1998年12月
以下のものは1997年6月某日に書かれた。その冒頭一部分は”らくがき帖”の
最も初期の部分にも掲載してある。これは個人的感覚からだと、掲載するべき
ではないものかもしれないが、ひとつは私という人間について興味を持つ人
(がもしいるのであれば)へ向けての部分的な情報公開であり、もうひとつは
私自身が過去の自分を観察してみることでもある。私の自己観察では私は
もはや以下の文章のような人間ではないような気がするけれども、それを私が
書いたことは事実であるし、少なくとも当時はそのような”気分”であったと
いうこともまた事実である。
こういったものはこれの他にはほとんど残っていないので、過去を辿るには
現在となっては記憶に頼るしかないが、いくら鮮明な記憶が残っていたとして
も、その”当時の気分”になることは不可能なので、今後過去について描写
するとすれば、それは”現在の視点”からということになる。
書簡1 1998年6月著
八番街といったら、あたり前だけれども七番街のとなりにあたるわけで、
それはここが車の通りが多くてにぎやかだということを意味している。
知ってのとおり、七番街や五番街、ブロードウェイというのはこの街の中心
だしね。まあ、さすがに人通りは少ないけれども。今や水曜日の午前二時
だし。これを書いている、この便箋のある机の上は色々なもので散らかって
いて、どうして僕は片付けないんだろうと思う。まず左にウィンストンライト
があって、眼鏡、灰皿、その斜め上にはコーヒーカップ、そして机の左端で
四角いガラスの器に入れたロウソクが音もなく燃えている。その炎は時折
ゆれているのだけれども。時計やらスーパーのレシートやらピーナツを入れ
た器やら爪切り、カミソリ、くしゃくしゃのティッシュ、本、本とありとあらゆる
ものが秩序なく散らかっているな。とにかく、ごちゃごちゃだ、ということは
解ってもらえるだろうよ、ね。ハマグリの貝殻の片割れが置いてあって、
その中には数枚のピックがある。このハマグリは一昨日の多分前の日
に食べたんだよ。デカイのを六個ほどね。その時の僕の食欲ったらまったく
たいしたもんで、”ゾウリ”のようなステーキを二枚と、そのハマグリと
さやえんどうを半パウンドばかし、そしてイタリアンブレッドと、デザートに
メロン半個を食った程だったのさ。いや毎日そのくらいくらい食ったら、少し
はTシャツジーパンが似合うようになるってものだろうけど、その前に大蔵省
とも相談せねばなるまいね、日本と比べたらそりゃ安いことは安いけれど破格
ってわけじゃない。でも、男もののゴム草履くらいのステーキ用肉が三ドル
程度、というのはありがたい。ただしダイエットしている人が多くて、そう
いったステーキを食っている人を見かけたことはあまりないんだけれども。
ここへ来て、気がつくと(いや、いつも気がついている)ニヶ月半も経っち
まっている。外国に住む、というのは初めての経験なのだけれども、ここが
都会のせいか、今となっては俺は外国にいるんだ、なんていう喜び、というか
興奮というか、そういうものはまったく感じられない。それに日本語も遠くない。
それで時々、橋へ行ってみるわけだ。橋っていうのはブルックリン橋のこと
であって、知ってるかもしれないけど、橋脚が石積みの美しい吊り橋なのさ、
最近晴れた日だと日の入りは夜九時くらいなんて時間なんで、夜十時ころに
摩天楼の夜景を観に出かけてゆくわけです。なにせ、僕はその絵一枚でここ
まで来ちまったんだからね。確かに美しいことは美しいんだよ。毎日これを
眺めながら暮らせるアパートへ引っ越せたらどんなにいいだろうと思う。
でも、ただそれだけのことなんだ、ってことに気がつかなくちゃいけない。
確かに美しいけれども、それ以上の意味もないし、それ以下の意味もない、
ってことにね。これは夢だ、夢だとしか思えない、という言葉が当てはまるん
だよ。僕が何を言いたいかというとだな、マンハッタンの中で生活してみれば
嫌でもわかるのは、ここはとても人間臭い街だっていうことさ。いや、人間
臭いなんてもんじゃない、真に人間の為の街なのさ。人間は眠るし、食うし、
セックスもするし、恋愛もするし、ケンカもするし、そして働く。怒ったり
笑ったり、泣いている人はほどんど見たことないな、それから親切もあれば
不正もある。これらがゴチャっと混ざっているのがマンハッタンであって、
その美しい夜景は全然無関係なのさ。この点見事に僕の見積もり違いという
か、まあ、あたり前のことなんだけど、それでも夜景を眺めにゆくと、この何
でも丼みたいなところに帰ってくるのに抵抗を覚える。それでも皆がロボットの
ように見えるという東京よりはマシなのだろうか?!ここに数年住んで東京
に戻ると、それはそれは恐怖感を感じるらしい。東京駅に独りでいるなぞ、
狼の群れに囲まれている子羊のような気分にさせられるそうだ。何となく
わからんでもないが。僕に言わせれば、逆にここにいると、いつでも裸にされ
ているようなもので、これは良いことと解っていても逆におびえる要素にも
なりかねないな。ムキ出しの人間というのはそれ程美しいとは限らない、と
僕は思う。この齢にして、日本人として日本で二十六年間も暮らしてきたから
かもしれないが。こういうところこそ人類補完計画とやらが必要なんじゃな
いか?いや、こういったくだらない話はやめよう。僕は小説を書いているつもり
じゃないのだし。と、いってこれは何か、と言われると、はて、と考えては
しまいますがね。誰か宛ての私信、もしくは僕宛ての私信、といったところか。
誰か、といったら、ほら、君しかいないじゃないか、今、君が読んでいるよう
に。それは多分ただ単に僕に友達が少ないということに原因するのだけれど。
しかし実際、こんなものを君に読ませることによって僕は何か得られるのか?
