集会
その時ぼくは10歳であった。その夜はとても暑かった。ぼくは6畳間で弟
と布団を並べて眠っていた。それは深夜であったことは間違えない。暑苦しさ
を感じ、ぼくはふと目を覚ました。気がつくと汗びっしょりであった。頭の後
ろでは扇風機が音もなくクビを振りながらゆるい風を送っている。開け放った
窓からはひんやりと気持ちの良い風も吹きこんできていた。だんだんと暗闇に
も目が慣れてきて、左に寝ているはずの弟の方を見てみる。薄い掛け物は乱れ、
そしてそこには誰も寝ていなかった。きっと便所にでもいったのだろうと思い、
しばらく寝巻きを半分はだけさせ、汗に濡れた体を外窓から吹きこむ心地の良
い風にあてていた。10分ほどもそうしていただろうか。汗は完全に引き、少
し肌寒さも感じてきた。しかし弟はまだ戻ってこない。一体どうしたんだろう、
腹の調子でも悪いのだろうか?と思っていると、突然ぼく自身が強い尿意を感
じ、そしてそれは我慢できないほどであった。立ち上がり、便所へ向かう。家
中どこにも電灯はついていなくて、ちょっと恐かったが暗闇に目が慣れたのと、
窓からの月明かりで家の中はそれほど真っ暗でもない。便所の扉の前にたどり
つくと、その横の曇りガラスは真っ暗で中に誰も入っている様子は感じられな
かった。ちょっと恐かったが扉の左の壁にある電灯のスイッチに手を伸ばし、
カチッと押すと、電灯が点いたのがその曇りガラスからわかる。もうがまんで
きないほどだったので思い切って扉を開けると、その中には誰も入なかった。
用を済ませ扉を閉め電灯を消す。一体弟は何所へいったのだろう。悪夢でも見
て目が覚め、恐くなって親のところへ行って一緒に寝ているのだろうか。そん
なことを考えながら、寝室への再び戻ると、やはり弟のいるはずの布団はもぬ
けの空であった。ぼくは自分の布団に横たわり、掛け物に身体をくるませ心地
よい涼しさを味わっていた。庭にある竹の枝が風でカサカサと音を立てている。
その音を聞いているのもまた涼しさを感じてとても気持ち良かった。その時、
どこからか囁き声と人の歩く音がかすかに聞こえてきた。耳をすますとそれは
風呂場のあるべき方からだ。何故かしらちょっと恐くなって、目をつむり、寝
たふりをしながら、しかし、神経は耳に集中した。こちらへと人が歩いてくる。
それも何人も!そしてぼくの寝ている寝室へ一人静かに入ってきた。そしてそ
の人はぼくの左の布団に横たわったようだ…ぼくは息をこらえ、起きているこ
とを悟られないようにじっとしていた。すると、その左の布団からはすーすー
という聞きなれた寝息の音が聞こえてきた。あたかも自然に寝返りを打つよう
にゆっくりと左の方へ身体を向け、細目をこらしてみると、そこには弟がいつ
ものように寝るのであった。一体何所へ行っていたんだろうと思いながら弟の
寝顔を見ているうちに自分にも眠気がやってきて、しらない内に眠ってしまっ
た。
翌朝起きると、いつもと変わらない生活があった。学校へ行き、そして帰っ
てきた。弟に昨晩はどこへ行ってたのかと聞いてみると、何所へも行ってない、
という。ぼく自身もその頃には大してそのことに興味もなくなっていたので、
それ以上何も聞かなかった。
その夜、ぼくはまた深夜にふと目を覚ました。左の布団を見ると、またそこ
には弟はいなかった。どこへ行ったんだろうと思いながらも、しばらくは横に
なっていたが、どうにもはっきり目が覚めてしまって寝つけなかった。なんと
なく尿意も感じたので、床から起き上がり便所へと向かう。昨日と同じだ。便
所には誰もいない。電灯を消し、寝室へ戻ろうと振り返ると、ぼくの視線の先
には薄明かりが見える。それは風呂場だ。風呂場の電灯を点けている、その明
かりではなく、もっと薄い、しかし電灯の明かりだ。そしてその時、そこから
人の歩いてくる音が聞こえてきた。ぼくは何故か、そこにいてはまずいと思い、
音を立てないように、しかし急いで寝室に向かい、床に横たわり寝たふりをし
た。弟が寝室に入ってきた。その方向を見ずともそれは弟に間違えなかった。
そして2分もすると、安らかな寝息が聞こえてきた。一体何所へ行っていたの
だろうと考えているうちにぼくも眠りに落ちていった。
