「何故生きているのか」
1999年7月著
イタリアの山奥の寒そうな写真が最近の私の壁紙になっているけれども、この
写真をぼうっと見ながら、Shut Up `n Play Yer Guitar をCDウォー クマンで聴い
ていたら、ふと、「何故私は生きているのかわかった。」
その「何故私は生きているのかわかった。」は一瞬にしてどこかへ行ってしまっ
て、そのたった1秒後にも、それを追いかけることができない。
(1)
私は「STOP」をかけることができるようになった。
数ヶ月前に、「精神的なイベント」が発生した。これは5年前に起きたもの、そして、
更に11年前に起こったことと同じようなものである。私は苦しみ、私はその苦しみ
がもう嫌だったから、5年前のイベントが落ち着くまでに、 ”もうこれは一生起こらな
いで欲しい!”と願ったものであった。しかし、5年というのは短いようでいて長い。
5年も経つとあらかたの痛みは何処かへ行ってしまう。私はその人間的な痛みに
再び憧憬を持った。それは長く 興ることはなかったが、数ヶ月前に再び起きたので
ある。
私はそれによって再び苦しんだ。苦しみようは5年前も11年前もまったく 変わらな
い。そして、苦しみの最中にある時は、どうやったらこの苦しみから 逃れることが
できるかどうか、ということに支配される。私は数々の試みをし、(それらは効果
的であった。具体的に一つ例を挙げると、ドストエフ スキーの「罪と罰」は私を劇
的に励ました)そして日常世界がなんとか日常 世界に見えるようにまで自分を
引っ張り上げることに成功した。ここで、注目するべき点は、私が「日常世界が
なんとか日常世界に見えるようになるまで自分を引っ張り上げることに成功した」
までに要した時間である。5年前 や11年前の私は、その苦しみから1秒も早く抜け
出したかったわりには、そのための対処を何もしなかったように思う。すなわち、
私はその苦しみを楽しんでいた感がある。つまり、苦しむという非現実に自分を置
くことを客観的に楽しんでいる自分がどこかにいる。しかし、重要なことは、仮に私
が苦しみを楽しんでいたとしても、”日常世界が日常世界に見える”ところに私は
位置していなかったのだから、それは日常生活に非常な困難をもたらしているの
であり、実際、私はその時「独り勝手に苦しむ狂人」なのであって、そんなことを
やっていても世界は私を助けないし(むしろ、私が自らそれを拒否していた)、それ
は私の日常生活を実に非健康的なものとし、建設的ではない日々を過ごすことを
意味する。私はこれを「現実逃避」と呼ぶ。
数ヶ月前に私が苦しんだ時は、私は過去の経験を生かし、現実的になることに
”努力”をした。私は時間を無駄にしたくなかった。「現実逃避」を楽しむには私は
「貧乏すぎた。」「貧乏すぎた」というのは文字どうりで、つまり、私には 当時そん
な時間的贅沢をする余裕がなかった。そして、話は前後するが、先に述べた
いくつかの試みによって現実的になる為の最初のステップとしての”きっかけ”を
得た後、私は、「動作」を実行した。「動作」とは何かというと、私は「STOP!!」と何
度も独り言した。あるいは alternative phrase として、 「Forget 'bout it!」というの
もあった。
何を馬鹿馬鹿しいことを言っているかと思われるかもしれない。まあ、この文章
自体がそもそも馬鹿馬鹿しいものであるから、私は無責任だが、どうすることも
できない。蛇足しておくと、そもそもこの文章自体も私の呼ぶところの「現実逃避」
の一部である。ただし、”この文章の現実逃避性”は私がこれまでに説明してきた
現実逃避とは、その程度に大きな差があって、”この文章の現実逃避性”は
「たまには人間暇潰しをするのも悪くない、我々はhumanityを完全に失わない
程度にキープする必要がある」といったものである。
脱線したが、"STOP!!"とは、「あることについて考えること/思いを馳せることを
完全に止める」という意味で言っている。10年前私にこの”STOP”が実行可能
である、ということを教えてくれた人間がいたが、私にはとても信じられなかった。
あるいは”信じたくなかった”のかもしれない。私は、とにかく、それを ”本気”で
は実行してみなかった。その理由は先にも述べたように、私は苦しみをどこか
で楽しんでいたからであり、さらにその”余裕”もあったから、だと 思う。
結論としては、この”STOP”は実行可能であった。私はこれによって大分時間
を節約することができた。そして短時間で苦しみから逃れることにも成功した。
私は敢えてここで、この続きをこの文章の下の方で続けることにする。
(2)
ここへ来るまでには、”過程”が存在する。THE SHEIK YERBOUTI TANGO を
耳をすまして、繰り返し繰り返し聴いた。これは私にはとてもできない 仕事だ。
私の器の遥か上を行く。そのひとつひとつのディティールは研ぎ 澄まされてい
て、何度聴いても聴き足りるということがない。
(2-1)
そして私は、その後 Shut Up `n Play Yer Guitar に移った。そして、 時間は流れ
ている。私はもう既に、THE SHEIK YERBOUTI TANGO を通り過ぎてしまった。
その後に、イタリアの山奥の寒そうな写真なのだ。つまり、私は、THE SHEIK
YERBOUTI TANGO の感覚を説明することがもうできない。それは通り過ぎてし
まったから。
(2-a)
私は、しかし、THE SHEIK YERBOUTI TANGO の感覚を記憶に留めておこという
努力をしただろうか?あるいは、ただ、今は Shut Up `n Play Yer Guitar が頭の
中で大音量で鳴っている為に、それに支配されていてその感覚を思い出すことが
