科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学者

【この文章は、N. Gregory Mankiwの"The Macroeconomist as Scientist and Engineer"を勝手に翻訳したものです。内容などおかしなところがあれば、こちらのコメント欄にてご指摘いただければ幸いです】


経済学者たちは自分たちが科学者であるかのような印象を与えることを好む。なぜ私がそれを知っているかというと、私自身しばしばそう振舞うからだ。学部生相手の講義では、私は意識的に経済学の分野を科学として説明するので、これからぐちゃぐちゃとした学問的な冒険に乗り出すのだ、と考えて受講を開始する学生はいないだろう。キャンパスの物理学部の同僚たちは、我々が彼らを近い親類と見なしていることを知ったら面白がるだろうが、しかし我々は聞く耳さえ持つ者に対しては誰にでも、経済学者というものは理論を数学的精確さで定式化し、膨大な個人や集団の行動のデータセットを収集し、そしてもっとも洗練された統計的なテクニックを駆使してバイアスやイデオロギーに影響されない経験的判断に達するのだ(もしくはそうなると考えることを好むのだ)、と即座に指摘するのだ。

アメリカ経済が不況から脱出しようともがいているときにワシントンで経済顧問として2年間を過ごした最近の経験は、マクロ経済学のある部分は科学としてではなくむしろある種のエンジニアリングとして誕生したのだ、ということを改めて思い起こさせてくれた。神は、エレガントな理論を提唱したり評価するためではなく、現実の問題を解決するためにマクロ経済学者をこの世に創り出したのだ。その上、神が我々に与えたもうた課題は規模的に控えめなものではなかった。我々のこの分野を生み出したその問題――1930年代の大恐慌――は、未曾有の規模の、所得の落ち込みと失業の蔓延を伴う経済的沈滞であり、誇張でもなんでもなく、資本主義システムの存続可能性に疑問が呈されたのだった。

この小論では、マクロ経済学の簡単な歴史を、我々がそこで学んだことの評価と共に提示する。私の前提は、この分野は2種類のタイプのマクロ経済学者――一方はこの分野を一種のエンジニアリングと理解し、もう一方はむしろ科学と理解している――の努力により発展してきた、というものだ。エンジニアというのは何よりもまず問題を解決する者だ。対照的に、科学者の目標はこの世界がどのように働くかを理解することにある。マクロ経済学者たちの研究の重点はこれらふたつの目的の間を揺れ動いてきた。初期のマクロ経済学者たちはエンジニアとして実際の問題を解決しようとし、その一方でこの数十年のマクロ経済学者たちは分析手法を開発したり理論的な法則を確立することにより関心があった。それらの分析手法や法則は、しかしながら、実際の問題に応用されるまでには時間を必要とした。マクロ経済学の分野が発展していく中で何度も持ち上がるテーマは、科学者とエンジニアの間の相互の―ときに生産的でありときにそうでない―交流だ。科学者とエンジニアの間の根本的な断絶は、この分野で研究している我々にとって屈辱的な事実といえるだろう。

無用な混乱を避けるため、まず私はここで誰が良くて誰が悪いという話をしようとしているわけではないことを断っておくべきだろう。科学者であれエンジニアであれ、どちらかがより多くの美徳を持つと主張できるわけではないのだ。またここでの話は、一方が深い思索者でありもう一方は単純素朴な配管工だというものでもない。一般的に、科学の教授たちは、エンジニアリングの教授たちが科学の問題を解く場合と同様、エンジニアリングの問題を解くのが得意ではない。そしてどちらの分野においても、最先端の問題は解決の難しい問題であり、また知的に挑戦し甲斐のある問題でもあるのだ。

ちょうど世界が科学者とエンジニアの両方を必要としているように、世界には両方の考え方をするマクロ経済学者が必要なのだ。けれども、マクロ経済学者たちが、この分野はふたつの役割を持っているのだということを常に念頭においていれば、この学問分野はより順調かつ実り豊かに発展するだろう、と私は信じている。


ケインズ革命



「マクロ経済学」という言葉が最初に学術的な文献に登場したのは1940年代のことだ。もちろん、マクロ経済学における話題―インフレーション、失業、経済成長、景気循環、そして金融・財政政策―は長い間経済学者たちをひきつけてきた。例えば18世紀には、デヴィッド・ヒュームDavid Hume, 1752)が短期と長期における貨幣注入(monetary injections)の効果について記述しているが、彼の分析は多くの点で、現代の金融論の経済学者やセントラルバンカーが言っていることと驚くほど同じように見える。また1927年には、アーサー・ピグーArthur Pigou, 1927)が「Industrial Fluctuations」(産業の変動について)という景気循環を説明することを目的とした本を出版している。しかしそれでもなお、独立した活発な探求領域としてのマクロ経済学の分野は、大恐慌が投げかけた影から生まれたものだ。これほど知的な関心を呼んだ危機は他にない。

大恐慌はその間に生きた者に深遠な影響を与えた。1933年には米国の失業率は25%に達し、実質GDPは1929年の31%低いレベルにあった。この津波に比べれば、その後のすべてのアメリカ経済の変動は平穏な海のさざ波のようなものだった。この時代の卓越した経済学者たち、例えばローレンス・クラインフランコ・モジリアニポール・サミュエルソンロバート・ソロージェイムス・トービンのような人々の自伝的エッセイでは、この恐慌が彼らの経歴の主要な動機となったことが確認できる(Breit and Hirsch, 2004)。

ジョン・メイナード・ケインズの「一般理論」は、こうした事態の進展をどのように理解するかに関しての専門的な議論の焦点となった。上に挙げた5名のノーベル賞受賞者のすべてが、直接的な経験によりそれを確認している。トービンは、彼が学生として1930年代後半から1940年代前半をすごしたハーバードでのこんな反応を伝えている。「年配の教員はたいてい反感を持っていた……若い教員や学生を教えている大学院生は、ケインズの本に熱狂していた」。よくあることだが、若者は年配の者に比べ、新しいアイデアの影響力についてより深い洞察力を持っていたのだ。ケインズマーシャルと共に、1930年代に最も経済学誌に引用された経済学者であり、1940年代にはヒックスに次いで2番目であった(Quandt, 1976)。この影響力は長期間に渡って持続した。ケインズの死後20年が経過した1966年から1986年の期間においてすら、彼の論文引用数ランキングは14番目であった(Garfield, 1990)。

ケインズ革命の影響は、経済学の研究においてだけでなく、その教授法にもおよんだ。サミュエルソンの古典的な教科書である「Economics」(経済学)の初版は1948年に出版され、その構成は、専門家は何を一般読者に伝えるべきか、という彼自身の認識を反映していた。今日我々が新入生に経済学を教える際の核心である需要と供給の話は、サミュエルソンの608ページあるこの教科書では447ページになるまで出てこなかった。財政乗数や貯蓄のパラドックスといった概念を含む、マクロ経済学の説明が最初にきていたのだった。サミュエルソンは次のように書いている(253ページ)。「この分析のほとんどは英国の経済学者であるジョン・メイナード・ケインズによっているとはいえ、……今日ではその広範な原理はすべての学派の経済学者に次第に受け入れられつつある」。

現代の経済学者が「一般理論」を読んだ場合、爽快さと同時にもどかしさも感じることになる。この本は、一方では、偉大な知性がその影響と非道さには疑問の余地のない社会的な問題に適用された研究である。しかしまた一方では、そこでの分析は広範囲に及ぶとはいえ、論理的になんとなく不完全に感じられる。あまりにも多くの話題が中途半端に置き去りにされているのだ。厳密にいうとどのような経済学的モデルがこれらの断片をひとつにまとめるのだろうか、という疑問を読者は抱き続けることになる。

