松井石根(い わね)大将と興亜観音

田中正明


松井石根大将と興亜観音
 松井石根大将(於上海・軍司令官室)

経 歴

                                     

 松井石根(いわね)大将は、名古屋市牧野で生まれ、15歳で陸軍中央幼年学校に入学、士官学校を卒業した(9期)。
この9期から陸軍大将が6人もでた。たいへん珍しいことである。荒木貞夫、本庄繁、真崎甚三郎、阿部信行、林仙之、松井石根の6人である。
松井は士官学校では恩賜の銀時計を、陸軍大学では主席で恩賜の軍刀を拝受している。
秀才である。
その松井が最初に現役を退いている。
 その遠因は、昭和3年に起きた張作霖爆死事件である。松井はこれを行った河本大作を厳罰に処して軍紀(軍規ではない。本当は軍紀が正しい)を正せと主張して、当時の田中首相に強く進言した。
首相も松井の意見に賛成したものの青年将校の突き上げにあってウヤムヤにした。
このことで、昭和天皇のお叱りにあって田中首相は辞職を余儀なくされたことはご存じのとうりである。
 昭和10年8月、軍務局長、永田鉄山が白昼、陸軍省内で相沢中佐に惨殺されるという陸軍始まって以来の大不祥事件があった。
これまでくすぶっていた陸軍を二分する、皇道派対統制派の派閥抗争ががぜん表面化したのである。
かねてから松井は、こうしたあるまじき軍部内の派閥争いや政治関与をいましめてきたが、この流血を見て、軍の責任であるとし現役を退いたのである。しかし、その翌年、松井が憂慮した通り2・26事件が起き、荒木、真崎、本庄、阿部、林らも現役を退いた。


松井石根と中国

 陸大を卒業した多くの同僚はきそって欧米の駐在武官を志望したが、松井大将は中国を志望した。
孫文の中国革命を支援した関係から、蒋介石、汪兆銘ら孫文一統の要人らとの交友が深かった。それは松井の郷里の先輩の荒尾精のアジア復興、東亜(東アジア)復興、アジア解放の思想に共鳴していたからである。
壮年時代(大正6年正月 於・上海) 昭和8年3月、「大亜細亜協会」が設立されると、松井大将は進んでこの運動に参加した。
同年8月、台湾軍司令官に就任するや、「台湾大亜細亜協会」を設立している。
 大正13年、孫文が神戸で行った「大亜細亜主義」の講演、アジアの独立解放、アジア人のアジアの建設、アジア王道文化の復興と団結=この孫文が唱えた興亜の理想を実現するべく、松井は「大東亜協会」の会長としてこの運動の陣頭指揮した。(筆者はこの協会の職員としてこの運動の機関誌月刊「大亜細亜主義」の編集にあたった。)
 昭和9年から10年にかけて中国の排日侮日運動はひどかった。在留日本人が理由なく幾人も殺されている。これを放置すれば、日中戦争は必至だ。松井大将はかかる事態を憂慮され、私を秘書にして中国遊説の旅に出た。昭和11年2月のことである。
 台湾で大歓迎を受け、海路、広東に入り孫文の一番弟子である胡漢民や広東省の軍閥、李宗仁らと会談し、さらに空路、広西省の白崇禧を訪ねた。
松井大将はこれら3人の軍閥に、国父、孫文の遺訓を守り(1)蒋介石と手を結び中華民国の創建を図られよ。(2)条件として蒋介石の排日侮日政策を改め親日・興亜政策を推進していただきたい。と説得につとめた。三者とも大将の熱意に動かされ、共感した。
 東京における2・26事件の通報を広東の宿舎で聞いて、びっくりしたが、大将は予定通り旅行を続け、海路、福州・上海をへて南京についた。
 南京には蒋介石、外交部長の張群、何応欽上将らが待機していた。松井大将は蒋介石や張群らが日本に留学中は下宿の世話までした親密な関係だ。大将はまず有田八郎大使や陸海軍駐在武官らと懇談したのち「日支和平交渉・松井試案」なるものを作成してこれを蒋介石に示すと同時に、西南軍閥の意向を伝えて会談に入った。蒋介石も張群も松井私案に賛意を表して固い握手を交わした。
松井大将はこの時の蒋介石から受けた感触から、日中の和平に希望がもてる旨を広田弘毅首相に打電している。
 しかるに、この年の12月、西安事件が起き、蒋介石は張学良の捕虜になる。スターリンから「蒋介石を殺すな。生かして使え・・・」と、つまり蒋介石と日本を戦わせ漁夫の利を得よ。という指令である。周恩来から国共合作六ヶ条の条件(国民党と中国共産党)を突きつけられ、やむなく蒋介石はこれに調印して、釈放された。
 翌年7月7日、劉少奇(のち中国共産党主席)ひきいる部隊が、日支両軍に発砲して廬溝橋事件が勃発した。翌8日には中国共産党は全国に対日宣戦布告を通達した。しかし近衛内閣も軍も現地解決策をとった。だが郎坊事件・広安門事件など日本将兵の殺害事件が相次ぎ、あげくに通州事件が起こった。中国の保安隊が突如、反乱をおこし、日本人、女子供を含む260余名がみるも無惨に虐殺されるという大惨事がおき、北支事変となった。さらに上海における大山中尉惨殺事件、斉藤一等水兵の虐殺事件が相次ぎ、上海及び揚子江岸の約8万人の日本人居留民(朝鮮人含む)の生命を保護するため、上海派遣軍が編成された。


上海から南京へ

上海派遣軍司令官として出征直前 左端文子夫人、右端角(すみ)副官(昭和12年 大森自宅玄関先にて) 昭和12年8月、松井大将は現役に復帰を命ぜられ、天皇陛下の謁を賜り、上海派遣軍司令官親補の勅を拝した。しかし派遣軍の兵力は当初3個師団(1個連隊は欠)の3個師団弱の微力なるものであった。
 大将は5個師団を要求した。米・ソが軍事支援をしており、装備も戦闘意欲もかつての満州の匪賊討伐とは違うと強調した。
果たせるかな大将の言うとおり、相手は馮玉祥総指揮のもとに約30万の軍隊が、堅固な陣地を構築していた。
そのため、戦局は一向に進展せず、悪戦苦闘、我が方の犠牲は甚大を極めた。
 そこで参謀本部は、柳川中将ひきいる第10軍(3個師団と国崎支隊)及び北支にいた第16師団を転用して上海の背後をつく作戦をとった。そのため形勢は一変した。
 松井大将は上海軍と第10軍とを統轄する中支那派遣軍司令官(当時、中国は支那と呼ばれていた)に任命され、南京攻略戦を指揮した。日本軍は破竹の勢いで当時の首都、南京に迫った。
蒋介石、何応欽ら政府と軍の首脳らが南京を脱出したのは12月7日頃である。これと前後して馬市長はじめ公務員も、金持ちもほとんどが南京を脱出した。残るは市民約20万(公称)唐生智将軍ひきいる約5万の国民党軍であった。
 大将はこの20万市民の安全と中山陵等史蹟を守るため降伏を勧告するビラを9日、飛行機から城内に散布した。
しかし、唐将軍からの回答はなく、10日、正午を期して総攻撃を開始した。
 松井大将は総攻撃に際して、全軍将兵に軍紀を厳守して皇軍の威信を示せと命じ、同時に国際安全区にいる20万市民の愛護を厳命し、無用の者の立ち入りを厳禁した。
 南京城は激戦のすえ13日に陥落したが、唐将軍は前夜、逃走したため、指揮官を失った敗残兵は略奪を欲しいままにし、一般市民の着衣を奪って安全区に逃げ込んだ。
戦時国際法は、この便依兵(ゲリラ)の処刑を認めており、日本軍はこれを摘発し処刑した。
 17日、入場式、18日戦死者の慰霊祭が行われた。この時、松井大将は「中国の戦死者も、ともに慰霊しよう」と提案したが師団長から異論が出て取りやめとなった。
この時の大将の思いが、後の興亜観音の建立につながるのである。
 19日には幕僚数名をともなって城内の清涼山や北極閣に登り、城内を視察、看望した。「概して城内は、ほとんど兵火をまぬがれ市内、安堵の色深し。」と大将は日記に記している。
 市民約20万を管理していた国際安全委員会のラーベ委員長から安全区内は砲爆撃もなく全員無事であった旨の感謝の書簡があった。大将も安全区の代表らに会い慰労している。
21日の日記には「人民も既に多少づつ帰来せるを見る」とある。人口は1ヶ月後には25万に増加したのである。
22日、大将は上海に帰り、2回にわたり、内外記者団と記者会見を行っている。
この記者会見でもいわゆる゛南京虐殺”に関する質問など全然なかった。大将がこれを初めて耳にしたのは、終戦直後、アメリカの放送で知って驚き、旧部下に命じて聞き取り調査を行った。もちろん、各部隊長とも答えはNOであった。


