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Iran Islamic Revolution
イラン イスラーム革命

■ 革命前のイラン

第1次世界大戦以前、石油が重要資源となりつつあった頃、イランの石油を狙って各国が利権獲得に動き出します。このため、イランの王朝であるカージャール朝は食い物とされ、国家としての権威がなくなっていきました。

そんな中の1921年2月21日、イギリス帝国の後押しでコサック部隊の指揮官であるレザー・ハーン大佐がクーデターを起こし、これを成功させます。(クーデター後もハーンは軍人だった)

新たなイラン政府が出来ましたが、政府は落ち着きませんでした。そんな中、レザー・ハーンは軍司令官に就任し、軍の強化を推し進めます。

1925年10月、レザー・ハーン司令官は、軍の力で政府に圧力をかけ、皇帝を退位させます。そして、12月、自身が皇帝となりパフラヴィー朝が起こります。 

 

■ 最後の王国 イラン パフラヴィー朝

シャー・レザー・ハーン(シャーとは皇帝の意味)は早速、イランの改革に乗り出します。まずは軍隊などの近代化をさらに推し進めます。しかし、この近代化が伝統的な宗教の権威を脅かすと言う事になったのです。これがのちのイスラーム革命につながる伏線となりました。

第2次世界大戦では中立を宣言してたもかかわらず、実はドイツと同盟を結んだため、イギリス帝国とソ連に侵攻され、シャーは南アフリカに亡命します。イラン王国の後を継いだのは息子のムハンマド・レザー・パフラヴィー(22歳)でした。

いきなり新皇帝になったムハンマド皇帝には執政は無理です。そこで、政治を担当したのは議会のムハンマド・モサデク首相でした。モサデク首相は石油会社の国有化を推し進めましたが、皇帝はこれに反対していました。モサデク首相は、カージャール朝の血を引いている事が原因かどうか分かりませんが、皇帝と対立しました。

皇帝の反対を無視して、石油産業の国有化が議会を通ると、イギリス帝国が経済圧力をかけてきました。イギリス帝国自身が利権を取るためです。その結果、国有化による石油利益は減少し、モサデク首相は国民の支持を失っていきました。

さらにイギリス帝国はイランをもう一押しするため、アメリカを誘ってモサデク政権の転覆を図ります。もちろん両国とも石油を狙っての一押しです。

1953年8月15日、国王はモサデク首相を解任しようとしますが、この計画は事前に漏れてしまい、逆に国王の身に危険が迫りました。CIAはこれを見て、8月19日、民衆にデモを起させます。そして、皇帝派の軍隊がクーデターを起こし、政権を皇帝の手に戻してしまいます。

アメリカの援助で権威を回復したシャー・パフラヴィーは、独裁政治を行ないます。アメリカとイスラエルの援助で秘密警察サバックを設立し、反体制の人物の監視を行ないました。

そして、冷戦下と言うこともありアメリカは、イランに対して民主化の圧力をかけます。独裁政治を行なっているシャー・パフラヴィーはしぶしぶ、1963年1月、婦人参政権などの改革案を国民に問いこれを立法します。しかし、選挙はヤラセでありこれに対してついに、国民がキレてしまいます。

 

■ ホメイニ師登場

1963年6月3日、イスラーム法学者ホメイニ師が先の選挙を糾弾する演説を行ないました。ホメイニ師は次の日に逮捕されてしまいますが、これに怒った国民が6月5日暴動を起こしました。

この暴動は帝国全土で発生し、3日間続きます。シャー・パフラヴィーは帝国軍を動員し武力を持ってこれを鎮圧しました。

ホメイニ師は釈放された後、またも皇帝を糾弾する演説を行い、1964年11月4日逮捕され、ついにトルコへ国外追放となりました。その後の1965年10月、ホメイニ師はイラクにあるシーア派の聖地ナジャフにある神学校行きの許可を受け、イスラーム法の研鑚を行ないました。つまり自分の見識をさらに磨いたと言う事です。

イラクで13年もすごしているうち、イランではまさにシャー・パフラヴィーの独裁による政治が専横を極めていました。そして、国民は反体制のデモを各地で繰り広げるようになりました。

すると、ホメイニ師はまたしても、シャー・パフラヴィーを糾弾します。皇帝側は新聞にホメイニ師を誹謗する記事を発表すると、今度は国民が暴動を起こします。

もう・・・この国はヤバイな。

ホメイニ師は反体制の演説を行なうので、イラクのフセイン大統領がイランに気を使い、ホメイニ師に国外退去を命じます。そして、ホメイニ師はフランスに亡命しました。

 

■ イスラーム革命

1979年1月16日、シャー・パフラヴィーは国外から発せられるホメイニ師の演説に呼応する国民を抑えきれないと悟ると、時の首相シャープール・バフティヤールの進言でいったん国外に去ります。

これで、国民の熱が冷めればよかったのですが、2月1日、皇帝と入れ替わりにホメイニ師が帰国し、首相をメフディー・バザルガンに任命します。

ホメイニ師は国家元首でもなんでもないのに、勝手に任命したのです。このため首相が2人と言う事態になり、帝国は真っ二つに割れてしまいます。

そしてついに、革命派と皇帝派が戦闘に突入します。2月11日、帝国正規軍が中立を宣言するにいたり、勢いづいた革命派は宮殿を攻撃、ついに皇帝派は消滅してしまいます。

1979年4月1日、イラン・イスラーム共和国が成立し、ホメイニ師は最高指導者に就任しました。これでイラン・イスラーム革命成立です。しかし、イスラーム革命はこれでは終わらなかったのです。ホメイニ師は革命の輸出を唱え、周辺イスラーム諸国をビビらせます。

これは効きました!この後、スーダンやアルジェリアでイスラームによる革命が発生するのでした。

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