The Syria's Behavior
シリアの仕業


シリア共和国 : Powered by CIA

■ シリア建国前夜

 シリアは第1次世界大戦までオスマン・トルコの領土でした。連合軍はオスマン・トルコとの戦いのなかで、メッカの太守であるフセイン・アリー(ヨルダン初代国王の父)を味方に引き込む事に成功しました。その時の条件にフセイン太守はシリア、イラク、ヨルダンなどの一帯を独立させるという約束を取り付けたのです。
 しかし、それはイギリスの嘘である事をロシアが暴露します。その一帯は大戦終結後にイギリスとフランスで分割するというサイクス・ピコ秘密協定があったのです。さらに、イスラエルにユダヤ人の国を作るという事もイギリスが自ら発表します。
 すでにオスマン・トルコ軍を次々とやぶってエルサレムまで進撃し、アラブ国王を名乗っていたフセイン太守は怒髪天を突くといったところでしょう。
 とりあえずそれを黙殺し、シリアへと進撃、これを陥落させます。軍団を率いた三男ファイサルはシリア国王に就任します。
 ところが大戦終結後すぐにイギリスとフランスは秘密協定に基づいて、中東の占領地を分割し始めます。フランスの取り分であるシリアは、ファイサル国王が陣取っていましたが、追い出されてしまいました。その代わりにファイサルはイギリスの占領地となっているイラクを与えられました。
 そして、シリアは独立宣言の1944年まで24年間、フランスの委任統治領となりました。

 

■ シリア独立

 第2次世界大戦後の1946年4月17日、最後のフランス部隊がシリアを後にし、独立が達成されました。この時のシリア大統領はシュクリ・クワトリでした。このクワトリ大統領は独立運動をしていたため、以前フランスから死刑宣告を受け亡命までしていた運動家です。

 

■ イスラエル建国

 シリアは1948年のイスラエル建国前夜から、パレスチナ・アラブ人の生活を保護するため、パレスチナへ義勇兵を送りこんでいました。そしてイスラエルが建国されると、ほかのアラブ同様シリアもイスラエルへと攻め込みました。
 この戦争の結果はアラブの敗北に終わり、パレスチナ・アラブ人の難民が大量に発生してしまいます。その難民は、イスラエルと国境を接しているシリアにも流れ込んできました。

 

■ クーデター

 1949年1月、フスニ・ザイム大佐がクーデターを起こし大統領に就任します。ザイム大佐は82日間で敵対勢力を撃退します。これにより、クワトリ大統領は失脚しました。
 そして、このクーデターが今後多発する軍事クーデターのさきがけとなったのです。
 この後、51年まで3度のクーデターが連続しました。そして、1954年の国民による軍事政権反対デモにより、軍事政権は倒れます。
 そして、この頃からバース党(復興社会党)が勢力を伸ばし、シリアはソ連よりとなっていきます。

 

■ アラブ連合共和国 United Arab Republic

 1955年、イギリス帝国が主体なり、中東地域への共産主義の浸透を防ぐため、バクダット条約機構を結成します。しかし、そのころシリアでは、1957年にバース党(復興社会党)が政権をとっていました。政治はソ連よりであり、バクダット条約機構には加盟していません。
 そして、1958年2月22日、同じく社会主義よりのエジプトとシリアは、アラブが力を合わせて、列強やイスラエルに対抗するというアラブ民族主義に基づき、2国を合併します。
 こうして、アラブ連合共和国が建国され、エジプトのナセル大統領が初代大統領に就任しました。
 しかし、この2国が力を合わせてと言う訳には行きませんでした。やはり、アラブといっても別の国同士であり、摩擦が起きるのでした。
 エジプトはシリアをまるで自国の属州のように考え、いろんな政策を押し付けてくるようになりました。それに業を煮やしたシリアで1961年9月28日、軍事クーデターが発生し、新政権はアラブ連合共和国からの脱退を宣言します。
 この同盟以上のつながりを持つ予定であったアラブ連合共和国も3年半で幕を閉じました。
 そして、この後の1966年2月、またもクーデターが発生し政権が交代します。

 