興亜観音

 大将は帰還した13年5月、夫人同伴で熱海伊豆山の淙々園に滞在して戦塵を洗われた。そのとき、園主の古島安二氏に、かねてから思っていた、戦死した部下、23000余の柱と中国の戦死者を共に祭祀する観音堂建設の構想を語った。
古島氏は大将のこの恩讐を越えた武士道精神にいたく感動した。そして、大将にこう申し出た。
 「この裏の鳴沢山は私の山です。この山に建立なさいませ。」と寄進を申し出た。しかし単なる観音堂の建立では月並みである。
台湾軍司令官時代(昭和9年3月)大将は想を練り、日支両軍が激戦したその血に染まった土を大場鎮や南京から取り寄せて、これを日本の陶土に混入して観音様を作ろうと考えた。
 大将のアジア主義の思想からすれば、日支のこの不幸なる戦争の犠牲も、大観すれば東亜諸民族興隆の礎石である。
白人の植民地解放からアジアは解放され、独立し繁栄する時代が到来する。
それを、祈願する観音様である。「興亜観音」と名付けられた。
 本尊の観音様は瀬戸の陶工師、加藤春二氏が、身長一丈(3m30cm)の露座の観音様は常滑の柴山清風氏が制作した。
本堂は熱田神宮の余材の寄進をうけた。額は朝香宮が、壁画は堂本印象、宮本三郎、西村真琴氏らが彩管をふるった。
 募金は大将みずから行脚したが、奉賛会長には熱海市長が就任し、熱海市の在郷軍人会、消防団、青年団等が勤労奉仕した。
開眼式は、昭和15年=皇紀2600年2月24日、芝増上寺の大島徹水僧正を導師として厳かに行われた。
 堂守は大将が媒酌した新潟の伊丹忍礼、妙真夫妻である。
大将はこの山麓の「無畏庵」と名乗る庵に居住して、毎朝約2キロの山道を登り、観音経をあげて菩提を弔われた。
内陣の右には「支那事変日本戦没者霊位」左には「支那事変中華戦没者霊位」とある。
大将は巣鴨の獄中でも、朝夕2回必ず鳴沢山に向かって読経を欠かすことはなかった。
大将はありもせぬ南京大虐殺のえん罪で絞首刑になり、東条英機、土肥原賢二、武藤章、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎と共に境内に建立された「七士の碑」(吉田茂書)の下に眠っている(ここに7人の御遺骨奉納)。
その隣にはB、C級の刑死者1068名の殉国の霊位が祀られている。
 今は住職の伊丹忍礼、妙真ご夫妻も亡くなられ、3人の姉妹が僧籍に入り、妙徳、妙洸、妙浄の法名を頂き、けなげにもこの聖地をお守りしている。
平成8年5月、ミニ観音の開眼式に靖国神社の大野宮司さんが3人の職員と共に御参拝された。