ケインズが「一般理論」を出版した後すぐに、ある世代のマクロ経済学者たちは、ケインズの壮大な構想をよりシンプルで明確なモデルに転換することでこの疑問に答えるべく、研究を行った。そのなかでも最初にして最も影響力のあった試みは、当時33歳のジョン・ヒックスJohn Hicks, 1937)によって提案されたIS-LMモデルだった。その後、当時26歳のフランコ・モジリアニFranco Modigliani, 1944)は、このモデルを全体的に拡張し解説を行った。IS-LMモデルは、ケインズが提示した解釈として、広く使われている中級レベルのマクロ経済学の教科書に今日でも残っている。一部のケインジアンたちは、IS-LMモデルは「一般理論」でケインズによって提示された経済学的な構想を単純化しすぎている、と批判している。この批判はある程度当を得ているだろう。このモデルの本質は、そうでなければ理解することが難しい議論を単純化することにあったからだ。単純化することと単純化しすぎることの境界は、しばしば明確とは程遠いのだ。

ヒックスモジリアニのような理論家が、ケインジアンのモデルを教室の黒板にふさわしいように発展させていた間に、クラインのような計量経済学者たちは、データを解釈し政策の分析に使えるような、より応用よりのモデルの研究を行っていた。やがてこれらのモデルは、より現実的なものを、との願望とともに大規模なものとなり、最終的には数百もの変数と方程式を含むものとなった。そして1960年代までには、当時の傑出したケインジアンの功績に基いた多くの計量モデルが存在することになった。例えば、クラインによるウォートンモデル、オットー・エクスタイン(Otto Eckstein)によるDRI(Data Resource, Inc.)モデル、アルバート・アンドウ(Albert Ando)とモジリアニによるMPS(MIT-Penn-Social Science Research Council)モデルなどだ。これらのモデルは予測と政策分析に広く用いられた。またMPSモデルは長年に渡り連邦準備により整備され、現在でも連邦準備のスタッフにより整備されているFRB/USモデルの前身となった。

こうした様々なモデルは細部においては異なったものだったが、しかしそうした差異よりも特筆すべきはその共通点だった。これらのモデルはすべて、基本的にはケインジアン的な構造を持っていたのだ。それぞれのモデルの製作者の心の奥底には、今日でも学部生に教えられている同じシンプルなモデルがあった。つまり、IS曲線は金融情勢と財政政策をGDPの構成要素に関連付け、LM曲線は貨幣への需要と供給が均衡する価格である利子率を決定し、そしてある種のフィリップス曲線が経済が変化したときに価格水準がどのように時間とともに反応するかを表現するのだ。

科学として考えた場合、「一般理論」は並外れた成功をおさめた。「一般理論」が発端となった革命は、当時の最高の若い知性を惹きつけたのだ。彼らの驚異的な業績は短期的な経済変動を理解する新しい方法を提供した。サミュエルソンSamuelson, 1988)は、この出来事について次のように簡潔に要約している。「ケインズ革命は20世紀の経済学にとって最も重大な出来事だった」。この心情は彼の世代の多くの経済学者に共有されている。

しかしながら、ケインズ革命は科学上の発展としてのみ理解されるべきものではない。かなりの部分において、ケインズとケインジアンのモデル製作者たちはエンジニア的な考え方を持っていたのだ。彼らは現実の世界の問題に突き動かされ、ひとたび理論を構築した暁には、熱心にそれを実践に適用したのだ。ケインズ自身も、1941年に没するまで、政策的なアドバイスの提案に深く関与していた。そしてまた、アメリカの初期のケインジアンたちも同様だった。トービンソローエクスタインたちはすべて、1960年代には大統領経済諮問委員会で働くために、研究生活から離れて過ごした。最終的に1964年に通過したケネディの減税は、様々な意味において新興のケインジアン・コンセンサスとそれを具象化したモデルの直接の結果だったのだ。


新古典派



1960年代の後半には、ケインジアン・コンセンサスにヒビが生じ始めた。このヒビはやがて亀裂に成長し、最終的にはマクロ経済学のコンセンサスを粉々にして、主流の経済学モデルに対する信頼を台無しにするだろうと思われた。ここに来て、より古典的な経済観が再び姿を現したのだった。

新古典派経済学の最初の波はマネタリズムで、その最も著名な提唱者はミルトン・フリードマンだった。フリードマンFriedman, 1957)による恒常所得仮説に関する初期の研究は、直接に貨幣や景気循環に関するものではなかったが、しかし確実にビジネスサイクル理論に影響を与えるものだった。それは部分的には、ケインジアンの理論と政策処方の中心である財政乗数の基礎となる、ケインジアンの消費関数への攻撃となった。もしも変動所得の限界消費性向が、フリードマンの理論が示唆する通りに小さいのであれば、財政政策が均衡所得に与える影響は、多くのケインジアンが信じているよりも小さなものとなるのだ。

フリードマンシュワルツFriedman and Schwartz, 1963)の「Monetary History of the United States」(アメリカの金融史)ではより直接的に景気循環について論じており、そしてまた、この著作もケインジアン・コンセンサスを揺るがしたのだった。ほとんどのケインジアンは、経済とは投資家たちの絶え間なく変化する「アニマル・スピリット」に翻弄される本質的に不安定なものと見なしていた。フリードマンシュワルツは、経済の不安定さは個人的主体ではなく、むしろ不適切な金融政策に由来すると考えるべきだ、と示唆したのだ。その含意は、単純な政策ルールに従うことで誰も傷つけることがないのであれば、政策決定者はそれに満足するべきだ、というものだった。フリードマンの提案した通貨供給量の安定成長ルールは、今日ではわずかな支持者しかいないものの、しかしこれは現在世界各国の多くの中央銀行で採用されているインフレーション・ターゲット政策の初期の前身であった。

フリードマンの1968年におけるアメリカ経済学会での会長演説(Friedman, 1968)は、フェルプスPhelps, 1968)と共に、ケインジアンのモデルの最も弱い点、つまりフィリップス曲線におけるインフレーションと失業の間のトレードオフに狙いを定めたものだった。少なくともサミュエルソンソローSamuelson and Solow, 1960)以降、ある種のフィリップス曲線は、ケインズ自身が導入したものではなかったとは言え、ケインジアン・コンセンサスの一部となっていた。サミュエルソンソローはこのトレードオフは理論的根拠が薄弱であることを理解しており、彼らの論文はなぜ短期と長期ではトレードオフが異なり得るかに関する警告でいっぱいだった。しかし後に続く論文ではあまりにも安易にこうした警告のすべてが忘れられてしまったのだ。フィリップス曲線は、なぜ価格が市場を均衡させることに失敗し、また価格水準が最終的にどのように調整されるのか、を説明することに常に問題を抱えていたケインジアンのモデルを補完する便利な方法を提供したのだった。

フリードマンは、インフレーションと失業の間のトレードオフは、もしも古典派の原理が適用され、かつ貨幣が中立であるならば、長期では成り立たないと主張した。なぜトレードオフがデータに現れるかというと、短期ではインフレーションはしばしば予期されておらず、また予期されないインフレーションは失業を低下させ得るからだ。ここでフリードマンが示唆したこの特定のメカニズムは、一部の労働者による貨幣錯覚だった。しかしマクロ経済学の発展にとってより重要だったのは、フリードマンが期待を舞台の中央に配置したことだ。

これによって新古典派経済学の第2の波の準備が整った――合理的期待革命だ。一連の非常に影響力の大きな論文の中で、ロバート・ルーカスフリードマンの議論を拡張した。彼は「Economic Policy Evaluatoin: A Critique」(Lucas, 1976)の中で、主流派ケインジアンのモデルは期待を正面から取り扱うことに失敗しているために政策分析には役に立たないと論じた。そのため、それらのモデルを構成している推定による経験的な関係は、もしも代替的な政策が実施された場合、崩壊することになる。ルーカスLucas, 1973)はまた、不完全情報、合理的期待、および市場均衡の仮定に基いたビジネスサイクル理論を提唱した。この理論においては、金融政策は人々を驚かせ相対価格に関して混乱を生じるという点においてのみ重要となるのだ。バローBarro, 1977)は、このモデルがアメリカの時系列データと整合的である証拠を提示した。またサージェントウォーレスSargent and Wallace, 1975)は、政策にとって重要な含意を指摘した。合理的な人々を体系的に驚かすことは不可能だから、経済の安定を目的としたシステマティックな金融政策は失敗する運命にある、と。