■ 第3次中東戦争

 1967年に入り、PLOが活動を活発化させると、シリアもイスラエルに対し攻撃を仕掛けます。イスラエルとの国境であるゴラン高原に大砲を並べ、イスラエルを直接砲撃しました。
 これに対し、イスラエルは報復攻撃を行い、局地的な戦闘が続きます。そんな中、これを見ていたエジプトが、イスラエルとの全面戦争を誘ってきます。
 シリアはもちろん即答しました。そして、大規模な軍団をゴラン高原に終結させたその時、イスラエル空軍が雲の切れ目から急降下してきたのです。
 これは宣戦布告なしの攻撃でした。この奇襲によりシリア空軍の航空機は壊滅し、制空権を失ったアラブ連合軍は開戦から6日で、国連の停戦決議を受け入れたのでした。
 これは、完全なアラブ側の敗北でした。そして、またしても大量の難民が押し寄せてきたのです。

 

■ ヨルダン内戦介入とアサド大統領登場

 1970年9月隣国のヨルダンでPLO対正規軍の戦闘がはじまり内戦状態となりました。ヨルダンのフセイン国王はPLOを追い出すという行動に出たのです。そして、正規軍に押されまくったPLOは徐々にシリアとの国境へ追い詰められていきました。
 そして、シリアはヨルダンの内戦へ介入する事を決め、シリア機甲師団ソ連製戦車のマークをパレスチナのマークに書き換えたのです。そして、PLOゲリラを支援すると言う形で、ヨルダンへ進撃しました。
 しかし、これでは建前はよくても道理は通りませんでした。すぐさま、シリアの介入を悟ったアメリカがシリアとヨルダンの戦争になる事を防ぐため、地中海第六艦隊を出動させシリアをけん制してきました。とはいえ、アメリカがシリアに攻撃をかけると他のアラブ諸国も黙っていないでしょう。
 そうなると余計に事が大きくなります。それはアメリカも望んでいないはずです。そう読んだシリアはアメリカの動きを黙殺します。
 これに対してアメリカはイスラエルにシリアをけん制するよう要請を出します。相手がイスラエルだと戦争になる可能性もあり、現状では勝つ望みは薄いのです。
 そして、シリアはこの圧力に負け、ヨルダンから引き上げたのでした。もちろんPLOはシリアの力なくしてヨルダン正規軍には勝てるわけがありません。PLOは停戦合意を受けて、レバノンへ落ち延びていきました。
 この失敗がきっかけとなり、バース党の権力がアサド首相に転換しました。アサド首相は敵対するグループを排除することに成功したのでした。そして、1971年3月にアサド首相兼国防相は大統領に当選します。

 

■ アラブ連邦共和国 Federation Arab Republic

 さて、アサド大統領の最初の大仕事はエジプトとアラブ共和国のやり直しでした。このときナセル大統領は亡くなっており、サダト大統領が後を継いでいました。
 そして、アサド大統領はエジプトと革命で政権を取ったリビアのカダフィ大佐を誘って、第2次のアラブ共和国を設立しました。
 この国家は1979年、エジプトがイスラエルと単独で和平条約を結んだ事に対して、エジプトと断交したシリアの脱退によって立ち消えてしまいました。

 

■ 第5次中東戦争 ラマダーン戦争

 さて、大統領に就任したアサドはイスラエルとの対決姿勢をいっそう強化すると宣言します。ゴラン高原は必ず取り返すということです。
 1973年にエジプトとシリアはイスラエルとの戦争を計画します。しかし、第3次中東戦争でイスラエル軍の戦闘能力を見せ付けられている両国は、正面から戦いを仕掛けても勝ち目が無い事が分かっていました。
 そして、奇襲による先制攻撃でイスラエルに打撃を与えてゴラン高原を奪回し、国連の停戦決議を受け入れてゴラン高原をシリア領へ戻すという作戦を計画します。
 そして、1973年10月6日、エジプト、シリア両軍はイスラエルへ同時に攻め込んだのです。この作戦は当たりました。最初の攻撃でシリア軍はゴラン高原をほとんど解放し、開戦の翌日にはイスラエルの領土まであと3キロへ迫ったのでした。
 しかし、11日には体制を立て直したイスラエルの反撃が始まり、シリア軍は徐々に押し返されます。イスラエルはシリアの(ゴラン高原より向こう側の)領土まで侵攻する作戦にでて、どんどん進撃してきました。アサド大統領は覚悟を決めて本土決戦を叫ぶにいたりました。一方、ソ連はシリアが陥落しては困るので、直接介入を検討し始めます。空挺師団に非常呼集がかけられ、出撃の命令を待って待機させていました。
 そんなとき、イスラエルはダマスカス手前30キロで停止し、防御陣地を構築し始めます。つまり、イスラエルは進撃をここまででストップしたのでした。
 そして、その後シリア軍はゴラン高原を取り戻す事は出来ませんでした。ソ連はこれで介入を踏みとどまり、シリアとエジプトに停戦を呼びかけます。これを受けて、23日国連の停戦決議を受け入れたのでした。
 最終的にはイスラエルに押された戦争となりましたが、最初の段階で無敵イスラエル軍にかなりの打撃を与える事に成功したアサド大統領は、この戦争で一応の勝利といえる結果を出しました。