南京事件と松井大将

松井大将の中国観

 秦郁彦氏は「諸君!」昭和59年9月号に『松井大将は泣いたか?』という論文を書いている。それによると、中支那方面軍司令官松井石根大将が“戒告”を受け、慚愧して泣いたか泣かなかったかを問題にして、泣いたことは確かであり、泣いたところを見ると、大将は大虐殺のあったことを既にこのとき事前に承知していたにちがいないと推論し、それを止め得なかった松井の処刑は当然であると論じている。泣いたか泣かなかったかで、虐殺を推論するなど秦氏にとっては大発見かも知れぬが、まことに児戯に類する滑稽な論理と言わねばならぬ。
 ところが最近、秦氏の中央公論社から出版した『南京事件』(中公新書)を見ると、松井大将をさらに糾弾して、
 (1)松井大将の中国のナショナリズムに対する時代がかった古い考え方が、部下に悪影響を及ぼしたのではなかろうか?と、暗に松井の古い考えが南京虐殺の原因をなしたような言い方をしている。
 (2)松井大将は東京裁判で、南京虐殺を知らなかったと言ったり、知っていたと言ったり、ノラリクラリ逃げており、前後が矛盾している。そうかと思うと、慰霊祭における大将の異常とも思われる訓示や、死刑執行前の花山教誨師(きょうかいし)への述懐をみると、大虐殺を知らなかったというのはウソであったのではないか。
 (3)松井大将は軍紀に関する自分の責任を言い逃れして偽証を続けた。といい、「松井は一方で部下の非行について権限も責任もないと言いながら、他方で調査と処罰を命令したと主張する矛盾をつかれている。おそらく致命的なポイントであり、松井は不誠実で嘘つきの男という印象を判事団に与えたに違いない」(42ページ)。
 このような秦氏の松井観は、南京事件に対する見方を誤るのみでなく、松井大将に対する言われなき誹謗であり、大将の名誉のためにも一言しておきたい。
 松井大将は、宣誓口供書の中でこう述べている。《法廷証第3、498号》
 「予は明治26年(1894年)陸軍幼年学校入学以来昭和10年(1935年)予備役編入まで40余年の陸軍在職中、参謀本部々員、同第2部長、第11師団長、台湾軍司令官等を歴任したり。この間支那の南北に在任すること前後12年にわたり、専ら日支提携の事に尽力せるのみならず、予は青壮年時代より生涯を一貫して日支両国の親善提携、亜細亜の復興に心血をそそぎ、陸軍在職中の職務の大部分も亦これに応ずるものなりき。
 昭和12年上海事件勃発し、上海派遣軍の急派となり、予備役在郷中の予がその司令官に擢用(てきよう)せらしは、全く予の右経歴に因るものなることは当時の陸相よりも親しく話されたるところなり。
 蓋(けだ)し当時に於ける我が政府の対支政策は、速やかに事件の局地的解決を逐ぐるにあり、彼我の武力的抗争を拡大せざることを主眼としたればなり。」(本文はカタカナ)
 この言の通り、松井大将は当時の陸軍部内における閑院宮参謀総長に次ぐ先任の大将であるばかりでなく、陸軍切っての「支那通」として、自他共に認めるところであった。中国のナショナリズムに対する認識が古いと秦氏は言うが、それはまったく逆である。当時、軍の中でもっとも中国の現状を把握し、そのナショナリズムを身をもって受け止めていたのは松井大将である。
 松井大将が孫文の第2革命、第3革命に陰に陽に支援の手を伸べた事蹟はしばらくおくとしても、孫文亡きあと、孫文の意志を継ぎ、中国の統一と日中の提携を実現し得る者は蒋介石をおいて他にないとの認識から、蒋を援けたのは松井大将である。昭和2年8月、蒋は北伐の途中、徐州戦に大敗し、武漢政府軍の南下に遭い、下野を声明するという最悪の事態を招いたとき、当時参謀本部第2部長であった松井大将は蒋の来日を促し、時の田中義一首相に引き合わせ、いわゆる「田中・蒋会談」の根回し役を務め、これを成功させたことはよく知られている。この会談の結果、日本は蒋の北伐を援助し、それまで援助していた張作霖を満州に引き揚げさせた。
 昭和11年、つまり支那事変の前年、松井は広東・広西におもむき、蒋介石の一大敵国の観を呈していた反蒋の巨頭胡漢民(こかんみん)、陳済堂(ちんさいどう)、李宗仁(りそうじん)、白崇禧(はくすうき)らいわゆる西南派の指導者らと会談して、南京政府(蒋政権)と提携して中国の統一を図るべきだと進言している。さらにその足で南京におもむき、蒋介石、何応欽、張群らと親しく会談し、日中和平の“松井試案”まで提示して、国父孫文の「大アジア主義」の精神に帰ろうと呼びかけているのである。(田中正明氏はこの松井大将の中南支遊説旅行に同行した。詳細は『松井石根大将の陣中日誌』〈芙蓉書房〉を参照されたい)。
 秦氏は、このような松井大将をとらえて「中国ナショナリズムに対する認識は、いささか時代がかっていた」と称し、「松井大将は日中戦争の本質が、『一家内の兄が忍びに忍び抜いても猶且つ乱暴を止めざる弟を打擲するに均しく・・・可愛さ余っての反省を促す手段』だった」と松井は言うが、こうした姿勢で指揮統率に当たったとしたら、部下はそれを“盲信”または“誤解”し、それが南京大虐殺を生む原因となったのではないかと指摘するのである。まったく見当はずれの推論と言わざるを得ない。

松井石根の人間像

 松井大将は南京攻略にあたって《南京城攻略要領》を下命し、南京入城の兵は各師団とも選抜せる歩兵1大隊のみと限定し、次のような細心の注意を与えている。抄出すると、
(1)部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし支那軍民をして皇軍の威武に敬仰帰服せしめ苟も名誉を毀損するが如き行為の絶無を期するを要す。
(2)別に示す要図に基き外国権益特に外交機関には絶対に接近せざること、外交団が設定を提議し我軍に拒否せられたる中立地帯(難民区のこと)には必要の立入を禁し所要の地点に歩哨を配置す、又城外に於ける中山陵其他革命志士の墓及明孝陵には立入ることを禁ず
(3)掠奪行為をなし又不注意と雖も火を失するものは厳罰に処す、軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ不法行為を摘発せしむ
 松井大将はこれでもなお安心できず、さらに自ら筆をとって次のような末端将兵に対する訓戒を重ねて示達した。
 「南京は中国の首都である。之か攻略は世界的事件である故に真に研究して日本の名誉を一層発揮し中国民衆の信頼を増す様にせよ、特に敵軍と雖も抗戦意志を失いたる者及一般官民に対しては寛容慈悲の態度を取り之を宣撫愛護せよ。」
 この一文は、下士官兵にいたるまで徹底せよと命じた。
 このように入念に、くり返し注意、厳命したにもかかわらず、入場式の夜、憲兵隊長から「若干の暴行・掠奪事件」があったと松井は聞かされたのである。松井とすればどんなに口惜しく、情けなく、残念に思ったことか。
だから翌日の慰霊祭で、軍司令官、師団長、参謀らのなみいる席で、声くだる訓辞を行ったのである。それを秦氏は、松井大将はこの時“大虐殺”を聞知していたから泣いて怒ったのだとカンぐり、大将は南京大虐殺を承知していたはずと推論するのである。ためにする憶測と言わざるを得ない。