翌夜、またぼくは目を覚ました。そして弟はまたいない。床から起き上がり、
風呂場へと通じる廊下に行ってみる。昨晩と同じだ。風呂場の方に何か薄い明
かりが見える。そしてその時、またそこから人が静かに静かに歩いてくる音が
聞こえてきた。見つからないように急いで自分の布団に戻り、また寝たふりを
する。弟が戻ってきてまたすぐに眠りについた。昨晩と一緒だった。
翌朝、ぼくははっきりとこの数日の夜のことを覚えていたが、どうしても弟
に問いただすことができなかった。そして、いつもと同じように学校へ行き、
また帰って来て、夜になった。その夜はとても寝つけなかった。弟は眠ってい
るようであったがぼくはじっと目をつぶり、この2,3日何が起こっているの
かを色々想像していた。そのうち、弟が音も無く起き上がった。ぼくはなんと
なく恐くて、声をかけることができず、そのまま寝たふりをしていた。弟は寝
室を出て行った。ぼくも起き上がり、弟の後をつけてみることにした。悟られ
ないように、音を立てず立ち上がり、ゆっくりと暗闇の中を風呂場の方へ向か
って歩いていこうとしたその矢先、その廊下へと通じる別の襖がスッと開いて
ぼくの両親が出てきた。びっくりしたが、ぼくはさっと自分の身を隠すことが
できた。なぜ隠れたのかはわからない。しかし、何故か見つかってはいけない、
と思ったのだ。ぼくの両親も弟と同じように風呂場の方へ向かって歩いていっ
ているようだった。両親の姿が完全に風呂場の中に消えてから、ぼくも風呂場
へと向かって歩いていった。風呂場は、洗濯機や洗面台のある脱衣室と、その
更に右隣に風呂場がある。その脱衣室へ入ると、洗面台の左隣に見なれない隙
間がある。ちょうど、部屋の隅の角にあたるところに隙間があり、そこから薄
い明かりが漏れている。その先に何かあるのだ。その部屋の角、すなわち壁と
壁が交わっている隅、何もないはずのところの先に空間がある。その空間から
明かりが漏れているのだ。ちょっと壁を押してみる。と、壁は扉のように動く
ではないか。そしてその先の空間が見える。それは廊下であった。その廊下に
は誰もいない。ぼくは恐怖でその廊下にどうしても踏み込むことができない。
どうしよう。しかし、今その廊下への入り口、すなわち壁は50センチほど向
こう側へ行ってしまって、その中がすっかり見えてしまっている。ぼくはすっ
かり恐くなって、この扉、すなわち壁を閉めなくてはいけないと思った。それ
は壁なのでなんの取手も何もない。しかし、実際その壁は扉のようになってい
てその厚みは3センチくらいであった。手をのばし、それを手前に向かって引
っ張ってみた。壁は重かったが、手前へとゆっくり動いた。手をはさまないよ
うに、最初と同じ薄明かりがそこから見える程度まで手前へと引っ張った。も
う一度その隙間から中を覗いてみる。その廊下は5メートルほどでその後、右
へと直角に曲がっているようだ。その時その奥の方から人の歩いてくる音が聞
こえてきた。心臓が破裂しそうなほど速く動悸しているのを感じながら、急い
でぼくは寝室へと戻った。そして寝た振りをする。すると、しばらくして弟が
入ってきて、昨晩と同じように眠りに就くのであった。
次の日は学校でも頭の中がその廊下のことで一杯で何も手につかなかった。
学校が終わると、一目散で家に帰ってきた。家には母親がいて、いつもと変わ
らない様子である。弟はまだ帰って来ていないようであった。「おやつがある
から、手を洗ってきなさい」と母親に言われ、風呂場に向かう。一瞬その中へ
足を踏み入れるのに躊躇した。その廊下と脱衣場のちょうど境の所に立ち、昨
晩明かりの漏れてきた、壁と壁の交差している隅を見ると、それはただの角に
しか見えない。思い切って中に入り、目をこらしてその角を見てみる。ただ直
角に壁が交わっているだけだ。手で押してみた。何も動かない。思いきり押し
てみた。それは壁であった。とてもその交わりのところに隙間があるようには
見えない。いくら押してもそれはただの角でしかない。手を洗い、台所へ行く
とおやつがあり、母親はいつもと同じである。その隙間について聞くこともで
きなかった。その夜は昨晩、ほとんど眠れなかったので、深い眠りにつき何も
憶えていなかった。
