第1次中東戦争
イスラエル独立戦争

■ 第1次中東戦争 イスラエル呼称 独立戦争 1948年5月14日

新生国家イスラエル
        V.S.
            エジプト王国、シリア、トランスヨルダン、サウジアラビア
                                         イラク王国、レバノン
イスラエルが建国されるとアメリカやソ連はこれをすぐ承認しました。しかし、アラブ諸国はこれを
はねつけイスラエルに攻め込んできたのです。これこそ”アラブ軍団、ユダヤ人を地中海に追い落とす”と言うところです。さて、ユダヤ人の運命はどうなるのでしょう。

 

■ 開戦

■ 開戦までの兵力
このパレスチナの地では、イスラエルが建国される以前から、移住してきたユダヤ人達と地元のアラブ人達との間で武力衝突が頻繁に起こっていました。お互いに襲撃を繰り返しているので、それに対抗するゲリラが組織されたのです。こうして生まれた地下武装組織がイスラエル独立戦争の主力となりました。

イスラエルは建国したばかりなので、正規軍と呼べるものは、そのゲリラ組織である”ハガナ(防衛の意)”のみで、以前パレスチナに駐留していたイギリス軍はおろか、周辺アラブ軍とさえ正面から組み合う事は出来ませんでした。

ハガナについで勢力のあるエッツェルやレヒもイスラエル国軍として行動しておらず、あくまで民兵の域を出ていませんでした。

では、イスラエルは建国すると同時にアラブ軍に蹂躙されてしまうのでしょうか。いや、人間は極限まで追い詰められたら、とんでもない力が出るのです。それが、ユダヤ2千年来の悲願のためならなおさらです。

■ 開戦
1948年5月14日、イスラエル建国のその日、エジプト王国、シリア、トランスヨルダン王国、サウジアラビア、イラク王国、レバノンがイスラエルに侵攻しました。アラブの土地にユダヤ人が建国する事などは許せぬという事ですでにイスラエル周辺に軍隊を集結させていたのです。

ユダヤ人はイギリスによって武器を所有する事を禁止されていたので、戦車や飛行機といった大きな兵器は持っていません。ハガナなどが細々と密輸していた小火器でアラブ軍と戦います。

しかし、アラブ正規軍の火力は圧倒的で、開戦四日目にはヨルダン側から進入したアラブ軍が、エルサレムを包囲してしまい、テル・アビブからの補給が不可能になりました。

街道にはアラブ軍があふれている状況に、テル・アビブ大本営のベングリオン初代首相は、エルサレム放棄を決定するのでしょうか?

いや、エルサレムを放棄すればイスラエル建国を放棄するも同然であることは誰の目にも明らかです。ユダヤ人がパレスチナに建国するのはそこに聖地エルサレムがあるからなのですから。

テル・アビブ大本営は今や食料の尽きかけたエルサレム守備隊に絶対死守を命じますが、命じる必要などありません。そんな命令の無線は電波の無駄遣いです。エルサレム守備隊はもとより誰しも降伏など考えているはずがありません。

しかし、精神力だけでは戦えません、このままではエルサレムが陥落してしまいます。テル・アビブ大本営は新たに補給用の道路を構築する事でこの難を乗り切ります。

エジプト戦線からの進入もイスラエル抵抗線は簡単に突破され、エジプト軍がテル・アビブへ迫っていました。とはいえ、イスラエルもチェコスロバキアから必死で買い集めた兵器が到着し、ついに航空攻撃も可能となります。

しかし、いきなり航空機を民兵が操縦する事が出来るのですか?答えはNoです。素人が飛行機に乗れば戦闘はおろか、普通に飛ばす事も出来るはずがありません。

では、パイロットは誰なのか。そう、これぞ神の意思か、世界中に散らばっていたユダヤ人はWWUで戦争に参加していたのです。

そこにはヨーロッパ航空戦を戦った、ユダヤ人のパイロットがいました。この英語が基本言語のユダヤ人パイロットはチェコ語で書かれたフライトマニュアルにてこずりながらも、ヨーロッパでは敵の戦闘機だったメッサーシュミットを乗りこなしたのです。

さらにイギリス製の戦闘機も到着し、航空戦も熾烈さを増してきました。そこはさながらWWUのヨーロッパ航空戦が再展開しているようでした。

一方、レバノン・シリア戦線からの進入も戦車を有するシリア軍に対し、まったく抵抗できずにいました。戦車に対する火炎瓶攻撃がいかに無力かという事は、先の大戦で日本軍の犠牲を見れば分かります。

そしてこちらにも、チェコの中古兵器市場から対戦車砲が到着すると反撃が可能となり、どうにか進撃を抑えました。

しかし、このまま戦争を続けても、勝てる見込みはありません。兵隊人員の補給は世界中からユダヤ人が到着しており、数だけはそろっていましたが、軍隊の訓練を受けてない彼らは戦力にはなりません。

■ 停戦(第1回目)
6月11日、国連が介入し、一時停戦に入ることが出来ました。そして、この停戦間にイスラエルは国防軍(IDF)を発足し、組織的な軍隊を作り上げたのです。まあ、形だけとはいえ・・・。

■ イスラエル国防軍の攻勢
停戦期限の終わる7月9日、イスラエルは攻撃こそ最大の防御とばかりに、攻勢に出ます。この時には戦車も保有していたIDF機甲部隊は、歴戦の元ソビエト赤軍戦車部隊の指揮官が率いていました。

これでは、いかに兵器が優秀であるアラブ軍でも、かないません。イスラエル国防軍はアラブ軍の戦線を押し返し、エジプト方面にいたっては逆に国境をこえ、エジプト領内に侵入しました。

ここで、エジプトに対し味方が現れました。イギリス帝国です。イギリスはイスラエルに対しエジプト領内からの撤退を勧告したのです。撤退しないならばエジプト側に立って参戦するというイギリスの態度に負け、イスラエル国防軍は国境まで後退しました。

■ 停戦(第2回目)
これが、良い機会となり、1949年2月23日、エジプトとの停戦を皮切りに無期限の停戦となりました。そして、結局イスラエルの国土はガザ地区、ウエスト・バンク、ゴラン高原をのぞく国境線を確保することになりました。

聖地エルサレムはヨルダンとイスラエルで分割され、ユダヤ教の聖地がある東エルサレムはヨルダンになってしまいました。つまり、ユダヤ人は聖地に巡礼に行くことができなくなったのです。

そして、トランス・ヨルダン王国は念願のエルサレムを領土に納め、国名をヨルダン川の向こう側(東側)という意味である、トランス・ヨルダンからヨルダン・ハーシム王国に変更したのでした。

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