松井(右2)の中国国民党要人の家族らとの交遊。前にかがんでいるのは載天仇氏。 松井大将は現役の時から、孫文の「大アジア主義」の遺鉢を継ぐべく、大アジア主義を提唱し、「大亜細亜協会」設立発起人の一人となり、現役と同時に同協会の会長となり、満蒙、華北、華南、華中と3回にわたり中国を遊説し、孫文が提唱した「日本なくして中国なし、中国なくして日本なし」という日中和平の大義を説いてまわった徹底した日中和平論者である。
 「松井大将は支那人が可愛くて可愛くて仕方なかった人です」と上海派遣軍特務部員の岡田酉次(ゆうじ)少佐は言う。注(1)
 また中支那方面軍参謀の吉田猛大尉によると、「蘇州で私と二宮参謀が松井閣下に呼びつけられ、屍体の始末が悪い、日本軍のだけを整理し、敵軍を放置するとは何事か、とこっぴどく叱られました」と言う。友軍の死体と同じように支那兵の死体も鄭重(ていちょう)に扱えと言うのである。注(2)
 また中支那方面軍司令部付の高木威勲(たけお)大尉はこう述懐する。「ある日上海でたまたま日本兵が中国人のチョッキ(ベスト)を着ているのを松井大将が見とがめ、それはどうしたのか?と尋ね、すぐに返すようにとお叱りになりました。軍司令官がこんなことまで、とそばにいた私は思いました。当時、中支那方面軍の参謀達は、松井大将は日本兵より支那人の方が可愛いらしいと言っていました」注(3)
 小学校の先生が児童の作文を持参して陣中慰問に来たとき、大将は子供達の作文の中に「ぼうしようちょう(暴支膺懲)」という語があるのを見てこのような教育は好ましくないと言って、たしなめられたという。
 さらにこんな話もある。軍司令部が湯水鎮に進出した夜、軍司令部付通訳官の岡田尚(たかし)氏は、焼け跡から赤子の鳴き声が聞こえる、当番兵と2人でこの赤子を救助した。温泉に入れ、毛布にくるめた赤子を、大将は目を細めて抱き上げ、松子と命名した。松井の一字をとっての命名である。翌日入城式に、当番兵はこの赤子を背負って入城した。松子ちゃんは上海の東亜クラブのマネージャー鳥井夫妻に養女としてもらわれたが、大将は上海を去る日まで松子のことを気にして、何かと岡田に指示し、慈父のごとくいつくしんだと言う。松子は小学校1年の時疫痢のため死去した。注(4)
 松井石根(いわね)は父武圀(たけくに)、母ひさ、貧乏士族の6男として生まれた。石根は12才のとき名古屋から上京し、成城学校に入った。この学校は軍人養成のための全寮制の名門校である。士官学校は9期で、この期から陸軍大将が5人輩出している。
 荒木貞夫、本庄繁、真崎甚三郎、阿部信行と松井である。松井は2番で恩賜の銀時計組である。続いて陸軍大学に進むが、松井は荒木ら他の4人よりも1期早く、明治39年陸大を卒業する(18期)。しかもトップで恩賜の軍刀を頂く、いわば同期の最右翼である。しかるに、台湾軍司令官どまりで、他の4人のように顕職に就くことなく、しかも他の4人より1年早く現役を退いている。なぜか?
 松井の参謀本部第2部長の時、張作霖爆死事件が起きた。松井はその犯人河本大作大佐を厳罰に処すべしと強く主張し、当時の田中首相も一時その正論に同調したが、当時台頭のいわゆる革新的青年将校の勢威に押されて屈服し、処罰はうやむやのうちに葬り去られた。厳罰に処して軍紀を守れと一貫して主張した松井は、青年将校から嫌われ、軍紀にやかましい煙ったいオヤジとして敬遠された。しかし、松井が予言したごとく、この事件以後急速に下克上の風潮高まり、軍律軍紀は乱れ、満州事変の勃発となり、ついに白昼陸軍省内における永田軍務局長斬殺という前代未聞の大不祥事件を起こした。松井は軍の長老として責任を取り、自ら願い出て現役を退いたのである。決して松井は、軍紀に対してないがしろにするような将軍ではなかった。
 中国から帰還後は麾下部隊の陸軍病院を巡回して傷病兵を慰問した。昭和14年、熱海市伊豆山に上海戦・南京戦で倒れた日本軍将兵の霊位と中国軍将兵の霊位とを共に合祀すべく、恩怨平等、慈眼視衆生の観音信仰から、日中両軍の鮮血に染まった激戦地の土を取り寄せ、陶製の観音像を作り、これを興亜観音と名付けて祭祀した。松井はその興亜観音の山裾にいおりを結び、21年3月、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに入所するまで、堂主として、朝夕読経三昧の生活を送った。
 このような将軍を秦氏は「空疎な理想主義は往々にして、冷酷なレアリズムよりも悪い結果を招く」と称して、南京事件は松井の思想があたかもその原因であったかのごとく誹謗するのである。とんでもない誤解であると申し上げたい。
 <注>(1)(2)(3)は阿羅健一氏の聞き取りによる。=雑誌「正論」所載、(4)は岡田尚氏談。

終戦後に初めて知った事件

 第2に秦氏は、宣誓口供書の矛盾点に傍線を引いて、松井大将は「事件を知っていたようでもあり、知らないと主張しているようにもとれる。責任問題がからむので、ノラリクラリと逃げているようにも見える」と述べている(前掲同書38ページ)。これは秦氏が「暴行・掠奪事件」と「大虐殺事件」とを混同しているところから生ずる議論である。大将が17日の入城式の夜「憲兵隊長から聞いた」というのは、「若干の暴行・掠奪事件」であって、いわゆる「大虐殺事件」ではないのだ。大将は、暴行事件は聞いているが、虐殺事件は聞いていないと言っているのである。“虐殺”と“暴行”を混同している秦氏はこのことが理解できないらしい。
 この点田中正明著『“南京虐殺”の虚構』(日本教文社、絶版です。「朝日」が圧力かけてつぶした。そのかわり、「南京事件の総括」謙光社読んでね、HP作者より。)に対しても、秦氏は同様混同している。本著の中に「一部の不心得の兵の(風紀)紊乱」とか「日本軍にも軍紀風紀の弛緩があり、掠奪・暴行・強姦など、この掃討戦前後に行われたであろうことを私は否定するものでない」とあるのをとらえて、本の題名と矛盾する“羊頭狗肉”だと非難している。(185ページ)秦氏は、暴行・掠奪や軍紀の弛緩を“虐殺”と同意義に解釈しているらしい。この両者のけじめがつかないのである。これは秦氏ひとりのみでなく、洞氏を始め大虐殺派の論者の共通の現象のようである。私が最初に、大虐殺とは何か?という定義から考え直す必要があると言ったのはこのゆえんである。(「南京事件の総括」読んでネ)
 松井大将は、宣誓口供書の中でこう述べている。
 「予は、南京陥落後、昭和13年(1937年)2月まで上海に在任せるが、その間、昭和12年12月下旬、南京においてただ若干の不法事件ありたりとの噂を聞知したるのみにて、何等斯る事実につき公的報告を受けたる事無く、当法廷において検事側の主張するが如き大規模なる虐殺暴行事件に関しては1945年終戦後における米軍の放送により初めて之を聞知したるものなることを茲に確言す。
 予は右放送を聞きたる後、我が軍の南京占領後の行動に対して調査を試みたれども、当時の責任者は既に死亡し、又は外国において抑留処罰せられ、諸書類はことごとく焼却せられたる為、10年前の過去にさかのぼりて、当時の真相を仔細に吟味証明することを得ざれども、予は南京攻略戦闘に際し、支那軍民が爆撃、銃砲火等により多数死傷したることは有りならしむも、検事側の主張する如き計画的又は集団的に虐殺を行いたる事実は断じて無しと信ず。
 日本軍幹部が之を命じ、又は之を黙認したりというごときは、はなはだしく事実を誣ゆるものなり。」(法廷証第3498号)。
 ちなみに、南京裁判で銃殺刑に処せられた第6師団長谷寿夫中将も、「起訴書提示の其他事項に対する申弁」でこう述べている。
 「被告(谷)が南京暴行事件を知りしは、一昨歳(昭和20年)終戦後新聞紙上にて一読せるに始まり驚愕せり、該戦闘に参加せし被告さえ全然初めてこれを聴けるなり。」(『南京作戦の真相=熊本第6師団戦記』232ページ)。
 この2人の証言は、信憑性あるものとみて間違いなかろう。つまり「南京大虐殺事件」なるものは、軍司令官も師団長も知らなかった事件なのである。
 絞首刑を前に花山信勝師に松井大将が語った言葉は日露戦争当時の日本陸軍の軍律の厳しさにくらべて、支那事変以降日本軍の軍紀風紀に弛緩があったことに対する詠嘆であって、決して「南京大虐殺」を容認したものでないことは、本文を一読すれば容易に理解できよう。

責任は回避せず

東京裁判で死刑判決を受けた瞬間の松井大将(昭和23年11月12日) 松井大将は東京裁判での検事との応答でも、ノラリクラリ逃げていたわけではない。しかるに秦氏は法廷での松井大将の「権限と責任」のあいまいさを衝いている(前掲同書39ページ)。
 この問題については、牛村圭氏が「正論」4月号(61年)に『責任は回避せず=東京裁判での松井大将』という論文を発表されているので詳細はこれに譲りたい。この論文は、丸山真男氏が、ノーラン検察官の松井に対する反対訊問の一部を引用して、「自己にとって不利な状況のときは何時でも法規で規定された厳密な職務権限に従って行動する専門官吏(Fachbeamte)になりすますことができるのである」といって、松井の答弁が「権限への逃避」の好例だと主張したのに対し、牛村氏がこの反対訊問を洗い直し、松井大将はちゃんと「責任は回避せず」と明言しているではないか、それなのに、丸山氏はこの箇所を「中略」としてわざと欠落させて、松井大将を誹謗しているのは首肯できないと論じているのである。その箇所を引用すると次の通りである。
松井証人 私は方面軍司令官として、部下を率いて南京を攻略するのに際して起こった全ての事件に対して、責任を回避するものではありませんけれども、しかし各軍隊の将兵の軍紀、風紀の直接責任者は、私ではないということを申したにすぎません。

