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構造表現主義」の再検討。

■シドニー、オペラ・ハウスの伝説。
'60年代のはじめ、デンマークの建築家ウッツォンによるシドニー・オペラハウスの計画案が示されたとき、その豊かな空間イメージに人々は酔いしれたという。「オペラ・ハウスは小さな岬に敷地が予定されていた。世界的なコンクールに入選したこの計画案は、なんといってもそのイメージの豊かさで他を圧していた。軽やかな海のシルエットは、シェルという現代的な構造によってのみ実現されたといえる」(原広司)(注1) 。
そう、この計画案はコンクリート・シェルを構造体とすることを前提としている。完全に三次元的な解析が必要となるこの構造の担当を名乗り出たのは、かのOve Arup&Partnersであり、彼らの忍耐強い科学的な挑戦のあと、このオペラハウスは1973年になってようやくその岬に姿を現す。
完成した建物のシェルはすべて半径75Mという同一の球面から切り出した球面三角形によって構成されており、500kg/cm2以上の高性能コンクリートの使用、高精度のリブ分節のエポキシ樹脂による接着工法、完全な無足場の建方技法など、コンクリート・ハイテックの極致とでもいうべき作品となった。

しかしながらそれは、実際上の構造的限界から、当初の計画案に比較すればいくぶんぎこちない形態にならざるを得なかったし、そしてなによりも、その建築が竣工した時点においてすでにその建築はアウト・オブ・デイトであった…、何故か?。

■「構造表現主義」の蜜月時代
TWAターミナルビル(1961)、ダレス空港ターミナル(1961)などを設計したイーロ・サーリネン、それに、構造設計家・坪井善勝という強力なバックアップを得た、丹下健三の黄金時代。
1950年代から60年代前半にかけてのそれらの建築群が確かに時代のメルクマールとして誰の記憶にも残っているのには、それなりに理由がありそうだ。
すなわち、当時にあってそれらの建築家たちはなにも「新しい構造形式」のみを闇雲に追い求めていたわけではなかった。構造そのものが自立的自動的に立ち現れることを期待していたのではなく、彼らの求めていたのは何よりもまず「空間」そのものであった。彼らはより自由な空間、大きな空間、美しい空間を求めていた。それはミースの提示したような均質な大空間に対しての倫理と美学に裏打ちされたものに他ならなかったわけであり、そこに時代の開発する新しい種類の構造系が無媒介的に符合していくという幸福な状況を彼らは体験しつつあったわけだ。その意味で、当時は「構造表現主義」の、あるいは空間とストラクチャーとの、甘い蜜月の時代であったということができるだろう。

■フォスターの場合
ところがある種の「構造表現主義」は現代にも生き残っているとされていて、ひとはフォスター、ロジャース、ピアノのことなどを思い起こす。そのうちフォスターについて、彼の代表的な作品といえば文句無しに香港上海銀行であり、重層する橋梁のような構造的構成はその後に東京にも移されたし(センチュリータワー)、竹中工務店による六甲アイランドのP&G本社ビルにも、援用された。
ところがフォスターの場合、彼の建築はそもそもそのように構造体を表現主体として用いるものではなかった。イプスウィッチに建った生命保険会社は総ガラス張りのスキンの透明性を見せ、ルノーの工場でも、あそこで主役だったのは繊細で軽快なテント張りであったはず。
それだけでなく、実は香港上海銀行に関してさえも、計画の段階のうち、あのように構造体が外部に露出してきたのは、かなり後の時点になってからであったらしい。
結局のところその建築は、'60年代に一般化していた「メガストラクチャーにエレメントをプラグ・インする」という解決法に一致し、その意味においてはこの建築もやはり完成した時点に於いてすでに「アウト・オブ・デイト」であった。

ピアノ/ロジャースのポンピドゥー・センターについても同様で、あのような "豪奢な" 構造系+設備系が石造の街並みの中に突然に露出したことのために、それなりの異化作用はあったし、社会的なインパクトも大きかった。しかしこれを建築的想像力の系譜としてみるならば、同じようにやはり'60年代に、アーキグラムなどの連中が空想していたものがようやく実現したという印象が強い。
実際、巨大なトラスと配管とが縦横に走るその格納庫のような空間に入るとき、「近代」を歴史的に相対化しつつある我々は当惑せざるを得ないし、格が高いと思われているポンピドゥーのキュレーターたちさえ、あのオフィスに入れられるのはいやだとぼやいている(らしい)。結局その改造プランが早い時期に検討され、固定のパーティションが一部に加えられることになった。

そのような具合であるから、「構造表現主義の蜜月時代」の作品群、例えばサーリネンの空港を見るとき、いま見るには、「大味」な感じを否めない。

■「構造表現主義」の可能性について
以上のようにかなりネガティブなスタンスで「構造表現主義」について見てきたのだけれども、それではそれは要らぬものなのか、破棄されるべきものなのかといえば、もちろんそんな筈はない。
それらに使われてきた構造系、またこれから開発されてゆく構造形式には、空間構成についての自由度を獲得するという重要な利点があり、さらには、それ自身においての美学が確かに存在するから。

ここで想起するのは、AAスクール系の建築家セドリック・プライスが弱冠27歳で完成させたところの「ロンドン動物園の大鳥篭」(1963)である。ここにある四つの四面体はすべて完全に宙に浮き上がっている。構造系に対する確かな想像力と、細部にまで至る丁寧なデザイニングがなければ出来えない作品である。
この作品が未だに魅力を持っているとすればやはり、これが「空間を内包するものとしての建築物」でないという点、すなわち先ほど述べた「近代建築の倫理/美学の示すところの空間観念」による呪縛を逃れている点にあるのだろう。
同様にやはり、上記の殆どの建築物を手がけてきたOve Arup & Partnersにしても、彼らの作品としてそんな美しさをいちばん端的に示しているのは、1934年にリージェント・パーク動物園に作られた、薄コンクリート板によるペンギンのためのスロープかも知れない。

建築に関する構造系や設備系におけるシステムについてラショナリズムの極を示し
たのはやはり、R.B.フラーだろう。それに対して例えばコルビュジェはそれらに対しては始終、曖昧な態度であったというべきである(注2)。現在、来世紀の建築を担うべき「新しいコルビュジェ」が生まれるべき時期だと僕は考えているが、それに伴って、これから建築を作ることに際しては、また新しい種類の「曖昧さ」が必要になってくるというべきだろう(注3) 。

…参考文献として
磯崎新+多木浩二『世紀末の思想と建築』、岩波書店、p.145-188。
SD編集部編『建築のハイテックスタイル』、鹿島出版会。


(注1) 『美術手帖』'61年10月号増刊「現代の建築入門」。

(注2) 例えば「白の時代」のコルビュジェは、「ドミノ・システム」的な明快な柱−スラブの構成のもとで「自由な平面」をつくっていたかに見えるのだが、その到達点であるサヴォワ邸においても、柱は実は全くグリッド上には置かれていない。

(注3) もちろん現在活躍している建築家はそのことに意識的であって、磯崎氏もその一人である。例えばバルセロナのスタジアムでは当初、カテナリー・アーチを基本構造体とする案が構想されていた。しかしそれはコルビュジェがソヴィエト・パレスの計画案に用いたようにあからさまに近代建築が獲得した近代的な言語であったから、その後捉え直して、いまあるような構成に収まった。

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最終更新日00/11/09