新古典派経済学の第3の波は、キドランドとプレスコットKydland and Prescott, 1982)、およびロングとプロッサー(Long and Plosser, 1983)によるリアルビジネスサイクル理論だった。フリードマンルーカスの理論と同様、これらの理論もまた価格は市場が均衡するよう即座に調整されるとの仮定――ケインジアンの理論との根本的に異なる――に立脚していた。しかし新古典派の先輩たちとは異なり、リアルビジネスサイクル理論では、予期されていないかどうかに関わらず、経済変動の説明からはいかなる金融政策の役割も除外されていた。強調点は技術進歩に対するランダムなショックと、そのショックにより引き起こされる消費と余暇の異時点間の代替に移っていたのだった。

こうした新古典派経済学の3つの波の結果として、マクロ経済学の分野は次第に厳密に、そして次第にミクロ経済学のツールに結び付けられるようになった。リアルビジネスサイクルのモデルは、アロードブリューの一般均衡理論の限定された動学的な実例だった。実際にこの点は彼らのウリのひとつだったのだ。やがてこの研究の支持者たちは、景気循環は貨幣的な力ではなく実物的な力により生じている、という想定から後退し、この研究の方法論的な貢献を強調し始めるようになった。今日では、新古典派の伝統から来たマクロ経済学者たちの多くは、ケインジアンの価格硬直性の仮定について、その仮定が適度に厳密な、経済主体が合理的かつフォワード・ルッキングであるモデルに組み込まれている限り、喜んで敗北を認めている。こうした強調点の変化のために、専門用語が発達して、現在ではこの分野の研究はしばしば「動学的確率的一般均衡理論(dynamic stochastic general equilibrium)」理論という名前で呼ばれている。しかしどうやら話を先に進めすぎたようだ。

新古典派の3つの波が最初に海岸に打ち寄せてきた1970年から1980年当時、彼らの目標のひとつは、古いケインジアンのマクロ経済学的モデルを科学とエンジニアリングの両面から批判することだった。彼らの論文である「After Keynesian Macroeconomics」(ケインジアン経済学の終了後)において、サージェントルーカスSargent and Lucas, 1979)は次のように書いている。「政策にとって重要な事実は、ケインズ政策の提言には、非ケインズ政策の提言と比較しても科学的によりしっかりした基礎があるわけではないということで、ついでに言えば、非経済学的な提言と比較しても同様だ」。サージェントルーカスは、ケインジアンのエンジニアリングは欠陥のある科学に依拠していると考えていたのだが、しかしまた(1979年頃の)新古典派には、まだワシントンへ持って行けるようなモデルの準備ができていないことも知っていた。「現在存在している最も優れた均衡モデルは、より優れた、願わくば政策の形成に実際に使用できることが証明できる、将来のモデルのプロトタイプであると我々は考えている」。彼らはまた大胆にも、そうしたモデルは「もし幸運であれば10年以内に」利用可能となるだろう、と予想している。彼らの望んだ通りに予想が成就したかどうかについては、後にまたふれることにしよう。

上に挙げたいくつかの引用が示唆する通り、新古典派を推進していた人々は、彼らの意図において遠慮がなく、また達成したことにおいて謙虚でもなかった。ルーカスは、より一層無遠慮な評価を1980年の「The Death of Keynesian Economics」(ケインジアン経済学の死)という論文で行っている。「40歳以下の、自身や自分の研究を「ケインジアン」と認識している経済学者には良い点を見つけることはできない。実際、人々はもし「ケインジアン」と呼ばれたらむしろ気分を害する。研究会議ではもはや誰もケインジアンの空理空論を真剣に受け取らず、聴衆はひそひそくすくすし始めるのだ」。けれども、ルーカスが幸せな気分でケインズ経済学への追悼文を書いていたちょうどそのとき、経済学界はまさに「新ケインズ派」世代を喜んで迎え入れようとしていたところだったのだ。


新ケインズ派(The New Keynesians)



ケインジアンの方法論を景気循環に適用していた経済学者は、長い間ミクロ的基礎付けの問題に打ち負かされ続けていた。実際のところ、「マクロ経済学」という用語を使ったもっとも初期のもののうちのひとつであるクラインの1946年の論文(Klein, 1946)は次のように始まっている。「新しく開発された経済システムに関する数学的モデルの多く、特に景気循環理論に関するものは、すべての経済学的な行動の理論の基礎を形成すべき個々の家計や企業の行動に、かなり漠然としか関連付けられていない」。すべての現代の経済学者は、ある程度までは古典派といえる。我々は皆、生徒たちに、最適化、均衡、市場の効率性について教えているのだ。この2つの経済についての考え方――一方はアダム・スミスの見えざる手とアルフレッド・マーシャルの需要供給曲線に基き、もう一方はケインズの不十分な総需要に苦しむ経済の分析に基いている――をどのように調和させるかは、マクロ経済学が個別の分野として始まって以来の、途絶えることのない深刻な課題だった。

サミュエルソンモジリアニトービンといった初期のケインジアンたちは、ときに「新古典派-ケインジアン総合」(neoclassical-Keynesian synthesis)と呼ばれるもので、これらの考え方を調和させることができたと考えていた。こうした経済学者たちは、スミスマーシャルの古典派の理論は長期では正しいが、ケインズが描写したような短期では見えざる手は無力となり得る、と信じていたのだ。いくつかの価格――特に労働力の価格――の調整は緩慢に時間をかけて行われるため、期間が問題となった。初期のケインジアンたちは、古典派のモデルは経済が徐々に発展していった結果としての均衡を記述しているが、ケインジアンのモデルは価格を所与とした場合の任意時点の経済のより良い説明を提供していると信じていたのだ。

新古典派-ケインジアン総合は首尾一貫としていたが、しかしまた漠然としており不完全でもあった。そうした欠陥に対して、新古典派の経済学者たちが総合を棄却して一から新たに始めようと対応していた頃、新ケインズ派の経済学者たちは、そこにはまだ保存しておくものがあると考えていた。彼らの目的は、ミクロ経済学の道具を使って、初期のケインジアンたちによって達成された不安定な妥協案に、より一層の精確さを与えることだった。言ってみれば、新古典派-ケインジアン総合は1940年代に建てられた家のようなものだ。新古典派はその時代遅れのシステムを見て取り壊すしかないと結論し、一方で新ケインズ派は古き良き職人技を賞賛して大規模修繕の良い機会ととらえたのだ。

正しくも「新ケインズ派」と名付けられた研究の最初の波は、一般不均衡(general disequilibrium)に関するものだった(Barro and Grossman, 1971; Malinvaud, 1977)。これらの理論は、一般均衡分析の道具を使って、市場が均衡しない場合の資源配分の結果を理解することを目的としていた。賃金と価格は所与とされていた。ある市場で均衡が達成しなかった場合、関連した市場の需要と供給にどのように影響があるか、が焦点だったのだ。これらの理論によると、どの市場の供給が過剰になり、どの市場の需要が過剰となるかによって、経済はいくつかの形態に分類できるという。もっとも興味深い形態――我々が不況期に観察することに最も良く一致するという意味での――は、財市場と労働市場が共に供給過剰となる、いわゆる「ケインジアン」形態だ。このケインジアンの形態では、そのときの賃金水準における雇用への需要が完全雇用を実現するにはあまりにも少ないために、失業が生じる。雇用への需要がなぜ少ないのかというと、時価水準で企業が望むだけの商品を売ることができないためためだ。そして、企業の商品への需要が不十分なのは、多くの顧客が失業しているからだ。景気の後退や恐慌は不十分な需要の悪循環の結果であり、そして需要への刺激は乗数効果を発揮し得るのだ。