 牛村氏は、丸山氏の資料操作上の不公正さを指摘したうえで、この論文の最後をこうしめくくっている。
 「松井石根が『自らの(道義上の)責任は回避せず』と明言している箇所に対し、松井の人格を歪曲する様な削除を加えた後、これは『権限への逃避』であり、このように日本の旧指導者たちは『矮小』だったのだ、と丸山氏は指摘する。だが、速記録を虚心坦懐に解釈して、そこに道義上の責任は決して回避せぬが、日本陸軍の法規ではこうなっていると説明しているのだ、と覚悟を決めた老将軍の姿を認める方が、はるかに自然な解釈であろう。」
 東京裁判史観の呪縛から脱しきれない丸山氏にしても、秦氏にしても、史実をことさら色眼鏡で見たり、斜かいに読んで、“虐殺”の方向に、あるいは旧軍人や軍隊の欠陥を、史実をわい曲してまで、ことさらにあげつらうことに熱心である。実に情けない事だと思う。
 たしか小林秀雄氏だったと思うが、歴史はわれわれの祖先が築き上げた足跡である、これをジロジロと自虐的検察官の眼をもってあばきたてるような見方でなく、母親が愛児を追慕するような慈愛の心で、その当時の環境や状況、立場、心情を理解すべきであるといった意味の史観を述べていたことを記憶する。まことに至言である。
 南京事件は松井大将の言うとおり、各軍隊の将兵の軍紀・風紀の取り締まりや摘発、処罰に関する直接の責任は憲兵隊や法務部を掌握している軍司令官にあり、師団長にある。上海派遣軍司令官は朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ)中将であり、第10軍司令官は柳川平助中将であった。柳川中将はすでに死去している。人一倍皇室崇敬の念に厚い松井大将が、その累の朝香宮に及ばざることに、いかに暗黙裡に心を砕いていたかが容易に想像できよう。 

天皇から嘉賞のお言葉

 秦氏は、「諸君!」(59・9)寄稿の『松井大将は泣いたか?』でも、最近発刊の『南京事件』(「中公新書」)でも、南京事件のかどで松井大将は参謀総長から「戒告」され、司令官を更迭せしめられたと述べている。もっとも「諸君!」掲載のあと筆者が、「週刊・世界と日本」(60・4・22)で反論したためか、ややトーンを落として『南京事件』では「天皇から親補された出征軍の最高指揮官が、天皇の幕僚長からこの種の要望を受けたのは異例で、事実上の『戒告』に相当すると言ってよいだろう。」と述べている。(173ページ)。
 偕行社の機関雑誌「偕行」に連載された『証言による南京戦史』の最終回に、加登川幸太郎氏が『その総括と考察』を書いている(60・3)。それまでの過去11回は畝本正巳氏が史実と参戦者の証言を追って“南京で何が起きたか”を丹念に記述してきた。この連載を読んだ人は、読むにしたがい、ちまた伝えられるような大虐殺などないと確信したに違いない。しかし加登川氏の総括的考察を読む限りにおいては、ちまた言われているものと同じあり、個人的推測の虐殺人数をあげ、「中国から何と告発、非難されようと非はわれわれの側にある」「中国人民に深く詫びるしかない、まことに相すまぬ、むごいことであった」と詫びたのである。つまり虐殺派同様、数は少ないが虐殺肯定の総括をしたのである。
 当然のことながらこの加登川史観に対して、全国の偕行社会員からきびしい反論があったが、「偕行」編集部は「詫びたのは加登川個人である」と言い逃れた。その経緯や加登川論文の批判はここでは省略する。
 私が言いたいのは、この中で加登川氏は「異例な参謀総長の訓示」と題して、凸版を使い、当時、参謀総長閑院宮載仁親王の訓示の全文を掲載し、さらに、当時この訓示を起草した作戦課長河辺虎四郎大佐の回顧録『市ヶ谷より市ヶ谷へ』(昭和37年)を引用した上で、これは秦郁彦教授から聞いた話であるがと前置きして、「松井大将は参謀総長の“戒告”を読んで泣いたとある。この参謀総長の“戒告”というのが、前出の参謀総長の御要望を指すのか、別に『お叱り』のお言葉があったものか判らない」と述べている。加登川氏によると、中央では南京事件におどろき、これを憂えて参謀総長が異例の訓示を出し、松井大将を“戒告”したというのである。
出征前、明治神宮に参拝する松井大将。 すなわち次のごとく言う、「南京事件の対策のためアメリカ班の西義章中佐や本間雅晴第2部長が事情調査のため急きょ南京に向かったという。こうした現地調査で確認の上に参謀総長の訓示が出されたものであろうか?とにかく南京事件はその当時、すでに軍にとって大きな問題として扱われたようである」と。
 秦氏も加登川氏も、松井大将は参謀総長から「戒告」され、または別の「お叱り」をうけて泣いたといい、さらに当時南京事件は軍の中央部でも大きな問題であったというのである。
 私はこのことがどうしても腑におちないのである。松井大将は参謀総長から「戒告」されたというが、天皇から親補された出征軍の最高指揮官を「戒告」できるのは天皇以外にはないはずである。しかるに松井大将は、その天皇陛下から優渥なる「嘉賞」のお言葉を頂いているのである。話はあべこべである。
 松井大将日記によると、内地に帰還した大将は、昭和13年2月26日、葉山御用邸に伺候して出征以来の軍状を復命するのであるが、日記にはこう書かれている。
 「陛下には特に予に対し優渥なる勅語を賜ひ感激恐懼に耐えず、又銀製花瓶一対及金七千円を賜い、宮内大臣、内大臣に依りて賜餐あり・・・・・」
 そのときの優渥なる勅語とは次の通りである。
 卿前(さき)に上海派遣軍司令官に任じ次で中支那方面軍司令官としてこん外(筆者注・国境の外に出征する軍隊のこと)の重任を荷ひ錯綜(さくそう)せる国際関係と困難たる戦局との間に処し克く皇軍の威武を中外に宣揚せり 朕親しく復命を聴き更に卿の勲績と将兵の忠烈とを惟ひ深く之を嘉す

