December 9,2002
こんな寒い中では、けんちん汁でも食べて暖まるより他ない。
とりあえずは里芋とごぼう。各100gくらい。それと豆腐一丁。
これで4人前を作ることが出来る。
人参だとか油揚げだとか蒟蒻だとかも、好みで加えれば良いが、
大体僕の作るけんちんの基本は里芋とごぼうと豆腐。
里芋とごぼうはともに下拵えに手がかかる。
どちらもアクが強いし、「固い」材料だ。
里芋は塩もみしてヌメリをとり、
なお且つ強火で下茹でしてアクをとる。
ゴボウは包丁の背中で皮をこそいで、
鉛筆を削るように「ささがき」にして、水に晒す。
そうして下拵えした里芋とごぼうを、
鍋のなかで、ごま油にて炒める。
ここで実に良い香りがする。鍋物汁物を作る時、
この炒める過程がなんとも好きだ。
潰した豆腐も加えて、充分に炒める。
そうしたら、煮干しのダシ汁4〜5カップを加える。
強火で一旦沸騰させ、火を止めてアクをとる。
あとは、様子を見ながら最低10分煮る。
最後に、塩で、又は味噌で味付けする。
個人的には塩味が好きだが、
関東という土地柄か、身の回りでは味噌味が好まれるようだ。
里芋、ごぼうという具材は、いかにも土臭い。
そして、なんとも手がかかる。固い具材だ。作るのに疲れる具材だ。
田舎っぽい料理ではあるが、そんな土臭さが何とも好きだ。
土臭さの中に、なんともいえないやさしさが有る。
祖母のけんちんが大好物で、
これは消毒だからと必要以上に煮込まれたものだった。
祖母の料理はいつもそうだった。
それが僕らには美味しかった。
一人暮らししていたころに、
即席のけんちんうどんを食べては、
それが それなりに旨くて、
毎度、遠い祖母のことを思い出したものだ。
そんな祖母がいなくなってから随分経つ。
僕にとってけんちんはいつまでもおばあちゃんの味。
いなかのおばあちゃんの、味。
November 26, 2002
庭も落ち葉でいっぱいだ。
ほんの数日前まで紅葉していた
なんというのだろう
僕は木の名前が良く分らないんだが
それが 全部散っている。
ついに寒くなってきた。
昨日は自分だけのために雑炊みたいなものを作った。
その前の日に家族分作った中華風白菜鍋(これも旨い!)
の材料が余っていたから。
具体的に言うと 生シイタケとタケノコの水煮が余っていた。
これをそれぞれ20〜30gくらいだろうか、
シイタケのいしづきを取って、あとは適当に切り、
小さい土鍋にご飯とひたひたの水を入れ、煮込んだ。
中華風スープの素とかいうのが丁度あったので
これを適量いれてダシとした。
味付けは塩のみ。これで充分旨いしあったまる。
と思っていたら、なんと麻婆春雨があった。
母がやはり前の日の鍋のあまりで作っておいたようである。
これを入れるとまた一段と豪華になった。
なんだかこういう変な創作鍋みたいなのは
一人暮らしの学生みたいなノリで
まともな料理という感じじゃないが、たまには悪くない。
September 2, 2002
写真に興味を持ち出したのが2000年のことで、
はや2年以上撮っている事になる。
現状使っているカメラは
ヤシカ・エレクトロ35GX 40mm 1.7と
ニコンの一眼レフ+50mm 1.8
どちらも頂き物だ。
風景スナップにはレンズ描写が好きな前者を用い、
実用的な写真には後者を使っている。
これまで写真に興味が無かったことのひとつとして、
思うように写真が撮れなかったことが挙げられる(笑)
プログラム式のカメラを用いると意図しない写真ばかり撮れたし、
かといって使いきりカメラでは
そもそも 構図を工夫するくらいしかできなかったのだ。
機材で重要に思えたポイントをあげると以下のようになる。
1.古いカメラ
新しいものでも問題はないが、70〜80年代のカメラで状態の良いもの、
またはそれらをベースとした現行機が手に入るならそれが良さそう。