新ケインズ派の第二の波の研究は、市場均衡を前提としないモデルにおいて合理的期待の概念をどのように利用し得るか、について明らかにすることを目的としていた。ある面では、この研究は合理的期待にも関わらずシステマティックな金融政策がどのように経済を安定化させ得るかを示すことで(フィッシャーFisher, 1977)、サージェントウォーレスの金融政策は無効であるとの結論に応答するものだった。またある面では、この研究は経験的に妥当なインフレーションの動学を見つけようという願望に動機付けられていた(テイラー、Taylor, 1980)。この研究のアキレス腱は、経験的には正当化され得るとは言え、ミクロ経済学の原理とはとても一致し難い労働契約形態を仮定していたことだった。

非常に多くのケインジアンの伝統が、賃金と価格が市場で均衡することに失敗するという仮定に依拠していたため、新ケインズ派の第三の波の研究は、なぜそれが起こるのかを説明することを目的としていた。様々な仮説が検証された。それらは、企業は価格を変更する際に「メニューコスト」に直面しているのだ、というものであったり、企業は労働者の生産性を向上させるために均衡レベルよりも高い「効率的賃金」を支払っているのだ、というものであったり、また賃金と価格を設定している人々は完璧な合理性から逸脱しているのだ、というものであったりした。マンキュー(Mankiew, 1985)とアカロフとイェレン(Akerlof and Yellen, 1985)は、企業が市場支配力を持つ場合には価格の調整に関して個人と社会の費用便益予測が大きく乖離するため、社会的には犠牲が大きい場合であっても、硬直価格における均衡は個人にとっては合理的(もしくはほとんど合理的)となり得ることを明らかにした。ブランシャールと清滝(Blanchard and Kiyotaki, 1987)は、この個人と社会のインセンティブの乖離の一部は総需要の外部性の結果であることを示した。つまり、ある企業が価格を下げた場合には実質貨幣残高が増加するので、ひいてはすべての企業の製品への需要も増加することになるのだ。ボールとローマー(Ball and Romer, 1990)は、実質価格と名目価格の硬直性には非常に強い相補性があるため、相対価格の変化を避けようとするいかなる誘因も、名目価格変化の遅延を悪化させるだろうことを立証した。

振り返ってみると、こうした様々な新ケインズ派の貢献は、当時思われたよりも、また実際に貢献した人々が考えていたよりも、ずっと相互に関連していて相補的なものだった。例えば、初期の一般不均衡に関する研究を袋小路だと見なすことには心を惹かれるものがある――所与の価格を仮定することで自ら消滅の種を蒔いた研究プログラムだ。そして実際、今日ではこの研究は文献リストではめったにお目にかからない。けれどもまた、価格が供給と需要を均衡させるよう即座に動くことがない場合に経済はどのように働くのか、についての関連した研究には、進展を見ることができるのだ。

例えば、新ケインズ派経済学の第一と第三の波の間には、興味深い、しかしほとんど注目されることのない関連がある。具体的には、第三の波を、第一の波で強調されたケインジアン形態の重要性を立証したものと見なし得る、ということだ。企業が市場支配力を持つ場合には、価格を限界費用よりも高く設定するために、企業は常に時価でより多くを売ろうと望むことになる。つまり、もしすべての企業がある程度の市場支配力を持つ場合、財市場は通常は過剰供給の状態にあることになるのだ。この財市場の理論は、効率賃金モデルのような均衡を上回る賃金を伴う労働市場の理論としばしば組み合わせられる。この場合、「ケインジアン」形態の一般的な供給過剰はただのひとつの可能性ではなく、経済における典型的な状態となるのだ。

私の判断では、結局のところこれらの三つの新ケインズ派の研究の波は、短期におけるマクロ経済的な事象での見えざる手の働きの失敗に、首尾一貫したミクロ的な理論を付け加えたことになる。我々は、価格に硬直性がある場合にどのように複数の市場が相互に作用しあうか、期待がどのような役割を果たし得るか、そして価格設定者が価格を変化させるかどうかを選択する際に直面するインセンティブについて理解している。科学としてみた場合、この研究は大きな成功をおさめた(とはいえ、この研究の参加者として、私は完全に客観的であると主張することはできないが)。この研究は革命的ではなかったが、そうあろうともしていなかった。むしろ反革命的だったといえる。その目的が、新古典派の猛攻撃から新古典派-ケインジアン総合のエッセンスを防衛することにあったのだから。

この研究はエンジニアリングとしても成功したといえるだろうか?それは政策立案者に、景気循環により上手く対処する手段を提供しただろうか?この判断はあまり肯定的なものにならないに違いない――これについてはすぐ後にまたふれよう。

しかし特筆すべきは、気質として、新古典派の伝統の中で研究している経済学者よりも、新ケインズ派はマクロ経済学のエンジニアになりたがっていたことだった。新古典派一派の先導者たちの中で、学究的世界を離れ国政の重要な職に就いた者は、(私の知る限り)一人もいない。対照的に、新ケインズ派のムーブメントは、これに先立つ世代のケインジアンたちと同様、象牙の塔を出て数年を国家の首都で過ごした人々でいっぱいだ。そうした例として、スタンリー・フィッシャー、ラリー・サマーズ、ジョセフ・スティグリッツ、ジャネット・イェレン、ジョン・テイラー、リチャード・クラリダ、ベン・バーナンキ、そして私が挙げられる。最初の四人はクリントン時代にワシントンへ行き、後の四人はブッシュ時代だ。新古典派と新ケインズ派を分け隔てるものは、基本的には、政治的な右派・左派ではない。それはかなりの程度まで、純粋な科学者と経済学的エンジニアの違いによるものなのだ。


余談と辛辣な批評



長期の経済成長に関する理論と経験的知見を扱うことはこの小論の範囲を超えるが、しかしこれらのテーマが1990年代を通じてマクロ経済学者の興味を大いに惹きつけたことを指摘しておくことは有益だろう。これらのテーマに関する研究は、その半世紀前の誕生以来ずっとマクロ経済学の分野で支配的だった、短期の経済変動から関心を奪ったのだった。

成長が研究の主要な分野へと台頭した理由はいくつかある。第一に、ポール・ローマー(Paul Romer, 1986)他による影響力の大きい一連の論文が、間違いなく経済学における最も切実な話題のひとつである、富める国と貧しい国の間の大きな隔たりを分析するための新しいアイデアと道具立て一式を提供したこと。第二に、国際比較データが入手可能になったため、代替的な理論の有効性を系統的に調査することが可能となったこと(Summers and Heston, 1991)。三点目としては、1990年代のアメリカ経済が歴史上最も長期におよぶ好景気を経験していたことが挙げられる。初期のケインジアンたちが、国の健康状態に直接的に関連するためにこの分野に惹き付けられたのと同様に、1990年代の経済状況は、この時代の経済学徒にもはや景気循環は実際的に重要でないことを示唆したのだった。

そしてまた第四の、1990年代の新進のマクロ経済学者たちが短期の経済変動ではなく長期の成長に惹き付けられた、より厄介な理由もあった。新古典派と新ケインズ派の世界観における緊張関係だ。新古典派の先導的な経済学者であるルーカスが「人々はもはやケインジアンの空理空論を真剣に受け取っていない」と宣言する一方で、先導的なケインジアンたちもまた同様に新古典派の同僚を見下していたのだった。1980年におけるアメリカ経済学会での会長演説において、ソローSolow, 1980)は、新古典派の経済学者たちが賃金と価格の硬直性の想定や市場が均衡しない可能性を排除していることを、「馬鹿げているほど限定的」と呼んだ。彼はこう言ったのだ。「私は以前、キリンが十分な量の血液をどのように頭部まで運び上げているのかについてはまだ解明されていないと読んだことがある。しかし、それ故にキリンは長い首を持っていないのだ、と結論付ける人々がいるだろうことはまったく想像もできない」。