 戒告ではなくて身に余る嘉賞のお言葉をいただいたのである。
 秦氏は松井大将に何の恨みがあるか知らないが、「松井の責任は動かせない」とか「彼は東京裁判で死刑にされたのは当然」とか「参謀総長から“戒告”され、そのため軍司令官を更迭せしめられた」と述べている。
 私は前出の「諸君!」4月号(昭和60年)の『「南京大虐殺」の核心』という座談会(出席者・洞富雄、秦郁彦、鈴木明、田中正明、司会半籐一利の5氏)の時、松井大将は天皇から優渥なる嘉賞のお言葉を賜っていると披露した。4人は納得しかねると言った顔つきであった。ことに秦氏は、前述の河辺回想記に、「私(河辺)が起草した“戒告”を読んで松井大将は泣いたときいた」とあると、回想記を紹介してこう述べた。
 「嘉賞の言葉とは戦闘行為に対するもので、戒告の方は非軍規的行為に対するものと私は考える。・・・戒告と嘉賞が同時に出るというのは、当時の日本の姿を象徴していますよ」
 一知半解とはこのこと、まさにお笑いぐさである。
 要するに秦氏は、あくまで南京アトロシティで松井が戒告され、左遷されたとしなければ気がすまないようである。

井本熊男参謀の証言

 そこで私はこの間の事情について、当時参謀本部作戦課で河辺虎四郎大佐のもとで勤務していた井本熊男氏に尋ねてみた。井本氏はのち大本営作戦主任となり、ガダルカナル撤退命令を身をもって第17軍司令部に伝えたことで有名。上海第11軍高級参謀も歴任し、著書もあり、頭脳すこぶる明せきで、記憶力も抜群である。私はぶしつけとは思ったが書面をもって次のような6項目について質問を申し上げた。これに対し井本氏から400字詰め原稿用紙10数枚にわたって懇切な回答をいただいた。紙数の関係もあり、要点を抄出して読者のご理解を得たいと思う。

質問1 参謀総長は派遣軍司令官に対して懲罰することができましょうか?

答え 懲罰令によると、軍隊における懲罰権は、中隊長以上の各級指揮官のみに与えられていた。参謀総長は軍隊指揮官でないので軍隊に対する懲罰権はない。松井中支那方面軍司令官が懲罰を受けるとすれば、松井将軍は天皇に直属しているので、大元帥たる天皇に罰せられることはない。

質問2 河辺課長の「戒告」というのは懲罰の意味なのか、それとも単なる作戦上の「訓示」なのか、お伺いします。

答え 懲罰の意味でないことは前述の通りです。私はいましめを含んだ要望的なものであったと思っている。そのいましめを含んだ要望的なものを何というかについては、一定の規定は別になく、事柄の性質、与える人(対象)との関係によって訓示、戒告、訓戒、要望等が当時一般に用いられていたものと思う。
 その内容は作戦の実行(兵力の運用)に直接関連することが多かったが、軍紀風紀の厳粛維持は作戦実行(統帥)上極めて重要なことで、軍隊の軍紀維持は各級指揮官の責務であったので、それに関して指示することも当然可能であった。この指示を行う権限を便宜上参謀総長の「指示権」と言います。この指示権が前記の訓示、戒告、訓戒、要望などを与え得る法的根拠であったと私は思っている。
 河辺虎四郎著の「戒告」は「指示」と言っても一向差支ないのですが、事柄が通常作戦に直接関連することを示す指示と若干異なるのでそれに適応する慣用の語を用いられたものと思う。河辺さんが『市ヶ谷から市ヶ谷へ』という回想録に「戒告」という言葉を用いたことが今回議論の種を蒔いたことであったならば参謀総長に懲罰権がない以上河辺さんが起案するはずはありません。
 ちなみに、将校に対する懲罰令の罰目は、重謹慎、軽謹慎、譴責の3つと記憶しています。

質問3 河辺課長の起案されたのは「偕行」3月号に凸版写真に出ている北支、中支の軍司令官あての文章とみていいでしょうか?

答え 河辺作戦課長起案の所謂「戒告」は、偕行60年3月号16ページの「異例な参謀総長の訓示」という見出しによって掲載されたもの、及び同17ページ上2段に通しで凸版写真で出ているもの(いずれも全文ではないが)であると私は見ています。これは中支那方面軍司令官と北支方面軍司令官との両方に同文が宛てられたものである。(中支へは1月4日、北支へは1月7日と日付は異なる)
 この文章には標題はなく、いきなり本文を記述して、最後の結びの所で「・・・切に要望す」と記してあります。これから見ると敢てこの文書に標題を付するならば「要望」であったと思う。これをそのまま受けて中支那方面軍司令部は「・・・・別紙の如き要望を賜りたるに就いては」の依命通牒が出されている。
 この文書を「偕行」編集部は訓示といい、河辺中将は戒告と言っている。そのため混乱した議論が今日行われているのであるが、原本に従えば「要望」というのが最も率直であると思う。
 私はこの「要望」の外には松井方面軍司令官宛に別の「戒告」等というものは発せられていないと思う。当時、松井方面軍の特殊な軍紀問題(いわゆる南京事件)など中央部では何も問題が生じていなかったと思う。「偕行」17ページ下段に「(松井大将に対し)別にお叱りのお言葉があったものかは判らない」とあるが、私はないと信じている。

質問4 この文書と直接南京人事との関係、つまり南京で捕虜や一般民衆に対する大虐殺が行われたという海外からの抗議、または調査の結果、あるいは噂を耳にした参謀本部が驚き、このような通牒を出したり、使者を派遣したものかどうか?

答え そうでなく、支那事変当初から北、中支にわたり軍紀の厳粛でないことが我が軍側の色々な出所から中央部に伝わっていた。そのため調査員を派遣して実情を調査せしめたこともあったが、具体的な全貌はわかっていなかった。外国からの非難や抗議によって左右せられることは、対中国民衆の軍紀問題では全然なかったと思う。ただ米英の軍艦などに対する砲爆撃や第3国人の人命財産に対し危険を及ぼしたことに関する抗議については、陸海軍(特に海軍)においても相当気を使い、調査もし、外交的処置をしたことはあり、これも軍紀問題と言えば言えるが、中国民衆に対する各種暴行・殺害を主とする軍紀風紀問題とは異なる。所謂南京事件の問題がやかましくなったのは、戦後国際軍事裁判以後のことで、当時は軍中央部においても、また軍全般もこの問題に強く関心を引かれるようなことはなかった
 私は当時若干このような問題を耳にした記憶があるのみで、具体的に問題をくわしく知ることはありませんでした。しかしおぼろ気な印象は今でも残っており、以上の記述には間違いはありません。
<筆者注>当時参謀本部第1課長(教育担当)へ転任した遠藤三郎大佐(のち中将)は「『出張だったせいか、南京虐殺は耳に入らなかった』と後に語る。日記にも関連記述すらない」と毎日新聞『将軍の遺言=遠藤三郎日記』=56回にある。

質問5 「偕行」編集部は私に、懲罰令にはなくとも慣例によって「戒告」という罰を加えた例が他にもあり、松井大将の「戒告」もこれに当たるのではないかと言いますが、いかにもへりくつと思われます。いかがでしょうか?

答え その通りであって、殊に戒告を懲罰(戒告)は懲罰令にはないが慣例として行っていたという見解がもしあるならば、それは全くの誤りであります。勅令で制定されたこの冷厳な規則(懲罰令)に慣例によって別の罰目を加えるなどということがあろう道理がない。(以下略)

質問6 松井軍司令官はじめ柳川、朝香両司令官および幕僚の更迭はいわゆる“南京事件”とは無関係と存じますがいかがでしょうか?