余計な機能が無く、操作系がシンプル、
大切なこととして、概ね筐体がしっかりしていて使いやすい。
電動式でないことも自分には重要な点だ。
完全機械式ではなくとも、巻き上げ、巻き戻しは手動で十分。
フィルム給送が手動なら、それが自動であるのに比べ、
電池が全くと言ってよいほど減らない。そりゃそうである。
それに、手動送りは音がとても静かだ。
ウィーンといった音は、不用意に周りの注意を引いたりするし、
被写体が人物や犬などの場合も、これらの音は無い方が雰囲気が良い。
何かどうしても必要であれば、そのときはじめて、自動送りのカメラや、
モータードライブ装置を用意すれば良いのだろう。
2.明るいレンズ
主にF1.X(数値が少ないほど明るい)といった、明るいレンズを用いると、
暗いところでもストロボを用いず主に自然の光で写真が撮れる。
撮りたいものは何も晴天野外ばかりじゃない。
家の中や、電灯の下、夕暮れ時の風景、朝方などもいい瞬間が多くある。
焦点距離の長いレンズのなかで明るいものを探せば高価だが、
35〜50といったレンズで有れば、安価に求められるようだ。
3.リバーサルフィルムの使用
ここのHPの写真はとり込みの都合上全てネガであるが、
圧倒的に美しいのがこのリバーサル(ポジ、スライド)フィルム。
フィルム自体の値は張るが、
プリントせず現像のみで写真が楽しめるため一面で安価でもある。
なんといっても強烈なのが青など色彩の再現性とシャープさ、
端的に言えば、空の美しさが全く違うのだ。
今まででは、空の感じが上手く出ることは実に稀だったのが、
リバーサルを用いると、何気なく撮っただけで、バリバリに青い色がでるのだ。
これほどの写真が自分+手持ちのカメラで撮れるのか、と疑ってしまう。
その秘密は、「画質だけ」をみれば、
プロの写真と同じようなものが撮れてるよ、ということ。
これは24になるまで未体験だった自分には画期的だった。
やる気にさせたのはリバーサルフィルムといっても良いだろう。
プリントも出来るが、PC画面にとりこむには、
まだ持っていないがフィルム・スキャナーを使い、
フィルムを直接読み込むのが良いようだ。
現像されたフィルムはプリントと違い自分の撮った本当の色が出ており
これをルーペで鑑賞するのが最も美しいが、プリントの際も、
そのフィルムの色が「紛う事無き撮った色」と確認できるだけにわかりやすい。
4.フィルムにこだわってみる
ネガを使うにしても、リバーサルを使うにしても、
フィルム銘柄で写真が随分違うことが分る。
代表的な3、4社の製品を2銘柄ずつくらい試すと、
おおかた緑がきれいだとか、暖色の再現がいいとか、
自分の好みや状況に合ったものが分ってくる。
緑がきれいな風景には、緑色がきれいに出るフィルムが合う、
・・・それはひとつの正解かもしれないが、そんなことではない。
要はまったく好みの問題で、大切なのは違いがあるということ。
また、感度については、出来るだけ低い感度のものの方が、
美しい写真が撮れる。状況が許すなら100を基本に64などを使い、
必要に応じて400など高い感度のものを使う感じだ。
構造を考えてみれば、そうなのだが、
写真機自体はフィルムにレンズを通した光をどう当てるかという、
それだけのことをやっているに過ぎない。
考えようでもあるが、レンズとフィルム、特にフィルムが重要に感じられる。
レンズは耐久消費材、フィルムはそのときに応じ買い求める消耗品、
という違いが有るので、ともすればレンズやカメラを重要視しがちだが、
写真に及ぼす影響はむしろフィルムが大きい。プリントするならその過程も。
絵とくらべれば、写真は、この絵の具しか使っちゃ駄目、混色もこの範囲で、
と指定されているようなものとも思えるので、フィルムにこだわる価値がある。
5.単焦点レンズの面白さ