その数年後のアルホ・クレイマーとのインタビュー(Arjo Klamer, 1984)において、ルーカスは次のように回想している。「私は、特にソローに関しては、ジョークを言う以外にこの問題について真剣に取り組もうとしていたとは思えない」。同じ本のクレイマーによる別のインタビューでは、ソローが新古典派の経済学者たちとやり合うことの憂鬱さについてこう説明している。「君が今座っている場所に別の誰かが座ってきて、そいつが自分はナポレオン・ボナパルトだと僕に言ったところを想像してごらんよ。そいつに関して僕が最も避けたいことは、アウステルリッツの戦いにおける騎兵隊の戦術についての技術的な議論に巻き込まれることだ。もしそうしたならば、僕は彼がナポレオン・ボナパルトだというゲームに暗黙のうちに巻き込まれたことになるんだよ」。

ある意味では、この論争は、この分野の目標に関する、主唱者たちの異なるものの見方を反映している。ルーカスは、新古典派経済学が提供し得る分析的厳密さをソローが正当に評価していないことを非難しているように見える。ソローは、専売特許である市場均衡の想定が現実性に欠けることをルーカスが正しく認識していないことを非難しているように見える。どちらの言い分ももっともだ。科学的な見地からは、新古典派が提供したより一層の厳密さにはとても魅力がある。しかしエンジニアリングの見地からは、その追加された厳密さに要するコストは負担するには重すぎるように思えるのだ。

私がこの議論の本質にこだわるのは、これがただ科学者とエンジニアの間の緊張関係を反映しているからだけでなく、次世代の経済学者の選択をも説明しているからだ。知の巨人たちの間におけるあれほどの辛辣な批評は注目を集めてしまう(ちょうどバーで常連たちが殴り合いの喧嘩を取り囲み、当事者たちをけしかけるのと同様に)。しかしこれはマクロ経済学の分野にとって健全なことではないのだ。驚くべきことではないが、多くの若い経済学者たちは彼らの興味の対象を経済的な変動から別のテーマに移すことによって、この論争のどちらかに肩入れすることを避けたのだった。


新しい総合、それとも停戦協定?



古い格言曰く、科学は葬式により進歩する。今日では平均寿命が伸びたおかげで、こう言い換えた方が(精彩には欠けるが)より正確だろう。科学は引退により進歩する、と。マクロ経済学においては、古い世代の主唱者たちが引退したり引退に近づいたので、より礼儀正しい文化を身に着けた若い世代のマクロ経済学者と入れ替わったのだった。同時に、経済変動を理解する最良の方法についての新しいコンセンサスが浮上した。マービン・グッドフレンドとロバート・キング(Marvin Goodfriend and Robert King, 1997)は、このコンセンサスの考え方を「新・新古典派総合」(the new neo classical systhesis)と呼んだ。この総合モデルは、金融政策に関する研究で幅広く適用されてきた(Clarida, Gali, and Gertler, 1999; McCallum and Nelson, 1999)。この新しい総合の最も広範囲におよぶ扱いは、マイケル・ウッドフォード(Michael Woodford, 2003)による記念碑的な(そしてむやみに長い)大冊だ【訳注:「大冊」としたtreatiseには「専門書」と「長ったらしい退屈な説明」の2つの意味があり、Mankiewはわざわざin both senses of the wordと断りを入れている】。

以前の世代の新古典派-ケインジアン総合(neoclassical-Keynesian synthesis)と同様、この新しい総合も、これに先行した競合するアプローチの強みを融合することを試みている。新古典派のモデルからは、動学的確率的一般均衡理論(dynamic stochastic general equilibrium theory)の道具立てを持ち込んだ。選好、制約、そして最適化が出発点であり、分析はこれらのミクロ経済学的基礎の上に築き上げられるのだ。新ケインズ派からは名目硬直性を持ち込み、それを使ってなぜ金融政策が短期では実際に効果があるのかを説明する。最も一般的なアプローチは、価格を断続的にしか変更できない独占的競争企業を仮定することで、新ケインジアン・フィリップス曲線と呼ばれることもある価格の動きが得られる。この総合のかなめは、経済とは価格硬直性(とたぶんその他の様々な市場の不完全性)のためにパレート最適から逸脱した動学的一般均衡システムである、とする見方なのだ。

このコンセンサスの出現を大いなる前進と表現することには心惹かれるものがある。いくつかの点ではまさにその通りなのだ。しかし現在の状況については、それほど楽観的でない見方もある。恐らく、何が起こったのかというと、それは実際には総合ではなく、むしろ双方の面子を保つための撤退に続いた、知的戦闘員たちの間の停戦協定だったのだ。新古典派と新ケインズ派のどちらもが、この新しい総合を見て、表面下に横たわるより深刻な敗北を無視しつつも、ある程度の勝利を主張できるのだ。

この新しい総合のかなめ――名目硬直性を伴った動学的一般均衡システム――は、まさに初期のケインジアンのモデルに見出せるものだ。例えば、ヒックスはIS-LMモデルを提案し、ケインズのアイデアを一般均衡の設定でまとめることを意図していた(ヒックスは1972年のノーベル賞を、ケネス・アローと共に一般均衡理論に関する貢献で受賞したことを思い出そう)。クラインモジリアニ、その他のモデル製作者たちは、より良い政策立案のためにこうした一般均衡システムをデータに適用することを試みていた。新しい総合はかなりの程度まで、1970年代の新古典派の強い要請により放棄された研究計画を拾い上げたのだ。

今になって思い返せば、新古典派の経済学者たちは彼らが提供できた以上のことを約束していたことは明らかだ。彼らが定めた目的は、ケインジアンの空論を廃棄して、納得のいくようデータに適用でき政策分析に使用可能な、市場均衡モデルと入れ替えることだった。この基準に照らせば、新古典派のムーブメントは失敗だった。むしろ彼らは、多くの面で新古典派が反対運動を行っていたモデルにそっくりな硬直的な価格を仮定する他の世代のモデルを作り上げるのに現在使われている、分析の道具立ての開発を手助けしたのだった。

ここで、新ケインズ派はある程度の弁明を申し立てることが可能だ。新しい総合は、ソローが「馬鹿げているほど限定的」と呼び、新ケインズ派の硬直的な価格に関する研究が弱体化を狙った、市場均衡の仮定を放棄している。とはいえ、新ケインズ派にしても、新古典派の誘惑に魅了され、結果としてあまりに抽象的で実践的には不十分だった研究計画を追求した点で非難され得るのだ。ポール・クルーグマンPaul Krugman, 2000)は新ケインズ派の研究計画について、次のように評価を下している。「現在では、価格の硬直性がどのように起き得るかを説明することは可能だ。しかしながら、それがいつ起きていつ起きないのかといった予測や、またメニューコストから現実的なフィリップス曲線を構築するモデルに関しては、どうみてもいずれ明らかになるようには思えない」。一連の研究に関わった私でさえ、この評価にはいくらかの真実があると認めざるを得ない。


中央銀行からの視点



もしも神が現実の問題を解決するためにマクロ経済学者を創り出したのならば、聖ペテロが最終的に我々の経済学的エンジニアリングへの貢献について審査することになるだろう【訳注:聖ペテロは天国の門を守るとされている。「聖ペテロ 審査」で検索すると吉】。それでは問おう。過去数十年間の景気循環理論の進展は、経済政策の策定をより良いものにしただろうか?もしくはより謙虚な目標設定として、マクロ経済学の科学の進歩は、政策プロセスにかかわっている専門的なエコノミストによる経済政策の分析と議論をどの程度変化させただろうか?