翌晩、あの隙間のことが気になり、とても眠れなかった。やはり弟は深夜静
かに起き出していった。その日は恐くて何もできず、ずっと寝たふりをしてい
た。弟は戻ってくるとやはりいつものようにすぐに寝息を立てていた。きっと
弟だけでなく、両親もあの壁の先に行っているに違いない。しかしあの先には
一体何があるのだろう。どうにもいられなくなり、便所にいく振りをして、風
呂場の方に行ってみることにした。ところが、風呂場の方に薄明かりは見えな
い。まったくの闇である。どきどきしながらもそこへ音を立てないように近づ
いて行ってみた。何の気配もない。思い切って、脱衣場の電灯をつけてみた。
壁はただの壁であり、隙間などなにも見えなかった。昼間みたときと同じであ
った。その時、両親の寝室から音が聞こえたので、急いで電気を消し、自分の
床にこっそりと戻った。どうやら父親が便所に用を足しに行ったようであった。
色々なことを考えているうちに眠ってしまった。
さらに翌晩、今日は勇気を振り絞り、その廊下へ踏み込んでみることを決心
した。寝た振りをし、じっとしていると、やはり弟は起き上がり、風呂場の方
へ向かって行った。後をつけると、やはりその途中で両親も風呂場の方へと向
かって行くのがわかった。すでに薄明かりは漏れていた。見つからないように
身体を隠し、顔だけをその風呂場の方へ出し、弟と両親がその隙間へゆくのを
見ている。やはり、それは扉のようになっていて、一瞬大きく開き弟と両親が
その中へ入っていった。その時その隙間の中の明かりがこちらまで漏れてきて、
便所の扉を一瞬照らした。すぐに、その隙間はまた狭く閉められ、また薄明か
りが見えるだけになった。恐怖で心臓は破裂しそうなくらい速く動悸していた。
しかし意を決死、脱衣場へと向かう。やはりその壁は今扉のようになっていて
押すと奥へと動き、その奥には廊下が通じているのだった。ゆっくりとその壁
を自分の身体が通れるくらいの幅まで押し開け、その中に踏み込んだ。何の音
も聞こえない。ただの廊下だ。その壁はそのまま開いたまま、その廊下を進ん
でみる。やはり、5メートルくらい進んだ先で右に曲がっている。右の壁に身
体をぴったりつけ、顔だけ出して、その先を見てみる。その先はまた5メート
ルくらい前に続いた後行き止まりになっていた。しかし、ちょうど4メートル
くらい進んだ左の壁に扉のようなものがある。小さい扉だ。大人は屈みこまな
いと入れないくらいの扉。そこには取手もついている。意を決しその扉までの
前まで行ってみた。耳を凝らすとその扉の向こう側から誰かの声が聞こえる。
それに応じてたくさんの人の声が、一斉に応えている。教会のお祈りのような
様子だ。その扉の前にしゃがみこんで、取手を握り、ゆっくりとゆっくりと音
がしないように、ほんの少しだけ開けてみた。そしてその中を覗いてみる。そ
こにはなんと家の近所の人全員がいるのであった。大人も子供も。そして礼拝
のようなことをやっている。中は広い部屋で、たくさんの長椅子があり、みん
なそこにすわり、そして前を見て、なにか祈りのようなことをしているのであ
った。誰れかが一番前で皆に向かって喋っている。それが誰かかはその細い隙
間からは確認できなかった。そして今、皆は何かを一斉に食べ始めた…小さい
パンのように見える。なんだかはよくわからない。その後皆は一斉に立ち上が
り、また祈りのようなことをやっている。あ!突然皆がこちらの扉に向かって
来た。ぼくは飛びあがるようにしてその廊下をもと来た方へと走り、脱衣場へ
と出て、その隙間の壁を引き戻し、寝室へと戻り、掛け物に頭からくるまって
寝たふりをした。心臓がものすごい速さで動悸している。一体あれは何なのだ。
しばらくすると弟が戻り、すぐにいつもと同じように寝息を立てはじめた。一
体あれは何なのだ。どうして僕以外の皆があそこにいるのか。皆はあそこで一
体何をやっているのか。頭の中がぐるぐる回っていた。何が何だかさっぱりわ
からなかった。しかし、ふと気がつくと朝になっていた。眠ったようだった。
誰かにこのことを話たかった、聞きたかった。しかし何故か誰にも聞くこと
ができなかった。少なくとも、家の近所の人は皆あそこに毎日行っているのだ。
