はっと思った時には、もう手遅れだった。
岡崎文蔵の身体は、鞍から振り落とされ、野川の土手に落下をはじめていた。
その瞬間、
「受け身を取らなくては・・・」という思いはあった。
が、両手を前に突き出す間もなく、彼の上体は土手にたたきつけられていた。
「カッ・・」と、額に刺すような痛みを感じて、身を起こすと、吹きだした血が
目に入った。
「いかぬ・・・」
おかしな話だが、その瞬間文蔵の脳裏に浮かんだのは、明後日に予定されている
主君手直しの事をどうするかで、己の怪我への心配ではなかった。
向こう傷を負って、殿の前には出られない。
馬は彼を振り落としたなり、どこかへ駆け去っていた。
ともかく、剣術お手直し役たるもの、額から血を流しているところを人に見られ
るわけには行かない。
彼は、片袖を引きちぎると、急場の頭巾にかぶり、辻々に身を隠すようにして、
屋敷へ駆け戻った。
「おやまぁ、どうなされました・・・」
下僕の嘉助が、おろおろと叫んだ。
「お顔が血だらけでございますよ。」
「赤目に鞍から振り落とされたのだ。
幸い人にはみられておらぬ。
湯をわかしてくれ・・」
嘉助は下女のお崎と二人で、お産に使えるほども湯を沸かした。
傷のまわりを洗い流してみると、額の中央辺りが、先代萩の仁木弾正紛いに、2
寸ばかり裂けている。
さほど深い傷ではないが、痕が残らぬほどに浅いともいえない。
「いかぬわ・・・」
傷の程がわかったところで、文蔵は湯の入った桶も、手鏡も放り出してしまった。
「もうわしは終わりだ。
面(おもて)にこんな傷をつけて、何の剣術お手直し役か・・・
剣の心は、不慮にそなえる事にあるというに、たかが馬に振り落とされただけで
このざまとは・・・」
「そのような事をおっしゃるものではございません。」
嘉助が蛤の殻から、膏薬を指先にすくいとって、文蔵の傷に丁寧につけた。
お崎がさらしを細く裂いているのは、包帯にするつもりであろう。
血はもうほとんど止まっていて、鼻筋へ溢れてくることもない。
「済まぬが、目付けの加藤殿のところへ行って、わしがにわかに大病を患ったの
で、明後日のお手直しは出来かねると伝えてくれぬか。
今手紙を書く・・・」
「大病をでございますか、」
「そうだ・・・
おこり(マラリア)ということにしよう。
それがよい・・・
決して、落馬の事を漏らしてはならぬぞ。」
「それにしても、妙でございますねぇ・・・」
嘉助が使いに出た後、お崎が包帯を巻きながら首を傾げた。
「赤目はふだんあんなに大人しい馬なのに、旦那様を振り落とすなんて。」
「虻だ・・・」と、文蔵がため息のように云った。
「時期外れの大きな虻が、何を思ったか、あれの耳に飛び込んだ。
俺は、虻がぶんぶんと飛び回っているのをみて、馬の耳にでも飛び込むとまずい
なと、心の隅では思ったのだ。
だが、結局虫を追い払うためには、何もせなんだ。
剣術者として失格だな・・・」
「そんな、旦那様は、江戸の中西道場で本目録を・・・」
「中西で本目録をとろうが、なんだろうが失格なのだ。
やはり、由利老人の云ったことは正しかった・・・」
由利笑兵衛は、先代から仕える竹岡藩もう一人のお手直し役である。
一万石を僅かに越えた程度の小藩が、二人も剣術お手直し役を置くのは、いささ
か分に過ぎる。
にもかかわらず藩主の憲聡が、笑兵衛を差し置いて文蔵を手直し役につけたのは、
先代の威徳一辺倒の重臣どもに、すこしでも抵抗したいという、若い藩主の思いが
あったからだ。
笑兵衛が修めているのは、安弘流という古流派で、主君たりとも、木刀をもって
容赦なく叩きふせる。
そのことも、憲聡には我慢がならなかった。
藩士の中で手筋のいい岡崎文蔵を選んで、わざわざ江戸の中西忠太道場へ剣を学
びに行かせたのも、そのためだ。
中西一派刀流は、今江戸で一つのブームを巻き起こしている。
理由は、竹刀に、面、小手、胴などといった防具の積極的使用にある。
現代では、剣道の練習にはつきものの、これらの防具を使った稽古も、当時は斬