こうした質問への答えを見つける場所のひとつに、ローレンス・メイヤー(Laurence Meyer)による魅力的な回顧録である「A Term at the Fed」が挙げられる。メイヤーは1996年にワシントン大学の経済学教授の職を離れ、卓越した経済コンサルタントとして連邦準備(Fed)の理事を6年間勤めた。彼の著作は、金融政策策定の上層部にいるエコノミストが、彼らの任務と経済分析の取り組みをどのように考えているのかを垣間見せてくれるのだ。

この本は読者に明確な印象をもたらす。近年の、新古典派または新ケインズ派のどちらによる景気循環理論の発展も、ほとんどゼロに近い影響しか実際の政策策定に与えていない、というものだ。メイヤーの経済変動と金融政策に関する分析は、理にかないまた繊細であるのだが、しかし現代マクロ経済学の理論の痕跡は見られない。それは1970年のあたりに主流であった新古典派-ケインジアン総合を学んだ者にとってはほとんど完全にお馴染みのものであり、そして当時以降の学術的な文献は無視され続けたのだった。メイヤーの世界観は、もしこれが彼特有のものであれば、時代遅れのものとして容易に却下することができるだろうが、しかしそうでもないのだ。こうした世界観は、世界の中央銀行の最高の地位にいるエコノミストに典型的に見られるものなのだ。

研究者の間では、ルール対裁量に関する文献、特にキドランドとプレスコットKydland and Prescott, 1977)によって始められた時間的整合性に関する研究に、中央銀行は強く影響されていると信じることが流行している。二つの制度上の変更がこれらの学術的な貢献として関連付けられている。それはニュージーランドに見られるような中央銀行の独立性の強化であり、また世界中の多くの中央銀行によるインフレーションターゲットの政策レジームとしての採用だ。これらの制度上の変更は、同様に、金融政策の改善に関連付けられている。この論法によれば、過去20年間に多くの国が享受した低く安定したインフレーションについて、キドランドとプレスコットに感謝しなければならないことになる。

しかし、この自画自賛の考え方は二つの問題を生じてしまう。第一に、我々が観察したこれらの制度上の変更は、せいぜい漠然としか理論的文献に関係していないのだ。独立した中央銀行は、ルールに縛られた中央銀行と同じものではない。アメリカの連邦準備は以前から、政策ルールに自らを縛ることなく、高度な独立性を保ってきた。インフレーションターゲティングですら、政策ルールへの公約というよりは、決意の表明、および民間とのコミュニケーションの手段に近い。ベン・バーナンキ(Ben Bernanke, 2003)はこれを「制約付き裁量」と呼んでいる。

第二の、より重要な問題として、これらの制度上の変更は、我々が目撃した金融政策の改善と必ずしも関係していないことがある。ローレンス・ボールとナイアム・シェリダン(Laurence Ball and Niamh Sheridan, 2005)は多くの国の事例に注目し、インフレーションターゲティングの採用は、近年の低く安定したインフレーションへの動きを説明する助けにはならないことを示した。金融政策は、インフレーションターゲットを採用した国もそうでない国も改善しているのだった。この世界的なインフレーションの結果の改善は、世界の経済が1970年代に経験したような負の供給ショックを経験しなかったためかもしれず、また高いインフレーションは根気強く避けるべきであるという1970年代の経験にセントラルバンカーたちが学んだためかもしれない。しかし事実はインフレーションターゲティングは良い金融政策の必要条件ではないことを示しているのだ。

グリーンスパン時代の連邦準備がこの点で実例となる。アラン・ブラインダーとリカード・レイス(Alan Blinder and Ricardo Reis, 2005【訳注:Referenceに該当論文なし】)によれば、アラン・グリーンスパンは「史上最も偉大なセントラルバンカー」の正当な資格を持つという。実際のところ、大方の推測では、金融政策は彼の指揮の下で著しく成功したのだった。しかし彼の連邦準備時代を通じて、グリーンスパンはコミットメントよりも柔軟性に価値を置き、政策ルールについてのいかなる公表も避けた。この選択に関するグリーンスパンによる弁明は次のようなものだ。「一部の人々は政策へのこのようなアプローチはあまりに規律がないと批判する――恣意的で見たところ裁量的であり、説明が困難であると。彼らによれば、連邦準備は、形式的な政策ルールの規定を設けることにより、その運用をより形式的なものとするよう試みるべきであるという。こうした方針によるいかなるアプローチも経済実績の向上を導くだろうというのだが、しかしながら、これは非常に疑わしい……。ルールとは、本来的に単純なものであり、経済環境に重大で変化の激しい不確実性が存在する場合には、政策策定にはるかに適している危機管理的な対応策を代替し得るものではない」。しかし、政策ルールへのグリーンスパンの反感にも関わらず、彼の連邦準備議長在職中はずっとインフレーションは低く安定していた。キドランドとプレスコットとは正反対に、グリーンスパンは、中央銀行が多大な裁量的権限を行使しながら望ましい成果を挙げることが可能であることを証明したのだった。


財政政策からの視点



マクロ経済理論の実際の影響を見ることができる他の場所として、財政政策の分析がある。ブッシュ政権による2001年と2003年の減税は、景気後退に対する近年の主な財政刺激の試みであったこと、また2年間大統領経済諮問委員会の議長であったために私自身この政策の基礎となった経済学的分析の多くに精通していることから、良いケーススタディになる。実際のところ、ブッシュ政権の税政策の構想には様々な動機が存在した。例えば、児童控除の拡大は、経済学よりも政治と社会哲学に根ざしたものだった。しかし大統領経済諮問委員会と財務省のエコノミストたちはこの政策の策定に多大な貢献を行ったので、彼らがこの分析に用いたツールについて考察することには意味があるだろう。

ブッシュ政権の税政策の経済学的分析は、一方の目で長期的な成長を見つつ、もう一方の目で短期的な景気循環を見ながら行われた。長期的な観点は財政学の学生にはおなじみのものだろう。最も注目に値するのは、2003年にブッシュが企業資本からの所得への二重課税の廃止を提案したことだ。議会を通過した最終的な法案はこの目的をすべて達成してはいなかったが、配当課税の大幅な削減は、より大幅な課税の中立性の方向へと向かい、配当に対する内部留保のバイアス、エクイティファイナンスに対する負債のバイアス、企業資本に対する非企業資本のバイアスを縮小したのだった。またこれは、所得でなく消費に課税する方向へと税法を一層動かした。この後者の目的は財政学の一流の文献(例えば、Diamond and Mirrlees, 1971; Atkinson and Stiglitz, 1976; Feldstein, 1978; Chamley, 1986)と整合的だし、経済学的な理論として特に目新しいものでもない。アトキンソンとスティグリッツは30年前に、当時でさえ「所得ではなく消費への課税を支持する慣習的な仮定」が存在することに言及しているのだった。

しかしながら、この小論により関連するのは、税政策の短期的な分析だ。2001年にジョージ・W・ブッシュ大統領が政権に就いたとき、経済は1990年代後半の株式市場バブルの崩壊を経て景気後退に向かっているところだった。減税のひとつの目的は景気回復と雇用を刺激することだった。ブッシュ大統領が2003年の雇用と成長のための減税調整法(Jobs and Growth Tax Relief Reconciliation Act of 2003)にサインしたとき、彼はこの政策を次のように説明した。「もし人々がより多くのお金を手に入れれば、彼らはそれをモノとサービスに使うことができる。我々の社会では、もし彼らが追加でモノやサービスを望んだ場合には、誰かがそのモノやサービスを生産する。そして誰かがそのモノやサービスを生産すれば、これは誰かがより職を見つけやすくなることを意味するのだ」。この論理はまさにケインジアンの真髄だ。

大統領経済諮問委員会はこの減税がどのくらい雇用に影響するのかと尋ねられた。我々はこの質問に対し、主流のマクロ経済学的なモデルを用いて答えた。私がそこにいたときに使っていたモデルは、ローレンス・メイヤーが連邦準備理事になる前に創設して経営していたコンサルティングファームの、マクロエコノミック・アドバイザーズ社が整備しているものだった。このモデルは私が委員長として就任する以前から長らく大統領経済諮問委員会のスタッフにより使われてきたもので、実のところ、ほぼ20年間、共和党と民主党のどちらの政権のときでも使われていたものだった。しかしながら、特定のモデルの選択は決定的な問題ではない。というのも、マクロエコノミック・アドバイザーズ社のモデルは、他の大規模なマクロ計量モデル、例えば連邦準備により整備されているFRB/USモデルと同じようなものであるからだ。知的な歴史の観点からすれば、これらのモデルは、クラインモジリアニエクスタインによる初期のモデル化の努力の直接の系図に属する。新古典派や新ケインズ派による研究は、これらのモデルの構築に関して、最小限の影響しか与えていないのだった。

