1998年12月
以下のものは1997年の独立記念日に書かれた。書簡1と同様、これは個人的
感覚からだと、掲載するべきではないものかもしれないが、ひとつは私という
人間について興味を持つ人(がもしいるのであれば)へ向けての部分的な情報
公開であり、もうひとつは私自身が過去の自分を観察してみることでもある。
私の自己観察では私はもはや以下の文章のような人間ではないような気が
するけれども、それを私が書いたことは事実であるし、少なくとも当時はその
ような”気分”であったということもまた事実である。また、書簡1とこの書簡2は
時期もかなり近く、私の中に変化はまったくない。変化が見て取れるのは更に
その後と思われる。その辺りは、1998年12月現在で比較的タイムリーな
”らくがき帖”を参照していただきたい。
書簡1と同様、こういったものはこれの他にはほとんど残っていないので、過去
を辿るには現在となっては記憶に頼るしかないが、いくら鮮明な記憶が残って
いたとしても、その”当時の気分”になることは不可能なので、今後過去につい
て描写するとすれば、それは”現在の視点”からということになる。
書簡2 1998年6月著
僕はベンハーパーを三回ばかし続けて聴いているところで、まあ進行形と
いうわけ。少しばかり感傷的な気分になっているんだけれども、その原因の
大半はこの音楽にあると釈明できるであろうよ。そうさ今日は独立記念日
だったのだけれども僕は何も特別な予定は持っていなかったからだろう。
でもね、こうして部屋で独りでベンハーパーを聴くのはちょっとした用事だよ
な。あまりくどくどは言いたくないのさ、いつものことだけど。影響を受けやすい
僕のことだ、ひと月もしたら飽きちまっているだろうからね。でもしかし、少なく
とも今は、こいつはちょっとばかし僕の心を触ってくれちゃったりなんかして、
いいんだよね。こうしてくだらないことをつれづれと書いていると、本当日本語
に惚れこんでしまうよね。英語じゃこういった喋り方はしないんじゃないかな、
すなわち出来ないんだと思うよ。言語の成り立ちが根本的に違うんだもの。
とにかくこれが日本語の素晴らしい点で、ちょいとカユイくらいな感じに格好
良いところだよね。僕はなんでこんな手紙を書いているかといえば、それは
ただこのレコードがそうさせたとしか言いようがないんだけれども、いや、
これに加える、やはり八枚ばかしの半月前に書いた手紙の為でもあるん
だな。知ってのとおり、一旦こんな口調で喋り始めたら、何か哲学に触れる
ような話題にでも突入しない限り、このいやったらしい喋り方を止められん、
君の気に入ろうと気にいらなかろうと。しかし、その理由はちゃんと説明でき
る。僕はきっと野崎孝の仕事に僕の人生において文学人生的衝撃を受けち
まったわけで、こいつはベンハーパーと違って、ちょっとやそっとじゃ抜けない
のさ。真に同じ体験をかつて僕の持っていた本の中に見つけることができる。
そのタイトルは”マンガの書き方うんぬん”とかいうんだけれど、僕の記憶が
正しければ、確かドラえもんの片割れが描いた本だったんだけど、とにかく
一ページ目をめくると、主人公の少年が漫画本を十五冊程読み終えたところ
で、彼はこう言うんだよ。「ああ面白かった。でももっと読みたいなあ、でも
おこずかいももうないし。あ、そうだ、自分で描けばいいんだ、そうすれば好き
なだけ漫画が読めるじゃないか。」これと、まったく同じさ。はっきり言っちまえ
ば、サリンジャーはもう生きてんだか死んでんだかもわからないし、野崎孝
だってそうさ。しかし君、コピーじゃない、コピーじゃないんだよ。有難いことに
そういった才能は僕にはないんだな。エッセンスと言ったって差し支えないだ
ろう。僕はエスペラント語は解らないし、それと同じように新しい日本語なんて
つくれっこないんだから。でもとにかく、日本語ってすばらしいなあ。そしたら
何故僕はこんなとこにいるんだろう、ねぇ君。まったく僕は僕の期待に反する
人生を歩んでいるよ、十八歳くらいのころから。なんだってこんな中途半端な
歳に外国に渡った(渡ったなんてほど現実は格好良くないんだけれど)んだろ
う。僕はhave toの世界にいるべきなんだと思うよ、今は実際。しかし変なとこ
ろで運があるもので、うまく逃げられちゃったのさ、ドッジボールで十人から
三人くらいまで減ってゆく中生き残っている奴みたいにさ。
僕の机の上の混雑は増々ひどい様相で、その原因のひとつは先日手に入れ
たタイプライター殿が鎮座オワシマスルからなのだけれど、いやいや、明日
あたりは何とかすべきだろう。これじゃあロウソクを燈したって雰囲気の”ふ”の
字もないからね。ああ君、何故に神はこんな人間を創りたもうか!とにかく僕は
応急処置を施さずにはいられない人間らしくて --- ほとんどのことにおいて
だよ、ほとんどのことにおいて --- また、それはしばしば応急処置の範疇を
超えてしまって困るんだよ、時間を費やすことと、集中力を使うことでその後
ひどい疲労を憶えるからね。そして最悪なことは、それはやっぱりあくまで応急
処置なんだな、すなわちダサイのさ、はっきりいっちまえばね。なんで待てない
んだろう。別に恥ずかしいことでもなかろうし、より良いものを求める努力を
そのおかげでしなくなってしまうんだから。何の事を話しているか解るかい、
解らないほうがいい、みっともないことだから。