送り込まれたスウェーデン人のラウル・ウォーレンバーグ、リトアニアでユダヤ人の国外脱出のためビザをばら撒いた、大日本帝国の駐リトアニア大使杉原千畝、ドイツの事業家オスカー・シンドラー、中国の駐オーストリア大使何鳳山などがいました。

 

 

■ モサドのナチス狩り
モサドは諜報活動以外にも、世界中に潜伏しているナチス戦犯を探し出し、逮捕もしくは暗殺するという任務がありました。

そのモサドに、アイヒマンの情報が飛び込んできたのです。モサドはこの件を最優先事項に指定し、アイヒマン逮捕に向かいます。

リカルド・クレメントという偽名で、アルゼンチンの自動車工場に勤めていたアイヒマンを発見したのは1959年12月の事でした。

注 : アルゼンチンはWWU時下、絶対中立を貫きます。終戦直前、中立各国が枢軸国に宣戦布告し連合軍に加わった時にも、アルゼンチンは国交を断絶すると宣言したのみで、あくまで中立を貫いたのです。

そのため、戦後ナチスの人々がアルゼンチンに逃亡してきたと言うわけです。もっとも、ドイツ系移民が沢山いたと言うこともありますが。

モサドの工作員はアルゼンチンに潜入し、アイヒマンを見張ります。そして、ついに逮捕・・・となれば一件落着でしたが、まだ問題がありました。

その場で処刑してしまえば、後はモサド要員が各々イスラエルに帰るのみですが、アイヒマンは裁判にかけるためイスラエルに連れて帰らなくてはなりませんでした。しかし、誘拐して、連れ帰るとなれば、親ナチのアルゼンチンも見逃すはずがありません。出国するときに見咎められるに決まっています。

そこへ、偶然チャンスが訪れます。近く開催されるアルゼンチンの独立記念式典にイスラエルから外務大臣が参加する事になったのです。モサドはアイヒマンをこの特別チャーター機に乗せ、連れ帰る事にしました。

そして、1960年5月11日、モサドは帰宅途中のアイヒマンを逮捕(拉致)したのです。アイヒマンは自分がイスラエル機関に捕まったことを悟り、無駄な抵抗する事なくお縄につきました。

しかし、問題はこのあとです。アルゼンチン独立記念式典が終わり、チャーター機がイスラエルへ戻るのは5月21日でした。それまでの10日間はアジトへ隠れていなくてはなりません。

アイヒマンが捕まった(行方不明)事は、会社へ出勤しないのですぐに分かります。アイヒマンの会社の社長は彼が誰であるのかを知っていたのでした。イスラエルが拉致した事が分かると、アルゼンチン政府もアイヒマンを渡せと言ってくるに違いありません。さらには、地下組織がアイヒマンを救出にくるかもしれないのです。

しかし、アジトは発見されず、アルゼンチン政府もアイヒマンが捕まったことに気づいていませんでした。そして、式典は終了し、モサド工作員達はSPのふりをして、外務大臣一行とともに飛行機に乗り込みます。

飛行機は無事イスラエルに到着し、アイヒマンは刑務所に入れられました。そして、1960年5月23日、イスラエルはアイヒマン逮捕を発表しました。

アイヒマンは裁判の後、1962年絞首刑にされました。その裁判の記録はDVDになりました→スペシャリスト〜自覚なき殺戮者〜

 

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