こうしたマクロ経済の政策策定の現実は、我々のような、キャリアのほとんどを学問的世界で過ごしている者たちを落胆させ得るものだ。悲しい事実だが、過去30年間のマクロ経済学の研究は、金融政策や財政政策の実際の分析には小さな影響しか与えてこなかった。その理由は、政策の舞台にいるエコノミストが近年の発展に無知だったからではない。まったく逆に、連邦準備のスタッフには最良の若いPh.Dたちがいるし、共和党と民主党両政権下の大統領経済諮問委員会は国内最高の研究を行っている大学から才能ある人々を引き入れているのだ。現代的なマクロ経済学的研究が実際の政策策定に広く用いられていないという事実は、それがこの目的にはあまり役に立たないという一応の証拠となっている。こうした研究は、科学としては成功したのかもしれないが、マクロ経済のエンジニアリングには重大な貢献はしてこなかったのだった。


教室で



世界の首都の権力の回廊を越えた所に、経済学の専門家がその商品を幅広い聴衆に売り込もうと試みているもうひとつの場所がある――大学学部の教室だ。我々のような定期的に学部学生に講義している者は、その仕事を、良い政策の原則について広い見識を持った市民を作り出すものであると見なしている。教材の選択は、何が次の世代の有権者たちが理解すべき重要なことと我々が見なしているかに基いているのだ。

政策を策定する者たちと同様、学部学生たちはたいてい理論のための理論にはあまり興味がない。その代わりに、彼らは、実際の世界はどのように動いているのか、また公共政策はどのように経済活動を向上させ得るのか、を理解することに興味を持っている。大学院へ進学して経済学者としてのキャリアを検討している稀有な学生を除き、学部学生は、科学者のではなくエンジニアの物の見方をしているのだ。従って、我々が学部学生を教えるのに用いる教材に留意することは有益となる。そして、学部で広く使われている教科書の中身よりも、我々が教えていることに注目するの方が重要なのだ。

例えば、中級レベルのマクロ経済学を教えるのに使われている本を考えてみよう。一世代前には、代表的な教科書を三つ挙げるとするならば、ロバート・ゴードンのもの、ロバート・ホールとジョン・テイラーのもの、そしてルドガー・ドーンブッシュとスタンリー・フィッシャーのものがあった。一方、今日の売り上げトップ3は、オリバー・ブランシャール、アンドリュー・エーベルとベン・バーナンキ、そして私によって書かれた教科書だ。これら6冊の共通点は、少なくとも一人の著者が、サミュエルソンソローによるマクロ経済学的伝統が支配的な、突出したエンジニアリングの学校であるMITで大学院教育を受けた点にある。これらすべての本において、学部学生に教授される基本的な理論はなんらかの種類の総需要と総供給であり、そして総需要の基本的な理論はIS-LMモデルなのだ。同様の教訓は、最も広く使われている新入生レベルの経済学の教科書を精読することでも得ることができる。短期の経済変動は、なんらかの種類の新古典派-ケインジアン総合を用いることで最も良く理解することができるのだ。

私は、この分野が発展するにつれて教育が停滞したと言いたいわけではない。今日の教科書は30年前のものに比べ、古典派の金融理論、長期の成長に関するモデル、そして期待の役割について、非常に強調して扱っている。どの政策が目的を達成するかに関する確信は控えめで、ルールに基いた政策が裁量的な金融政策や財政政策よりも強調されている(政策ルールの実務的な重要性に関する証拠に欠けているにも関わらず)。しかし、今日の学生が景気循環の理解について学ぶ基本的な枠組みは、初期の世代のケインジアンたちが精通していただろうものなのだ。

この基準を証明する例外は、1984年に出版されたロバート・バロー(Robert Barro)による中級の教科書だ。このバローの本は、学部学生向けに書かれた新古典派の方法論による明快でとっつきやすい入門書となった。ケインジアンのモデルは収録されているが、しかしそれは後半で扱われており、短く、また特に強調もされていない。この本が登場したときは、多大な注目と賞賛を集めた。しかしながら、多くのマクロ経済学者がこのバローの本を読んだにも関わらず、この本を学生用に選んだ者はずっと少なかったのだ。バローが望んだ教育分野における新古典派の革命は成功することはなく、またバローの教科書は当時支配的だった教科書たちの地位を脅かすこともなかったのだった。

マクロ経済学の教育分野における革命の不在は、半世紀前に起こったことと著しい対照を成している。学部学生にケインズ革命を紹介することを目的としたサミュエルソンの教科書が1948年に出版されたとき、世界中の教師たちはすばやくまた誠心誠意、新しい方法論を喜んで受け入れたのだった。対照的に、新古典派と新ケインズ派の考え方は、学部学生がどのように教えられるのかについて、抜本的に変更することはなかったのだ。


歯医者は見当たらない



ジョン・メイナード・ケインズJohn Maynard Keynes, 1931)が次のように述べたことは良く知られている。「もしも経済学者たちが何とかして、彼ら自身を歯医者と同じレベルで謙虚で有能であると考えることができたとしたら、それは素晴らしいことだろう」。彼は、科学としてのマクロ経済学が、便利で日常的なエンジニアリングに発展できたら、という希望を表現していたのだった。この未来のユートピアでは、景気の後退を避けることは虫歯の穴を埋めるのと同じくらい容易となるのだろう。

過去数十年の学問的なマクロ経済学における主要な発展は、歯医者との類似性をあまり生み出さなかった。新古典派と新ケインズ派の研究は、金融政策と財政政策を指揮するという面倒な立場にいる実践的なマクロ経済学者たちにとってあまり影響を与えなかった。そしてそれはまた、未来の有権者たちが学部教室へやってきたときに教師たちがマクロ経済政策を教えるその内容にも、あまり影響を与えなかった。マクロ経済学的エンジニアリングの観点からは、過去数十年の研究は不運な方向の誤りに思えるのだ。

とはいっても、より抽象的なマクロ経済学の科学の観点からは、こうした研究はもっと肯定的にとらえることができる。新古典派の経済学者たちは、大規模なケインジアンのマクロ経済学的計量モデルやそれに基いた政策の限界を示すことに成功した。新ケインズ派の経済学者たちは、賃金と価格が均衡することに何故失敗するのか、より一般的には、短期的な経済変動を理解するためにはどのような市場の不完全性を考えれば良いのか、ということを説明するより良いモデルを提供した。この二つのものの見方の間の緊張は、常に礼儀正しいものではなかったが、市場の成果にとってと同様に知的進歩にとっても競争は重要であるから、生産的だったのかもしれない。

その結果として得られた知見は現在発展中の新しい総合に組み入れられ、そしてそれはやがて次の世代のマクロ経済学的モデルの基礎となるだろう。科学として、またエンジニアリングとしてマクロ経済学に関心を持つ我々は皆、最近の新しい総合の出現を、その両方の面での進展を可能とする有望な兆しとして理解できる。今後も、謙虚で有能であることは依然としてマクロ経済学者たちが目指すべき理想として残るのだ。


References



Akerlof, George A. and Janet L. Yellen. 1985. "A Near-Rational Model of the Business Cycle with Wage and Price Inertia." Quarterly Journal of Economics. Suppl., 100, pp. 823-838.

Atkinson, A.B., and J.E. Stigltiz. 1976. "The Design of Tax Structure: Direct versus Indirect Taxation," Journal of Public Economics 6, pp. 55-75.

Ball, Laurence, and David Romer. 1990. "Real Rigidities and the Non-Neutrality of Money." Review of Economic Studies. 57:2, pp. 183-203.