偶然でもあるが、たまたま、単焦点のレンズしか手元にない。
だが、これが良い。ズーミングできるのは便利だが、
ズームできるレンズをつけていると、どうしてもズームしてしまう。
ところが単焦点ではこれができない。
不便でもあるわけだが、自分がいつ、どこそこに立って撮った写真、
という記憶が鮮明に残るのがいい。それに、フレーミングで苦労するのも、また良い。
無論ズームレンズもあって困らないのだが、単焦点レンズは、
やはり自分が写真に興味を持つきっかけとなったので、
自分にはいいものだと思っている。
40mmと50mmのレンズでも、ものすごい違いが有ると気づく。
40mmは風景にピッタリ。やや迫力には欠けるものの、
人間の目より少し引いた程度の焦点距離は、実際にはとても自然で扱いやすい。
良く標準と言われる50mm、こちらは覗いてみても肉眼に近い印象だが、
フレーミングしてみると、ちょっとばかり上手くいかない。
人より視野が狭いぶんだけ、人の心象よりも望遠寄りに感じられるのだ。
人の心象をトリミングしたような状態といえば良いだろうか。
それを上手く活かせば面白く撮れる。
PCなどに撮り込むなら、そこでの自由なトリミングを前提として、
とらわれず気楽にフレーミングしても面白い。これは昔と違う。
6.絞り優先オートモードで
主に使っているのが絞り優先オート(AE)モード。
これは、指定した絞りに対して、適切なシャッター速度をカメラが選んでくれる。
フルマニュアルの場合は絞りとシャッターを両方指定するが、
実際のアプローチとしては、絞りかシャッターいずれかを先に決め(優先)、
もう一方はそれに合わせる手順になる。
絞りは、単純に言えば被写界深度調整のために使うことが主。
前後まで深く鮮明に写し込む、ピントの合っているところ以外をボカす、
といったことであり、作画意図のメインになる。
特に動きの激しくないものを写すなら操作手順は絞り優先になるから、
絞り優先オート=シャッターは自動、が丁度いい。
フルマニュアルで撮影するときでも、考え方は大体絞り優先だ。
プログラム・オートモードは、これらを両方自動で設定する。
咄嗟に何か写すには便利と思うが、ここではその辺りに触れない。
また、最新プログラムがどんなものかも知らない。
が、上手く撮影意図を反映するには、
絞りかシャッターいずれかは自分で決めた方が面白い。
さして積極的に撮るとはいわないまでも、
そこそこに写真を楽しんでいる。
その動機となった、いくつかのポイントを挙げてみた。
自分にはこういうところが大事だったのであり、
また、それらにずいぶん長い間気づかなかったのだ。
カメラを持っているが、今一つ何か、
面白くない、積極的に撮る気にならない、という、
3年前の僕のような人がいたら、
まず、リバーサルフィルムの使用をすすめたい。
また、操作手順としては絞り優先オートをすすめる。
もしかしたら・・・写真を好きになるかもしれない。
─料理や写真の話などもしつつ、
時にはこの辺の話も書いていくと思う─
例えばだが、動物の権利といった分野にも関心の有る僕であるが、
これなんかは、もう、考え始めたら難題である。
何であれ、こういう微妙なことに関心を持っている方々では、
迷いが常につきまとうはず。
なんとも言い切れないが心につかえるような、微妙な問題は多いはずだ。
それだから問題として残っているのかもしれない。
なんでもかんでも生き物の権利を認めるような方向でいくのなら、
それはもう、バクテリアでもなんでも殺してはいけないという、
そういう所までいってしまう。
また、どこかで線を引くという話になると、どうしても、
生物体の知的な部分に基準をおく話も出てくる。
そうするとこれは、知的と思われるものに価値が有って、
そうでないものには価値を認めないという考えか、
と、これまた実に難しい問題になってくる。
