風呂でのぼせて気分が悪くなった。
だるい身体を叱咤して、布団を敷いた。転がるように中へ入り、うずくまるような恰好で横になった。やっぱりこのまま死ぬんじゃないかと思った。
電話導入しておくべきだった。
相沢に抱きしめてほしかった。
大丈夫だよ、と言ってもらいたかった。
相沢のことしか考えられなくて、泣いてばっかりだった。
こんなのは僕じゃないと思っても、どうにもならなかった。
バイト……無断欠勤した。
クビだな……と思う。
どっちにしても、もう行けない。バイト先は奴にバレてる。
僕は布団の中から動かなかった。空腹だったけど、起きて動く元気もなければ、買い物に出る勇気もなかった。外に出たら、またあいつがいるような気がして、怖くてどうしようもなかった。
何も食わないうちに、朝も夜もいつの間にか通り過ぎてって、僕はますます動く元気がなくなった。死ぬかもな……と思った。
ガチャ、とドアが音を立て、僕は全身が跳ね上がりそうなほど驚いた。
目を瞠って息も止めてドアを見つめていたら、鍵を開けて入ってきたのは相沢だった。
……もう、土曜日だったのか。
頭の奥で、もうひとりの僕が呟いてるみたいだった。
僕を見つけた相沢が、怪訝な顔をする。
「悟瑠? なにしてんだ、おまえ? こんな昼間っから布団の中もぐって。まだ寝てたのか?」
遠慮なく部屋に入ってきた相沢は、僕の傍に膝をついた。
「悟瑠?」
僕は急に怖くなった。
相沢が怖いんじゃない。
僕の身に起こったことに怖くなった。
知られちゃ駄目だ。知られたくない。
「……すごい、青白い顔。おまえ、ちゃんと食べたのか? 俺がいなきゃ、何もできないようじゃ困るぞ」
口を開こうとして、
いきなり涙が出た。
「……さとる……?」
「……なん……でもな……」
バカだ。すごくバカだ。なんで泣いてんだ。甘えてるのか、相沢に?
こんな甘ったれた奴かよ、僕は。
情けない。
「どうしたんだ? なんかあったのか? なあ、おい」
相沢は困った声で言いながら、僕の肩をつかむ。
「悟瑠。おいってば。何があったんだよ」
何も答えられなくて。何も考えられなくて。
ただバカみたいに声を殺して泣いていた。
相沢の前で泣いてしまったせいで、恥ずかしさのあまり布団の中で背中を向けていた。相沢は結局それ以上突っ込んで訊いてこなくて、台所でいつもみたいに料理を作ってた。
なんて思われただろう。頭が麻痺してわからなくなってる。
本当は、相沢に抱きしめてほしかった。でもそんなこと言えない。
僕はこんなに弱い奴だったろうか。
こんなに情けない奴だったんだろうか。
いきなり自分に嫌気がさして、僕は布団から出た。立ち上がろうとすると、眩暈がして、何日も食べてなかったことを思い出した。
……気持ち悪い。吐きそう。
起き上がるなりうずくまった僕に気づいて、相沢が慌てて傍に来た。
「大丈夫か、おまえ?」
「……吐きそう」
「横になってろ。洗面器持ってきてやるから」
ばたばたと大急ぎで相沢が走ってくれる。布団の中で目を閉じてその足音聞いてるだけで、僕はなんだか安心した。
相沢がいてくれてよかった。
また涙腺が緩んだ。どうなってんだ、僕の目は。
「バイト、無断欠勤して……」
訊かれてもないのに僕は喋った。
「きっとクビだと思う」
「いつだ?」
「いつだったかな……たぶん、水曜日」
「その日から食ってないのか?」
図星をつかれて、僕は恥ずかしくなった。
「……そうかも」
「そうかも、じゃねえよ。死んだらどうすんだ。何があったか知らないけど、どうしておまえってそう、壊れる方向に走るんだ? これじゃ一生俺が見てないと、ほんとおまえってどうなるかわかんないな」
「……ごめん」
迷惑かけたいわけじゃない。けど、どうしようもない。
「……ごめん」
「……謝れなんて言ってない」
相沢が僕の傍に座った。目を閉じていた僕はそれを気配だけで感じた。ふいに僕の髪に手が触れる。相沢の手だ。僕の頭は撫でやすいんだろうか。
額にかかっている前髪がかきあげられて、唇が当たった。相沢にキスされたのだと瞬時に理解した僕は、その瞬間から鼓動が跳ね上がった。
「いきなり食べると身体によくないから、とりあえず病人食作ったんだけど、いいよな?」
「……うん」
どうせ、まともな食事なんて食べられない。いくら相沢の料理がうまくても。
相沢はずっと僕の面倒を見てくれた。世話好きな奴なんだなあ、としみじみ思った。そんな相沢の性格が有難かった。けど、日曜日が終わってしまえば、また帰ってしまう。
そうしたら僕はいったいどうやって生活したらいいんだろう。
相沢におんぶしてちゃ駄目なのはわかってる。