Ball, Laurence, and Niamh Sheridan. 2005. "Does Inflation Targeting Matter?" in Ben S. Bernanke, and Michael Woodford, editors, The Inflation-Targeting Debate, University of Chicago Press.

Barro, Robert. 1977. "Unanticipated Money Growth and Unemployment in the United States." American Economic Review. March, 67:2, pp.101-115.

Barro, Robert J. and Herschel Grossman. 1971. "A General Disequilibrium Model of Income and Employment." American Economic Review. March, 61:1, pp. 82-93.

Bernanke, Ben S. 2003. "Constrained Discretion and Monetary Policy," Remarks before the Money Marketeers of New York University, New York, New York, February 3, 2003.

Blanchard, Olivier Jean and Nobuhiro Kiyotaki. 1987. "Monopolistic Competition and the Effects of Aggregate Demand." American Economic Review. September, 77:4, pp. 647-666.

Breit, William, and Barry T. Hirsch. 2004. Lives of the Laureates, 4th edition, Cambridge, MA: MIT press.

Chamley, Christophe.1986. "Optimal Taxation of Capital Income in General Equilibrium with Infinite Lives." Econometrica. May, 54:3, pp.607-622.

Clarida, Richard, Jordi Gali and Mark Gertler. 1999. "The Science of Monetary Policy: A New Keynesian Perspective." Journal of Economic Literature. December, 37:4, pp. 1661-1707.

Diamond, Peter A. and James A. Mirrlees. 1971. "Optimal Taxation and Public Production II: Tax Rules." American Economic Review, June, 61:3, pp. 261-278.

Feldstein, Martin. 1978. "The Welfare Cost of Capital Income Taxation," Journal of Political Economy, April, 86:2, Part 2, pp. S29-S51.

Fischer, Stanley. 1977. "Long-term Contracts, Rational Expectations, and the Optimal Money Supply Rule." Journal of Political Economy. February, 85:1, pp. 191-205.

Friedman, Milton. 1957. A Theory of the Consumption Function. Princeton: Princeton University Press.

Friedman, Milton. 1968. "The Role of Monetary Policy." American Economic Review. March, 58:1, pp. 1-17.

Freidman, Milton and Anna Jacobson Schwartz. 1963. A Monetary History of the United States, 1867-1960. Princeton: Princeton University Press.

Garfield, Eugene. 1990. "Who Will Win the Nobel Prize in Economics? Here a Forecast Based on Citation Indicators." Current Contents 11, Institute for Scientific Information.

Goodfriend, Marvin and Robert King. 1997. "The New Neoclassical Synthesis and the Role of Monetary Policy," NBER Macroeconomics Annual, pp. 231-283.

Greenspan, Alan. 2003. "Monetary Policy under Uncertainty," Remarks at a symposium sponsored by the Federal Reserve Bank of Kansas City, Jackson Hole, Wyoming, August 29, 2003.

Hicks, John R. 1937. "Mr. Keynes and the 'Classics.'" Econometrica. April, 5:2, pp. 147-59.

Hume, David. 1752. "Of Money," in Essays. London: George Routledge and Sons.

Keynes, John Maynard. 1931. Essays in Persuasion. New York: Norton. 【ケインズ全集第9巻収録、こちらから英文だが全文読むことが可能のようだ】

Klamer, Arjo. 1984. Conversations with Economists. Totowa, NJ: Rowman and Allanheld.

Klein, Lawrence R. 1946. "Macroeconomics and the Theory of Rational Behavior." Econometrica. April, 14:2, pp. 93-108.

Krugman, Paul. 2000. "How Complicated Does the Model Have to Be?" Oxford Review of Economic Policy 16, No. 4, pp. 33-42.

Kydland, Finn, and Edward C. Prescott, 1977. "Rules Rather Than Discretion: The Inconsistency of Optimal Plans," Journal of Political Economy, June, 85:3, pp. 473-492.

Kydland, Finn, and Edward C. Prescott. 1982. "Time to Build and Aggregate Fluctuations." Econometrica. November, 50:6, pp. 1345-1371.

Long, John. B. and Charles Plosser. 1983. "Real business cycles." Journal of Political Economy. February, 91:1, pp. 39-69.

Lucas, Robert E, Jr. 1973. "Some International Evidence on Output-Inflation Tradeoffs." American Economic Review. June, 63:3, pp. 326-34.

Lucas, Robert E. Jr. 1976. "Econometric Policy Evaluation: A Critique." Carnegie Rochester Conference Series on Public Policy. 1, pp. 19-46.

Lucas, Robert E., Jr. 1980. "The Death of Keynesian Economics." Issues and Ideas (University of Chicago, Chicago, IL). Winter, pp. 18-19.

Lucas, R.E. Jr. and T.J. Sargent. 1979. "After Keynesian Macroeconomics." Federal Reserve Bank of Minneapolis Quarterly Review. Spring, 3:2, pp. 1-16.

Malinvaud, Edmund. 1977. The Theory of Unemployment Reconsidered. Oxford: Blackwell.

Mankiw, N. Gregory. 1985. "Small Menu Costs and Large Business Cycles: A Macroeconomic Model of Monopoly." Quarterly Journal of Economics. May, 100:2, pp. 529-537.

McCallum, Bennett T., and Edward Nelson. 1999. "An Optimizing IS-LM Specification for Monetary Policy and Business Cycle Analysis." Journal of Money, Credit and Banking. August, 31:3, Part 1, pp. 296-316.

Meyer, Laurence H. 2004. A Term at the Fed: An Insider's View. New York: Harper-Collins.

Modigliani, Franco. 1944. "Liquidity Preference and the Theory of Interest and Money." Econometrica. January, 12: 1, pp. 45-88.

Phelps, Edmund. 1968. "Money Wage Dynamics and Labor Market Equilibrium." Journal of Political Economy. July/August, 76:4, pt. 2, pp. 678-711.

Pigou, Arthur. 1927. Industrial Fluctuations. London: Macmillan and Company.

Quandt, Richard E. 1976. "Some Quantitative Aspects of the Economics Journal Literature." Journal of Political Economy. August, 84:4, pt. 1, pp. 741-55.

Romer, Paul. 1986. "Increasing Returns and Long Run Growth." Journal of Political Economy. October, 94:5, pp. 1002-37.

Samuelson, Paul A. 1948. Economics: An Introductory Analysis. New York: McGraw-Hill.

Samuelson, Paul. A. 1988. "Keynesian Economics and Harvard: In the Beginning." Challenge: The Magazine of Economic Affairs. July/August, 31, pp. 32-34.

Samuelson, Paul A. and Robert M. Solow. 1960. "Analytical Aspects of Anti-Inflation Policy." American Economic Review. May, 50:2, pp. 177-194.

Sargent, Thomas J. and Neil Wallace. 1975. "Rational Expectations, the Optimal Monetary Instrument, and the Optimal Money Supply Rule." Journal of Political Economy. April, 83:2, pp. 241-54

Solow, Robert M. 1980. "On Theories of Unemployment." American Economic Review. March, 70:1, pp. 1-11.

Summers, Robert and Alan Heston. 1991. "The Penn World Table (Mark 5): An Expanded Set of International Comparisons, 1950-1988." Quarterly Journal of Economics. May, 106:2, pp. 327-68.

Taylor, John B. 1980. "Aggregate Dynamics and Staggered Contracts." Journal of Political Economy. February, 88:1, pp. 1-23.

Woodford, Michael. 2003. Interest and Prices. Princeton: Princeton University Press. 26















































【訳者よりの謝辞】
翻訳ミスや日本語のおかしなところををご指摘下さった次の方々へ感謝いたします。
銅鑼衣紋さん
政治学者の卵さん
Rhythm_Nationさん
平家さん

ありがとうございました。
また、励ましのコメントを下さった方々、ブログ等で言及してくださった方々へも感謝いたします。ありがとうございました。
svnseeds
【追記(Oct24, 2006)】 hicksianさんよりネットでダウンロード可能な論文の情報をいただいていたので今更ながらupdate。hicksianさんありがとうございました。