シャー・レザー・ハーン(シャーとは皇帝の意味)は早速、イランの改革に乗り出します。まずは軍隊などの近代化をさらに推し進めます。しかし、この近代化が伝統的な宗教の権威を脅かすと言う事になったのです。これがのちのイスラーム革命につながる伏線となりました。
第2次世界大戦では中立を宣言してたもかかわらず、実はドイツと同盟を結んだため、イギリス帝国とソ連に侵攻され、シャーは南アフリカに亡命します。イラン王国の後を継いだのは息子のムハンマド・レザー・パフラヴィー(22歳)でした。
いきなり新皇帝になったムハンマド皇帝には執政は無理です。そこで、政治を担当したのは議会のムハンマド・モサデク首相でした。モサデク首相は石油会社の国有化を推し進めましたが、皇帝はこれに反対していました。モサデク首相は、カージャール朝の血を引いている事が原因かどうか分かりませんが、皇帝と対立しました。
皇帝の反対を無視して、石油産業の国有化が議会を通ると、イギリス帝国が経済圧力をかけてきました。イギリス帝国自身が利権を取るためです。その結果、国有化による石油利益は減少し、モサデク首相は国民の支持を失っていきました。
さらにイギリス帝国はイランをもう一押しするため、アメリカを誘ってモサデク政権の転覆を図ります。もちろん両国とも石油を狙っての一押しです。
1953年8月15日、国王はモサデク首相を解任しようとしますが、この計画は事前に漏れてしまい、逆に国王の身に危険が迫りました。CIAはこれを見て、8月19日、民衆にデモを起させます。そして、皇帝派の軍隊がクーデターを起こし、政権を皇帝の手に戻してしまいます。
アメリカの援助で権威を回復したシャー・パフラヴィーは、独裁政治を行ないます。アメリカとイスラエルの援助で秘密警察サバックを設立し、反体制の人物の監視を行ないました。
そして、冷戦下と言うこともありアメリカは、イランに対して民主化の圧力をかけます。独裁政治を行なっているシャー・パフラヴィーはしぶしぶ、1963年1月、婦人参政権などの改革案を国民に問いこれを立法します。しかし、選挙はヤラセでありこれに対してついに、国民がキレてしまいます。 |