答え 全く無関係です。
 外征軍は目的を達成すれば成るべく速やかに復員して帰還させるのが理想で、この考え方はこの時にもあった。敵国首都攻略の一段落を迎え、しかも更に進攻の考えの無かったこの時点において中支那方面軍の陣容を整理して可能な限り簡素な兵力組織とし、その余剰兵力は復員するか、北支方面に入れて、もし、対ソ戦略上必要が起こったならば、満州方面への転用を容易にしようとする兵力処理が行われました。私は当時参謀本部作戦課の最下級部員でしたが、この兵力のやりくりを考察するのが主務でありましたので記憶は確かです。
 さらに松井、柳川両将軍は既に予備役にはいっておられたのを召集によって軍司令官を任命せられたのであるから、任務一段落と共にその召集を解除して、爾後(じご)その卓越した大きな力を政治的乃至公的の活動に発揮していただく必要があったのであろうと思います。朝香宮殿下は現役ではあるが、この作戦に戦功をたてられたので内地にご帰還の上軍事参事官となられた。
 以上の理由による更迭があったのみで、所謂南京事件との関係は皆無でありました。
 ちなみに、右各軍の幕僚は、司令官が復員してなくなるからには、どこかへ配属換えせられるのは当然であり、その大部分は当然戦場において配属換えとなった次第です。
 この事実(所謂南京事件と無関係)の証明として、松井大将はこの作戦の成功により天皇から御嘉賞のお言葉を賜り、さらに昭和15年の論功行賞によって功一級という軍人最高の栄誉に浴せられている。若し左遷的人事処理であったならば、こんな栄誉はあろうはずはありません。

 まことに理路整然、一点の疑いの余地も入れることを許さないご回答である。秦郁彦氏や加登川幸太郎氏、その他「虐殺派」の人たちの言う松井大将はいわゆる南京事件のため、軍中央から戒告された、あるいは何らかのお叱り(懲罰)を受けた、軍司令官を左遷させられた、または南京事件のため中央は狼狽(ろうばい)して、本間雅晴第2部長らを派遣したり、そのため、異例の参謀総長の訓示が出されたのだ・・・・等々がいかに事実のねつ造であるか、読者諸彦にもこの井本氏の明解なる証言でご理解いただけたものと思う。


パール判事は松井大将を東京裁判で評した…

 東京裁判のねらいが、戦場における日本軍隊の残虐性を世界中に宣伝し、日本国民の脳中に拭い難い罪悪感を烙印することがその一つであったことは前に述べた通りである。このために、おびただしい証拠と証人が市ヶ谷の法廷に集められた。
 パール博士はきわめて冷静に、注意深く、これらの証拠と証言に耳をかたむけた。博士はこれらの証拠および証言の多くが、伝聞証拠であり、連合国側の現地における一方的な聴取書であることを指摘したのち、つぎのように述べている。
 「戦争というものは、国民感情の平衡をやぶり、ほとんど国民をして気狂い沙汰に追い込むものである。同様に、戦争犯罪という問題に関しても、激怒または復讐心が作用し、無念の感に左右されやすい。ことに戦場における事件の目撃者というものは、興奮のあまり、偏見と憶測によって、とんでもない妄想をおこしやすい。われわれは感情的要素のあらゆる妨害をさけ、ここにおいては戦争中に起こった事件について考慮をはらっていることを想起しなければならない。そこには、当時起こった事件に興奮した、あるいは偏見の眼を持った観測者だけによって目撃されたであろうという特別の困難がある。」として、いくつかの例をあげ、目撃者と称する証人の証言の矛盾を指摘している。
 「さらに戦争中勝利を得、戦時俘虜を捕獲するに成功した交戦国は、本件の起訴状に訴追されている性質の残虐をおかしたとみなされる可能性がある。究極において敗戦した場合には、敗戦そのものによって、そのもっとも邪悪な、残忍な性質が確立されるものである。もし刑罰がここに適用されるものでなければ、どこにも適用されるものではないとわれわれは言い聞かされている。われわれはかような感情は避けなければならない。」
 「当時の新聞報道あるいはそれに類似したものの価値を判断するにあたって、われわれは戦時において企図された宣伝の役割を見逃してはならない。本官がすでに指摘したように、敵を激怒させ味方の銃後の者の血をかわし、中立国民をして憎悪と恐怖を抱かしめる方法として、想像力を発揮するための一種の愚劣な競争が行われるのである。われわれはこれに目を奪われてはならない。」と述べている。
 いかんながら、戦場に酔い、敗戦に酔い、敗戦に打ちひしがれた当時の日本国民には、博士のような冷静さと注意深さをもって、連合国の企画された宣伝の役割を見抜くことができず、日本軍隊の鬼畜にもひとしい残虐行為のみが、彼らの宣伝の額面どおりに鵜呑みにされたのである。そして、あたかもこれらの東南アジア全地域にわたるおびただしい日本軍の暴虐行為が、すべて25名のA級戦犯の被告の命令によって行われたごとく錯覚させられ、その処罰は、人道上当然の事とされたのである。
 松井石根被告(元陸軍大将・中支派遣軍司令官)は、南京の暴虐事件の責任だけで死刑に処せられた。訴因の第一から第54までは全部無罪で、第55のみが有罪であるとして絞首刑となったのである。
 松井被告に対して、多数判決は「・・・これらの出来事に対して責任を有する軍隊を彼は指揮していた。これらの出来事を彼は知っていた。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務を持っていた。同時に、その権限をももっていた。この義務の履行を怠った事について、彼は犯罪的責任がある。」と断じたのである。
 これに対してパール判決は、提出された証拠にもとずいて、次のように述べている。
(1)、1937年12月1日、大本営は中支方面軍に対して、海軍と協力して南京を攻略せよと命令した。
(2)、当時、病気中であった松井大将は、南京から140哩離れた蘇州において、参謀と協議のうえ病床でこれを決裁した。
(3)、12月7日、上海派遣軍に対して別の司令官が任命された。すなわち方面軍の任務は麾下の上海派遣軍と第10軍との指揮を統一するにあって、軍隊の実際の操作および指揮は各軍の司令官によって行われた。
(4)、各軍司令官には参謀および副官のほかに兵器部、軍医部および法務部などがあったが、方面軍にはさような部は無かった。
(5)、それでも松井大将は南京攻略を前にして、全軍に対し「南京は中国の首都である。これが攻撃は世界的事件である故に、慎重に研究して日本の名誉一層発揮し、中国民衆の信頼を増すようにせよ。・・・でき得るかぎり一般居留民ならびに中国民衆を紛争に巻き込まざるように常に留意し、誤解を避けるため外国出先当局と密接なる連絡を保持せよ」と詳細なる訓令を出した。塚田参謀長ほか16名の参謀は先の訓令を全軍に伝えた。
(6)、前記の訓令と同時に「南京城の攻略および入城に関する注意事項」が伝達された。それには軍規風紀の厳正を伝え、外国の権益を犯したもの、略奪行為や、火を失する者は厳重に処罰すべしと命じた。
(7)、12月13日南京は陥落し、病気中の松井大将は12月17日に入城した。そして軍規風紀に違反のあった旨の報告を受けた。
(8)、そこで松井大将は、軍規風紀に違反した第10軍を蕪湖方面に引き返させ、南京警備のため第16師団のみを残留させた。そしてさらに、さきの命令の厳重なる実施を命じた。
(9)、みずから上海に引きあげた松井大将は、南京警備のために残した部隊に不法行為のあることを聞き、3度、軍規風紀の厳正ならびに違反者の罰則、損害の賠償を訓示した。
 「かように措置された松井大将の手段は効力がなかった。しかし、いずれにしてもこれらの手段は不誠意であったという示唆にはならない。本件に関連し、松井被告が法的責任を故意かつ不法に無視したとみなすことは出来ない。検察側は、処罰の数が不充分であったことに重点をおいているが、方面軍には違反者を処罰することを任務とする係官も法務部も配置されていなかった。」と具体的に無罪の根拠を明らかにしている。松井大将もこれではじめて晏如として地下に眠ることができよう。
 筆者は昭和8年から筆者が応召する17年12月まで、約10年間を、民間人として松井大将の下で働いた。ある時は松井大将に東京・池袋のサンシャイン60横の東池袋中央公園内にあるA級戦犯の碑。(元巣鴨拘置所跡)随行して、台湾、香港、中南支全域にわたり旅行したこともある。この時筆者が受けた強い印象は、大将がいかに中国を愛し、中国の指導者や民衆と解け合っていたかということである。陸大を卒えると、みずから志願して中国へ飛び込み、先輩の荒尾精や根津一、川上操六、明石元二郎らの遺鉢を継ぐのだと言って、そのまま生涯の大部分を中国の生活に没入した軍人である。中支派遣軍司令官の任を解かれ、南京入城の凱旋将軍として東京に帰ったが、大将は快々として楽しまなかった。アジアの内乱ともいうべきこの不幸な戦争で倒れた日中両国の犠牲者を弔うために、わざわざ人を派して、最大の激戦地である大場鎮の土をとりよせ、これで一基の観音像を作った。これを、熱海市伊豆山の中腹にまつり「興亜観音」と称した。その御堂には、日中両民族が手をとりあって、観世音の御光の中に楽土を建設している壁画を何枚かかかげ、みずから堂守りとなって、そこに隠棲した。読経三昧の静かな明け暮れであ った。終戦の翌年の正月、戦犯という汚名をきせられて、大将はそこからMPに引き立てられていった。家には文子夫人一人が堂守り生活を続けていた。施無畏の信仰に悟入した大将の2年余の獄中生活は、まことに淡々たるもので、あまり上手くない和歌や漢詩などを作っていた。朝夕の読経は死刑執行のその日まで欠かさなかったそうである。死刑の宣告を受けてから筆者への手紙に、わが全生涯をかたむけて中国を愛し、日中親善のためにつくした自分が、わが愛する中国人の恨みを買って死につくことは皮肉である。しかし、誰を恨み、何を嘆こうぞ、これで何もかもさっぱりした、このうえは自他平等の世を念じつつ、一刻もはやく眠りにつきたい、という意味の遺書がよせられた。
 その夜、大将は天皇陛下万歳の音頭をとり、しっかりとした足どりで、13の階段をのぼったそうである。
 つい筆がすべって余談になったが、筆者が言いたいのは、この松井大将が、どうして、中国の民衆を大量虐殺せよ等ということを「命令し、なさしめ、かつ許す」はずがあるであろうか?
 このことは他の24名の被告に対しても言える事であろう。死者は還らない。だが、復讐の鬼となり、あえてこれを死に至らしめたものの心は永久に癒えないないであろう。(田中正明著「パール博士の日本無罪論」慧文社より)写真は巣鴨プリズン跡の碑 