できないだけなのかもしれない。
(3)
時間が流れてゆく。私は、項目(1)をまだ書き終えていない。それは早く 終わらせ
なければ、どこかへ行ってしまう。ちょうど、私がTHE SHEIK YERBOUTI TANGO
の感覚をもうすでに思い出せないように。
(2-b)
項目(3)を書きながら、その時、私は、Variation on the Carlos Santana Secret
Chord がちょうど頭に流れた時の感覚を書き留めようという計画を 立てた。という
のは、その感覚は、書き留めるという計画を立てるに値する ものであったからだ。
また、そのことを考えながら、時間は流れているから、 この項目(2-b)を書く前に、
項目(3)に行く必要があったのだ。ここで、私は、敢えて、Variation on the Carlos
Santana Secret Chord に戻ってみることにする。これは、Variation on the Carlos
Santana Secret Chord の感覚がもう一度蘇るかどうかの試みである。それでは、
どうぞ。
残念ながら、Variation on the Carlos Santana Secret Chord の感覚が蘇るかどう
かの試みは失敗に終わったようである。私の思考はもうすでに次の段階に移って
しまって、あるいは、Variation on the Carlos Santana Secret Chord の感覚を蘇ら
せるという試みそのものに、集中力を傾けるだけの興味を見出すことができなくな
ってしまった、という方が適切かもしれない。そうこう言いながらも、私は項目(1)の
ことを心配している。私は項目(1)はどうしても完結させなくてはならないような気が
するのだ。それは「完結」である必要はないかもしれないが、読者に理解可能なだ
けの最低限の説明を加える必要はある。今、ここで、Variation on the Carlos
Santana Secret Chord も終わり、私の集中力は目下私の両手(この文章をコン
ピュータで入力している)にフォーカスされているようだから、良いタイミングである
とも思われる。それでは、項目(1)に戻ることとしよう。(読者はこの文章を頭から
読んでゆくだろうから、その場合私とは決定的に時間的ずれを持つことになる。
補足情報として挙げておくと、私は最初の1行だけを書き終えている。改行する
必要はないが、敢えて改行して改めて書き続けることにしてみよう)
(4)
今、此所へ戻ってくることに決めたわけは、項目(1)にのめり込みすぎたからであっ
て、それ以降の項目の存在をほとんど忘れかけてしまったからでもある。しかし、
私はまだ項目(1)を完結させていない。私が項目(1)で言いたかったことは、まず、
くり返しになるが、意志の力によって「考えることを止めることができる」ということ
である。次に、私はこのことによる副作用を指摘せねばならない。考えることを止
めることは、生産的な日々を提供する。しかし、それと同時に考えることが不得意
になってゆく。更に考えることをしたくなくなってもくる。そして「考えていたこと」は
脳の深い場所に格納され、容易には取り出せないようになる。真人間になること
の引き換えに、触覚を失う。考えることを止めるということは、もちろん、最終的
には「何故生きているのか」ということを考えることを止めることである。
さて、ここで最初のテーマに戻ろう。私は1時間程前、”瞬間的”に「何故生きている
のかわかった。」そして、私が「考えることを止める」生活をしているが故に、私は
「何故生きているのかわかった」をもう次の瞬間にも取り出すことができない。以
前、一度ある種の薬物がこれに非常に似た体験を私にもたらしたことがあった。
「次から次へと考えが浮かび、そのひとつひとつの考えはとても美しく、素敵に見え
るのだが、それらのひとつひとつの考えを1秒たりとも留めて置くことができない。
それは花火のように、ぽっと現れ次の瞬間にはすうっとなくなってしまう。」ただし、
薬物による体験の場合は、ひとつひとつの考えは素敵に思えるものの、それがど
う素敵なのかはわからないし、またそれは「全然重要なことではない」のであった。
ところが、私が1時間程前に「悟った」その「何故生きているのかわかった。」は全
然質が違う。そしてそれはとても”重要”なものなのだ。何故なら、私はそれを思い
出すことができないにしても、「ここしばらくは生きてゆくことができる」だけの十分
な「動機」を私の肉体に植え付けたからである。その時間的長さはわからない。
1時間かもしれないし、10日かもしれないし、10年かもしれない。というのは、私は
「何故生きているのかわかった」を取り出すことができないから、その体験自体も
すぐに忘れてしまうだろうし、先に述べたように、私に与えられたもの「動機」であ
って、「理由」や「説明」ではないからだ。
私はきっとまた、遠くない内に「何故生きているのかわかった」が必要になる。それ
を再現しようとして、先ほど私がそこにたどり着いた過程を繰り返そうとしてもそれ
は不可能である。何故なら、時間、気温、その時の気分、などの全ての条件を再
現するのは不可能だから。それらは流動的なものである。しかし、ここに流動的で
ない、固定したものが存在する。それは、録音された、THE SHEIK YERBOUTI
TANGO ないし、Shut Up `n Play Yer Guitar である。これらが物理的に不変の物と
して存在する以上、私はこれらに「きっかけ」を委ねることができる可能性がある。
そして、「完璧により近いもの」ほど、それが流動的な要素を超えて多くの状況下
で「きっかけ」となるポテンシャルを持っている。