ただ、ひとつ思うのは、完全な理論武装が出来ていることと、
なにがしかの考え、信念、感覚に則った行動とが、
必ず連動していなくてはならないとは、言えないだろうということだ。
これが今回ちょっと書きたかったことだ。
聞きようによってはちょっと危険な言い回しにも聞こえるが、
あくまでも常識的な行動を守る範囲での話。
勿論、重大な行動については、然るべき理由を説明できなくてはいけないし、
また他人に説明する必要が無い自分だけの行動でも、それが重大なら、
自分のなかでハッキリしていなくては、うまくないだろう。
ところが、そうでないものも多々あるのが世の常ではないだろうか。
「なんとも表現し難いが、自分はなんとなくこう思うのだ」
といったことが、案外重要であったりもする。
僕が今回思ったのは、こういう、「なんとなく」の部分を、
なにも、上手く説明できないからといって、無視することはないのではないか、
とりあえず「なんとなく」にしたがって行動するのも、
おかしいことではないんじゃないの、ってことである。
そういう気持ちになるのは何故なのかを考察し、
(可能かわからないが)まとまった理論とするのは、
また別立てでもよいのじゃないかと。
極端な喩えだが、誰それが好きだとか、こういう場所が好きだとか、
そういったことについて、理由を求める方が不自然だ。
ひとつの趣味として、なぜそういう気持ちが起きるのか、
哲学的に考えるのも面白いとは思うが、基本的に理由は要らない。
誰それが嫌いだと言うことになると、
これは勿論、面と向かっていっちゃあいけない。
それだけの精神的苦痛を相手に与えるには理由が必要だ。
もちろん、社会的に見て明らかに、
自分が何か痛手を受けたというレヴェルで有れば、
これはここで言うまでもなく社会的に措置を講じることとなり、
嫌でも明確な理由がくっついてくる。
ただどうなんだろう?「あの人は苦手だな〜」
と思っていること、内に思っているそれだけで済むので有れば、
その理由を考察することは特に要らないんじゃないだろうか。
(考察して理由を見つけた方が気が楽になるということはあるが(笑)
「良く考えがまとまるまでは、行動すべきではない」これは真実だ。
だが一方で、ある「気になること」について、
「これはどうも上手く説明できそうにない」という理由で、
そのことについて考えるのを一切止めてしまったり、
「上手く説明できない行動はそもそもやるべきでない」と考えるのは、
どうだろうか、勿体無いのじゃないかと思う。
考えがまとまらないのにも関らず日はまた昇る、
はてさてどう行動して良いかわからないとか、そういう人も多いと思う。
考えを突き詰めることから逃げるのは、逃げることかもしれないが、
考えを突き詰めることから逃げるのを恐れるあまり、
その「なにがしか気になっていること」から全く離れてしまうのも、
また勿体無いのではないかと、ちょっとばかり思った次第。
うーん、微妙すぎて訳が分らない(笑)
訳が分らない訳だが、訳が分らないからといって、
やはり書きたいことには変わらない訳で、書いてみたという訳。
僕が言いたいのはそういうことでした。
August 20, 2002
ちょっとなんだか、切ないくらいに夜風が気持ち良い。
何故切ないって、ああ涼しいなあなんて思っていたら、
すぐに寒くなってしまうんだから。
僕の苦手なあの寒さがやってくるなんて今から嫌だ。
でまあ、そう暑くもなくなっているけれども、
夏場に合う、元気の出る食べ物といったら、唐辛子やニンニク。
それらを活かしたパスタということで
ペペロンチーノ。
これは非常に簡単で材料費もかからない。
鍋にピュアオイルを熱し、そこにスライスしたニンニクを
1人あたり半片〜一片入れ、赤唐辛子と共に炒める。
ここでニンニクが焦げてしまうといけないので、
むしろ揚げるくらいのつもりでやると良いかもしれない。