というと何もないよね。君に”何らかの効果”を与えることを期待しているのかも
しれない。何の為に?まったくもって理由が発見できない。まあ、いいさ。僕は
別にラブレターを書いているわけでもなければ、これから借金のお願いをする
わけでもない。ふとした衝動というのは、この手のことの十分な動機になり
得る。ただし実行しない人が多いとは思うが。僕は少なくとも君がこうしたこと
を理解してくれることを期待している。同意する、しないは全然別問題で。
僕はそしてこうしたことから足を洗うべき、すなわち外へ向かうべきことは十分
承知しているのだが、いや、外じゃなくてもっともっと内へ向かって僕自身の内
で完結すべきなのだな、はっきりした形を示して。しかし同時にこうしたことを
打ち明けることのできる友人がニ、三人真から欲しいものだ。すごおく格好
つけて作家風に言うとすれば、”文学的素養の上に判断してくれる友人”とでも
言うか。僕にそんなものがあるかどうかもわからんが、何せ独断、偏見だから
ね。しかし君は、こういったことは”もう、うんざり”というのがいつもで
あろうことは僕は十分承知しているつもりで、だからこれでも自制はしている
つもりなんだ、本当に。かと言ってソウメイな君のことだ、僕のおべんちゃら
なぞはあっというまに見破ってしまうだろうから、いや、だからこそ、こうした
ことについて君の意見を頂戴できるのであれば、それはどんなにか僕にとって
訓練になることだろう。君がそれをしないことも明らかだが。
僕は数年前からはデコレーションケーキのデコレーションよりも、そのスポンジ
の部分(クリームの品質も含めて良いかもしれない)が本当に大事なことは
心得ているし、僕らは真にそれを捜しているんだよね。勿論、君の求めるそれ
と僕のそれとは随分異なっているだろうけれども。解っている、解っている、
何もこうしたことをいちいち説明する必要のないことは、だからと言って二十四
時間三百六十五日、態度、すなわち動作のみでそれをやろうとしたって無理
じゃないか?残念ながら少なくとも僕には不可能だ。
つい筆を進めてしまったが、面白くもないことをずらずら書いたものだ。
僕は、締めくくりにふさわしい話題を探すべきだな。二時間も費やしてしまっ
た。こんな”ずらずら”のために。
大事なことはだな、僕にとって大事なことが十あるとしたら、きっとそのうち
の一つには確実に選ばれると思うのだけど、カリオストロの城で銃弾に倒れた
ルパンが、二日後が三日後だかに目を覚まして、その後、”食いもんだ、食い
もんじゃんっじゃん持って来い”というところ、その”じゃんっじゃん”て言い方
と、その後の食いっぷり、これなんだよ、これが大事なことなんだ、僕らの人生
において。勿論君はそんなこと解ってたって言うかもしれないけれど、NYに
居るとことさらそれを感じるよ。それは補完計画とやらより百倍大切なのさ、
何故かというと僕らは生きてゆかなくてはならないらしいからね。あの”じゃんっ
じゃん”が我々の新陳代謝を促すんだと思うよ。いや、格好つけてじゃなく、
本当に。幸運を「期待」しようよ。願うんじゃなくってね。幸運を期待する、気の
利いたモットーだと思わんかい?