近所の友達までが…どうして僕はあそこに行かなくていいのだろう。一日その
ことで頭が一杯であった。
それから2,3日もうあの扉の中へ行ってみようとは思わなかったが、やは
り弟や両親はそこへ行っているようであった。翌午後、どうにもいられなくな
って母親に聞いてみることにした。「どうして僕は夜あそこへ行かなくていい
の?」母親は不思議そうな顔をして「あそこって何?」「夜、風呂場の壁の奥
から大きな部屋へ皆で行って何かしてるでしょ?」「あんた何の話をしている
の?さっさと宿題やっちゃいなさいよ。」その母親の表情を見る限りでは、本
当に何の話をしているのかわからないという感じだった。それ以上何も聞けず、
そしてまた夜はやってきた。もう頭の中は、あの集会のようなもののことで一
杯でとても眠るどころではなかった。そういえば、あれは深夜の一体何時頃な
のかもわからなかった。ようし、今日は時間を調べようと、ずっと寝たふりを
して待っていた。ところが2時になっても3時になっても、弟は隣で眠ったま
まである。結局時計が4時を打ったのまで憶えているが、その後眠ってしまっ
たようだった。そして、その日以降一週間くらい時間を調べようと夜ねばって
いたのだが、何時までたっても弟は眠ったままだった。5日くらい経った晩、
弟が起き上がったので、さあと思っていたらただ便所に行っただけであった。
その時、おまえ何所かにいかなくちゃいけないんじゃないかと聞いたが、それ
らしい答は得られず、また弟は眠りについてしまった。
二週間も経つと自分自身でもそのことの記憶自体が薄くなってきて、夢でも
見ていたんじゃないかと思うようになった。そして知らないうちにそのことは
すっかり忘れてしまった。
僕は成長し、21歳になり大学へ通い一人暮らしをしている。
僕は陸上短距離選手であった。ある日、僕は100M選手として大会に出場し
た。ピストルの音が鳴り響き、その瞬間僕は猛ダッシュする。僕の速さに並ん
でいるのはただ一人、隣のトラックを走っている選手だけだ。レース中盤、そ
の隣の選手と抜きつ抜かれつであったが、最終的に先にゴールラインを通過し
たのは、明らかに僕であった。僕は写真判定の結果など確認することなく、優
勝を自覚する。ところが、その大会に来ている聴衆は2位の隣の選手に猛然と
拍手喝さいを送っている。僕は少し混乱する。一体どういうことだ?しかし冷
静になって、結果発表のアナウンスを待つことにする。すると、隣のトラック
を走っていた2位であるはずの選手が1位で、僕は2位だという。どういうこ
とだ?!僕は仲間やコーチのところに行って、これはどういうことだとまくし
立てた。ところが仲間やコーチは、僕を称えているではないか。鼻の差ひとつ
で1位は逃したが、よくやった、と。違う、俺は一番先にゴールラインを通過
したのだ!俺が優勝したのだ!僕は何が起こっているのかわからず混乱してい
るが、どうにも納得ゆかない。俺は反則でも犯したのか?僕はコーチや仲間の
賛辞振り切って、大会本部へ向かった。興奮しながら一体どういうことなのか、
と大会運営者に迫る。俺は一体反則でも犯したのか。しかし、大会運営者は僕
が何を言ってるのかまったく的を得ていない様子だ。そうだ、レースはビデオ
でも収録されているはずだ、それを見せてくれと。コイツは何を言っているの
だ、という顔をされながらも、僕のレースのビデオを見せてくれた。僕は明ら
かに一番先にゴールラインを通過している。そして見たところ別になにも反則
行為も犯していない。それ見ろ!これは何かの間違えだ。訂正してくれ!俺が
1位なのだ!しかし大会運営者は取り合ってくれない。僕は、僕の抗議に嫌な
顔を見せている大会運営者をモニターの前まで引っ張り、彼にそのレースのビ
デオをよく見るように強いる。ほら、どう見ても俺が1番じゃないか。そして
何も反則行為も犯していない。なのにどうして俺は2番ということになってい
るのだ、と。大会運営者は僕の主張していることが、まったく理解できないと
いう顔をしながら、僕に言った。「私にはどう見ても僕が2位にしか見えない
んですけれど」その顔には、まるで僕の頭がおかしいんじゃないか、といった
疑念の表情までが見える。僕はまったく混乱してしまった。どういうことだ?