興亜観音神社と興亜観音の写真

興亜観音像
松井大将が建立した興亜観音(熱海・伊豆山)
興亜観音神社
興亜観音神社 熱海市伊豆山1136пE0557-80-0738(バス)伊豆山行・乗り場(9)20〜30分興亜観音前まで200メートル(タクシー)約1000円・山の中腹まで登る
A級戦犯刑死者7名をまつる「七士之碑」(右)揮毫は吉田茂元首相。中は白菊会関係の戦犯刑死者1068名をまつる碑。左は大東亜戦争戦歿将士の墓。

右が、興亜観音像。
 上左が興亜観音神社。
左写真は極東軍事裁判(東京裁判)にて処刑された、7人のA級戦犯の遺骨が埋められている「七士之碑」(右の碑)。
 中の碑は戦犯刑死者1068名をまつる碑。左は大東亜戦争戦没者の碑。
 
 (松井大将辞世)
 世の中に のこさばやと 思う言の葉は 自他平等 誠の心


ウオーカー中将の因縁

 東條英機、松井石根ら7戦犯の処刑執行責任者は、日本駐留軍司令官ヘンリー・ウオーカー中将でもある。彼が刑の執行を命令し、絞首刑のあとその死を確認し、その夜七7人の遺体をトラック2台に積んで、護衛をつけ、久保山火葬場まで運搬し、厳重に憲兵を配置して火葬に付した、その最高責任者である。そしてどこにどうやって捨てたか知らないが、その骨を宗教的儀礼もなく、馬の骨でも捨てるように捨てて処理した――、そのすべてをはたした最高責任者がウオーカー中将である。
 昭和25(1950)年、朝鮮戦争がはじまり、ウオーカー中将も兵を率いて韓国におもむいた。北鮮の侵略軍は、38度線を突破して雪崩のごとくソウルを占拠し、さらに南下を続け、洛東江を超えて釜山に迫った。このときウオーカー中将の率いる米軍は、仁川に上陸して北鮮軍の背後を衝いた。戦闘は苛烈をきわめた。
 12月の暮れもおし迫った雨の夜のことである。ウオーカー中将が戦場視察のため、断崖絶壁の雨にぬかるむ海岸道路を走っている時、後ろから友軍の貨物自動車の追突をうけた。トラックのスピードがよほど激しかったとみえて、この玉突き衝突で中将の車とその前を走っていた車と2台の車が、もんどりうって数10メートル下の渚に転落した。アッという間もあらばこそ、かれとかれの部下はあえない最後をとげてしまった。
 なんとその日が、東京裁判での7戦犯の祥月命日、12月23日、しかも落命したときが午前零時過ぎ、奇しくも死刑執行の同じ日、同じ時間であった。3年後の昭和26年の出来事である。まる3年目の7人の命日の日の出来事であった。
 マッカーサー元帥はじめ米軍の首脳たちは、この時はじめて、怨霊の恐ろしさを知りふるえあがったという。
 生き残ったウオーカー中将の副官が韓国将校から、A級7士の処刑とウオーカー中将を含む7名の数的因縁、祥月命日の因縁の説明を受け、沸家でいう怨念の恐ろしさと因縁の神秘さを教えられた。これを聞いておそれおののいた副官は怨霊を供養するために、「法要」をいとなむつもりで、翌年5月、1人で興亜観音を訪れた。英語だけの会話で、堂主伊丹忍礼師を困惑させた。急拠、熱海警察署および市役所から係官が出向いてきて、米軍将校の意を了解することが出来たという。
 興亜観音奉賛会や7士の遺族たちは、このウオーカー中将(死後大将に昇格)の頓死をあわれみ、「興亜観音に恩讐のへだてはない。恩親平等だ、それが松井閣下のこころでもある」そういって、ウオーカー中将以下7人の霊を供養する墓標を、霊仏観音のかたわらに建て、ねんごろに法要をいとなんだ。


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