けど、外に出るのは怖かった。またあいつがいるかもしれない。
新しいバイト始めてみたって、また見つかるかもしれない。
そうしたらまた何されるかわからない。
今の僕は相沢以外の誰にも触れられたくない。
……堂々巡りだ。
「俺が帰っても、ちゃんと人間の生活しろよ?」
日曜日の夜、帰り際に、相沢はそう言い残して行った。
僕は笑って見送ってみたけど、それは単に相沢を安心させるため以外の何物でもない笑顔だった。わがまま言って引き留めたりしたくなかった。
ドアが閉まってポツンとひとり部屋に残されてしまうと、とたんに空虚になる。寂しくて死んでしまいそうになる。
もう、相沢を失うことはできないと、わかってしまった。
だけど相沢もそうだとは限らない。
相沢を好きな人なんて、きっといくらでもいる。
一応言われた通り人間の生活をしようと、僕は頑張った。
外に出るのは怖かったけど、いつまでもそうしてらんないから、勇気を振り絞った。あいつは僕の家までは突き止めてなかったらしく、待ち伏せされてなかった。
前のバイト先に公衆電話で連絡して、謝った。普段の仕事ぶりのせいなのか、僕は結構信用されていたらしく、また戻って来いと言われたけど、丁寧に断わった。もうあそこでは働けない。またあいつが来るかもしれなかったから。
求人雑誌を買って、新しいバイトを探した。できるだけ時給がよくて、まともなやつを探した。この際だから、重労働でもいいような気がしたけど、栄養と運動不足の僕の身体がそれに耐えられるのかが問題だ。
新しく見つけたバイトは、ファミリーレストランのウェイターだった。
「そっか。新しいバイト始めたのか」
また次の土曜日、うちに来た相沢が「よかったよかった」と言わんばかりの顔で言った。
「今度は無断欠勤しないようにするよ」
「そうだな。信用問題だもんな」
相沢の作るごはんは相変わらずうまかった。
「ねえ」
「ん?」
ふいに興味がわいて、僕は訊いてみた。
「相沢は高校卒業したら、どうすんの?」
「俺?」
ふいうちだったらしい。相沢がちょっと戸惑っていた。
「うーん……。とりあえず大学に行こうと思ってるけど」
「大学って、家から近くの?」
「そうだな。これといって希望の大学っていうのも、ないんだ」
「へ?」
今度は僕が驚く番だった。
「なにそれ。すごく相沢らしくない」
「そうか? 大学はまあ、どこでもいいんだ。就職希望ってのもないし。とりあえず普通のサラリーマンになると思う」
「……いいの、それで?」
相沢なら、もっとドカンとすごい夢でも抱えてるかと思ってたのに。
「今はな。とりあえず普通に働いてみて、それから考えた方がいいかなと思ってんだ。何もわかってない学生なんかが、将来のこと真剣にとかって思っても、まともな判断なんかできないだろう?」
「……そうかも、しれないけど」
でもまあ、相沢ならどこでもやってけるか。
「サラリーマンってことは、やっぱ、いつか結婚して子供作ったりするんだろ?」
僕がそう言うと、相沢が黙って僕を見た。
急に難しい顔をするから、僕は怪訝に思って見返す。
「どした?」
「……そこまで、考えてなかった」
「おいおい」
僕は苦笑する。相沢ってしっかりしてるようで、なんか抜け落ちてるなあ。
「普通そうだろ? 大人になって就職したら、誰かいいひと見つけて結婚するもんじゃない? 男ってそうだろ?」
「……悟瑠はどうするんだ?」
逆に問い返されて、僕は返答に窮した。……考えたことない。
「僕はいいよ。壊れた生活してたような奴だし。女の子が可哀想でしょ?」
「よくないだろ。俺だけ結婚して、おまえは独り身なんて、駄目だろ」
僕は声を出して笑った。なんかムキになる相沢が可笑しかった。
「将来(さき)のことだろ? なにムキになってんの」
「そうだけど……」
相沢が少し落ち着きをなくした。そんな困るような話題だったろうか。
「いつかね、本当に大人になった時ってのはさ、結局女と結婚すんだよ。ノーマルな人はみんなね」
「俺は……」
「バリバリのノーマルでしょ?」
「……」
相沢が押し黙った。何を言えばいいのかわかんないみたいだった。
「でも、俺は……」
困ったような、考え深い様子で、相沢がまだ何か言おうとする。
「いま俺は……おまえのこと」
「友達だよね、僕たちは」
「……」
すまして僕が言うと、相沢はますます困った顔をしたけど、結局黙ってしまった。
それきり食事の場が静かになった。相沢はまだ何か考え込んでいたけど、僕も訊かなかった。
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