何故俺が1位じゃないのか。どう見ても俺が一番だろう…何が起こっているん
だ??僕は仲間とコーチのところに戻り、大会運営者とのやり取りを説明する。
さっきまで僕に賛辞を送っていた仲間は、突然僕に向かって変な顔をするでは
ないか。まったく僕が何を言ってるのかわからないという様子である。そうこ
うしている間に表彰の時間がやってきた。僕は仲間に早く表彰台のところに行
けと促され、混乱したまま向かう。なんと、真中の一番高い台、すなわち1位
のところにはもうすでに、僕の隣を走っていた男が悠然と立ち、両腕を天に向
かって仰ぎ、聴衆の喝采を受けている…そして3位のところにもすでに、3位
であるべきはずの男が立ち、2位の台のみが空っぽである。僕はまったく納得
のゆかないまま、しかしどうにもできなくて2位の台に立ち、そして2位のメ
ダルをもらった…僕は何が起こってるのかまったく理解できずに、しかし誰と
も口を利く気にもなれず、仲間やコーチともろくに会話をせず、一人で家に帰
った。一体何が起こっているんだ??俺が何をやった?俺はおかしいのか?僕
は自分の部屋のなかで一人ぶつぶつと憤慨しながらも、知らないうちに眠って
しまった…目が覚めた時には翌日の昼過ぎになっていた。今日はとある陸上雑
誌の発売日で昨日のレースがそこに特集されているはずである。僕は早速最寄
りの本屋へと向かった。まっすぐスポーツ誌のコーナーへと向かい、その陸上
雑誌を見つける。そこには昨日のレースの記事がたしかに特集されていた。写
真も載っている。その写真はゴールラインを突っ切る瞬間を撮影したものだ。
その写真をみると、やはり僕が1番でゴールラインを突っ切ってるではないか。
一瞬ほっとする。やはり俺が1位なのだ。そしてその記事を読む。なんと、そ
こには僕は鼻の差で2位と書いてある…どういうことだ?僕は混乱を隠せずに
も、とりあえずその雑誌を家でじっくり読むことに決めて、レジへと向かった。
財布から700円ちょうど取り出し、レジの女性に雑誌と共に渡した。「すい
ません。あと100円足りないんですが…」は?「これ700円ですよね?」
「そうです。」「僕は700円渡しましたよね?」「ええ、ですからあと10
0円足りないんです」「え?これは700円で、僕は700円渡しましたよね?」
「ええ、ですからあと100円足りないんです」「あの、すいませんけど、こ
れは700円で、僕は700円渡したでしょう。」「ええ、確かに。ですから
あと100円足りないと申し上げているのです。」そのレジの女性はちょっと
うんざり、という顔をしているではないか。僕が後ろを振り返ると、5,6人
のほかの客が早くしてくれよ、といった顔をしながら並んでいる。僕はまた混
乱したまま、しかし、もう100円余分にレジの女性に払ったのだった。「あ
りがとうございます。」そのレジの女性は、この人頭がおかしいんじゃないか
しら、というかのような顔を僕にして、その雑誌を紙袋に入れて僕に渡した。
僕はやり場の無い、そして自分自身で理解のできない怒りを感じながら、それ
と同時にまったく混乱していた。昨日の夕方から今日の昼まで何も食べていな
いので非常に空腹であった。行きつけの定食屋に向かった。ちょうど昼時とい
うこともあり、その定食屋はとても込み合っていた。これからしばらく大会も
ないので、今日は何も気にせず好きなものを食べることができる。僕は刺身定
食を注文した。ところが、およそ4分後に僕の目の前に出されたものはカレー