 

■ レバノン内戦

 1975年、隣国レバノンで内戦がはじまりました。当初はPLOとレバノン人の小競り合いでしたが、徐々に拡大し内戦状態になりました。
 アサド大統領はこの機を逃さず、レバノンに介入します。しかし、内戦に介入するとヨルダン内戦の時と同じく国際世論が黙っていません。そこで、アサド大統領はレバノン政府が内戦を止めるためにシリアに軍隊の派遣を要請するという大義名分を用意しました。
 そして1976年1月、またしてもシリアは他国の内戦にPLAとして軍隊を派遣したのです。そして、レバノンの内戦は激化します。無政府状態になったレバノンの大統領選挙が行なわれると、シリア軍が傀儡政権を立てます。
 このようなシリア軍の行動をアラブ諸国は非難し、諸国会議を開きます。当初はシリア軍を非難していたのですが、結局アラブ平和維持軍を結成し、シリアを含めたアラブ軍によってレバノンの内戦を止めるという事にしたのでした。これにより、シリア軍はレバノン介入を正当化する事に成功します。
 1979年、ほかのアラブ軍が撤収するとシリア軍だけがレバノンに残ります。こうして、シリアはレバノンを属国にしてゆくのです。なんと、シリアはレバノンと外交関係を持っていないのです。自国の属国と外交関係は不要ということです。

 

■ 第6次中東戦争 レバノン戦争

 1982年、レバノンにいるPLOの攻撃にたまりかねたイスラエルは、ついにPLO掃討のためにレバノンへ侵攻します。シリアとしてはレバノンに駐留中であり、他国からの攻撃には応戦すべきなのですが、イスラエルとは戦闘をするつもりは毛頭ありません。
 しかし!イスラエルは違いました。PLOと同じく、シリアもイスラエルの敵であります。レバノンに駐留するシリア軍をも攻撃の対象にしていたのです。
 シリア軍は直接戦争に発展するのを恐れ、暫定的に戦闘を行ないました。しかし、イスラエルは積極的に攻撃し、シリア領内へも攻撃を仕掛けて来たのでした。
 ただ、イスラエルは領土的な野心があるわけではなく、シリア軍の攻撃能力を殲滅すればそれでよいのでした。そのため、シリア領土へ侵攻してくる事はありませんでした。
 そして、PLOを追い出し、当初の目的を達したイスラエルはレバノンの南部地域へ撤収し、この戦争は終わりました。

 

■ 湾岸戦争

 1990年、イラクがクウェートへ侵攻しました。これに対し連合軍はアラブの協力も取り付けます。シリアは連合軍に加わり、イラクを敵国としました。
 さすがに、イラク国内まで侵攻する事は避けましたが、アラブがアラブと戦うという事態に発展してしまいました。
 アメリカはシリアの協力を取り付けるため、レバノンに駐留するシリア軍のことは目をつぶります。これで、遠慮なくレバノンを属国にする事に成功しました。

 

■ アサド大統領 死去

 2000年、約30年にわたってシリアを率いたハフェズ・アル・アサド大統領が亡くなりました。じつは、大統領といっても、いわゆる独裁政治であり、国内にはいたるところに肖像が掲げられていたのでした。
 そして、後継者は副大統領となるところですが、実際はそうならず、ご子息で歯科医であるバシャール・アル・アサドが大統領に就任しました。なんと38歳の大統領です。

toranosukeandumanosuke