鍋を傾けながらやると、オイルが一方に片寄って深さができ、
丁度揚げるような感じに出来て都合がいい。
あとは塩胡椒で味をつける。
あくまでも塩胡椒のみ、その味に頼るパスタなので、
ここの加減が案外難しい。
僕は薄味好み、自分だけが食べるなら、素材の味のみ、
調味料はごく僅かで仕上げることも多いので、
人に出す場合は気持ち濃い目にしないといけない。
こうしてソースが出来上がったら、
同時進行で茹でたパスタの茹で上がりを待ち、
茹で上がったら上記の鍋に入れ、
ほんの軽く炒め合わせる。
本格的に炒めてはいけない。
火を入れながら軽く絡めるくらいの気持ちでOK。
この季節が本格的になると、モームの「太平洋」といった、
南洋を舞台にした短編なども良い。
夏だったら、普段良く読むドイツものやロシアものはどうも重苦しい。
サリンジャーだのヘミングウェイだの、少し違うものを手にすることが多い。
本一冊で夏も随分変わる。普段本を読まない人のことは知らないが、
常に手元に一冊は置いておきたい僕だと、
もともと夏っぽい本を選ぶという素直なやり方もあるが、
「普段親しみの浅いものを選ぶ」方面にて、夏らしさを出すことも多い。
小松左京を読んだ夏、泉鏡花を読んだ夏、色んな夏が有る。
さすがに肌に合わなかったものもあるが、それは別として、
そこそこ心に残るものが有れば、それを読んだ夏もそれとなく心に残る。
とはいえ、モームの新潮文庫版の背表紙だ。これが独特で面白い。
買ったことが無くても、あの背表紙だけは10年位前から気になっていた。
なぜモームだけがああなのか、全く解らない。
名前も何だか変で。サマセット・モームというカタカナ表記で良いかと思うが、
「サマセット」はサマー、サンセットなどを思わせ、どこか軽やかでありつつ、
「モーム」で息苦しい。名前全体を見るとマーモセット(小さい猿)を連想してしまう。
暑さで、全く意味の無い、変な発想ばかり出てきてしまうが、
この「人間の絆」、幾つかの手がかりに依れば
けっこう面白い本らしいので
・・・この夏で全4巻読みきれるだろうか。
日本料理における醤油の存在と同様、
トマトソースは応用範囲が広く、
失敗があまり無い。
トマトソースの作り方に決まりはないと思うが、
トマト水煮缶(ホールトマト)、
タマネギ、ニンニク、ピュア・オリーブオイル、そして塩、
これらを用意しておけば、まずは充分。
ホールトマトでなく、トマトそのままだって構わない。
鍋にピュアオイルを熱して、
タマネギとニンニクのみじん切りを炒める。
ぼくは、ここでいつも、とても幸せな気分になる。
とっても良い香り!
そこにトマト(水煮缶)を加え、塩で味を調える。
これでOK。
味に心配があるときは、市販のトマトソースってのが有る。
これは、既にタマネギ、ニンニク、バジルその他が煮込まれて味がついている。
迷ったなら、こういうのを参考にしながら、オリジナルを探ればいいってこと。
お気に入りのトマトソースが手に入ったなら、
状況に応じて、魚を「ひたひた」の蒸し煮にしてもいいし、
あらかじめ軽く焼いた魚を放り込むのも、またおいしい。
セロリやブロッコリーなどのみじん切りをさらにソースとして加えても良いと思うし、
別個に炒めた野菜を、出来上がり間際に放り込むのもまたまたOK。
セロリやブロッコリーは、そのまま姿として残しても良いし、
ソースの一部、ブイヨンとして煮込んでもおいしい。
バジル、オレガノ、魚ならタイムなどの香辛料も、適宜加えると、とっても良い感じ。
もちろんワインも大切だ。
魚は切り身であればそのままメインディッシュになるし、
角切りにして野菜や貝と和えれば、おいしいパスタソースになる。
最後に、きざんだパセリやエキストラバージンオイルを加えれば、
簡単に、いいパスタ、一皿できあがり。
これからの季節は、トマトとツナの冷やしパスタがおいしそう。