ライスである。僕は大分苛立ちながらも、ウェイターを呼び、刺身定食を注文
したことを言った。そのウェイターは、僕が刺身定食を注文したから、これを
持ってきたのだ、という。「これはカレーライスでしょ?俺は刺身定食を注文
したんだけど」「だから刺身定食を注文したんですよね?だからこれを持って
きたんですよ。」そのウェイターはこの忙しい時にこいつは何を言ってるんだ
とでもいうような表情だ。「俺は、刺身、と言ったんだよ!これはカレーライ
スだろ!」「刺身と言ったからこれを持ってきたんですよ!」「これは刺身じ
ゃなくて、カレーだろう!」ウェイターはまったく僕の言うことを的を得てい
ない。僕は突然不安になってきた。俺はおかしくなっちまったのだろうか?昨
日のレースといい、この雑誌といい、このカレーライスといい、一体何が起こ
っているのだ?そのウェイターは僕の前でいい加減にしてくれよ、というよう
な顔をしている…僕は混乱しながらも、そのウェイターに詫び、これでいい、
と言った。ウェイターはいい加減してくれよな、と小声で捨てセリフを残しな
がら、他の客の注文を取りに行った。そのカレーライスは食べてみても、れっ
きとしたカレーライスであった。もはや空腹などどこかへ行ってしまったが、
そのカレーライスを食べた。熱でもあるんじゃないかと思い、自分で自分の額
に手を当ててみたが、何も感じない。体調も悪くない。カレーライスを食べな
がら、僕は自分に向かって心の中で冷静になれ、と繰り返した。昼食を終え、
その定食屋を出る。ちょっと喉が乾いていたので、缶ジュースでも買うことに
した。硬貨投入口に120円投入し、ウーロン茶のボタンを押す。しかし、何
も起こらない。あれ?と思いもう一度ボタンを押す。しかしやはり何も起こら
ない。良く見ると、そのウーロン茶のボタンは点灯していない。しかし、投入
金額の表示窓には120円、と表示され、ウーロン茶のボタンのところにも、
確かに120円と書いてある。少し苛立ちながらも、喉の乾きはますます激し
くなってきたので、試しにもう10円投入してみた。すると、そのウーロン茶
のボタンのとこが点灯するではないか!そして、金額の表示窓は…これは12
0円のままである…まったく何が起こっているのかわからないままにも、僕は
ウーロン茶のボタンを押す。ガチャッという音がして、取り出し口に缶が落ち
る。それを取り出そうとする前に一瞬ためらった。本当にウーロン茶がでてく
るのだろうか?ぜんぜん別のものが出て来たりしないか?しかし、取り出し口
の中にあったのは確かにウーロン茶であった。わけもわからぬままに、とりあ
えずほっとして、そのウーロン茶の缶を取り出し、プルタブを引き、乾いた喉
をうるわした。僕は混乱していた。もはや怒りはなく、いいようのない不安に
取り巻かれていた。とりあえず家に帰ることにした。その陸上雑誌を袋から取
り出し、改めて注意深くレースの写真を見てみる。やはりどう見ても、1番で
ゴールラインを突っ切っているのは僕である。そして、記事を読むと、なぜか
僕は健闘したが鼻の差で2位と書いてある。どうしても理解できなかった。俺
は夢でも見ているのか?馬鹿々々しいと思いつつも自分の右頬を思いきりツネ
ってみる。痛みを感じる。いや、痛みを感じたからといってこれが夢ではない
という保証はない。しかしどう考えてみても自分が夢の中にいるような感じは
自分自身感じられなかった。