新きわまる練習法であり、剣術界にも賛否の両論があった。
古流派の推進者である笑兵衛は、無論批判する側だ。
その、中西派にわざわざ文蔵を学びにやらせたのは、半ばあてつけだったろう。
ともあれ、江戸へ出た文蔵はめきめき腕をあげ、3年後、藩へ戻ったときには、
笑兵衛を凌ぐ技量を身につけていた。
殿の前の試合で、文蔵に小手を取られたさい、笑兵衛は潔くお手直し役を降りよ
うとした。
が、笑兵衛の負けを見てりゅういんが下がったのか、このところ彼を邪険にしつ
づけた事への引け目からか、憲聡は二人ともにお手直し役を務めるように言い渡し
た。
それからはや5年の歳月が経っている。
笑兵衛は、稽古の付け方は厳しいが、ざっかけのない人柄で、勝負の事を根にも
つでもなく、度々文蔵を訪ねて、談笑していった。
その際、一つだけ文蔵の心にしこりのように残った会話がある。
「おのしは、もはやわしよりよほど出来る。
だが、一つだけ気になる事がある。
アンポウ家(防具を使って練習する剣術者を当時そう呼んだ。)の傾向なのかも
しれんが、剣が速すぎる。」
そう笑兵衛は云うのである。
「ほう剣がですか・・・」
(中西派から出て先頃一派を立てられた千葉周作殿も、
『それ剣は俊速・・・』と云っている。
速い方がいいではないか・・・)
そう考えて、文蔵はにこにこと聞き返した。
「おのしは、にこにこ笑っておるが、それが恐い。
剣客になるとは、つまるところ、のばえの獣、例えば狼になることよ。
剣を速くすることではない。
竹刀で打ち合うときはそれもよい。
だが、闇打ちにおうたり、もっと云うなら、ふいに雷に打たれたとき、剣の速さ
など役にはたたん・・・」
「雷に打たれたら、狼でも助からないでしょう・・・」
「それがちごう。
獣は、はじめから雷の落ちそうな所へはちかよらん。
匂いでそれが判るからじゃ。
いざと云うとき、身体が動くように我らは業を磨く。
だが、本当にいざという時には、身体は案外に動いてはくれぬものだ。
切羽詰まるような場を、匂いで察して踏み込まぬのが、よい剣客というもの。
剣を速くするより、鼻をもっと磨きなされ。」
今にして、老人の言葉が心に響く。
対持した相手が打ち込んでくる来る剣は、いかに速くともその軌道が計算できる。
それゆえ、間合いを外す事も、切り返す事もできる。
虻が耳に飛び込んだ時の、馬の反応は、打ち込んでくる剣ほどはやくはなかった。
それでも、文蔵はその急に応じきれなかった。
要は、洞察力の問題なのだ。
文蔵は、対持した剣士の切先の動きはよく洞察する。
そして、巧妙にその先をとる。
だが、虻の動きも、それが耳に飛び込んださいの馬の動きも、ある程度予測でき
たはずなのに、何も策を講じなかった。
洞察力が竹刀をとっての試合でしか発揮できなければ、実生活に役立つ剣とはい
えぬだろう。
老人の云いたかったのは、そこなのだ。
文蔵は、剣を取って道場へ入ると、己の防具を据え物のように両断した。
「もうアンポウは止めた。
これからは、古流派と同じく、木刀による型専一の稽古に専念しよう・・・」
お崎に言いつけて深編笠を買ってきてもらい、昼食もとらずに、裏門から屋敷を
出る。
目指すは笑兵衛の屋敷である。
老人の前に土下座して、改めて安弘流の教えを請うつもりだ。
由利笑兵衛は、関ヶ原以来の馬廻り役の家柄だが、屋敷は存外に小さい。
屋敷裏は、竹垣で申し訳程度に囲いがしてあるだけだ。
外れかかった、枝折り戸を抜けて、前裁へまわると、老人は縁側で猫を膝へ載せ
て日向ぼっこをしていた。
ぽかぽかと初冬の日差しに照らされ、猫も老人も至極気持ち良げにみえる。
文蔵がよほど近くへ寄ったところで、ようやく猫が、続いてその主が目をあけた。
「おや、岡崎さんか、どうなすった。
この季節に、笠など被って・・・」
「実は・・・」と、云いかけて、文蔵は声を失った。
笑兵衛の額に、文蔵自身のそれとそっくりな切り傷がある。
「いったい、その傷はどうなされたのです、」
訊ねる声が思わず震えた。
「いやさ・・・」
笑兵衛が面目なげに笑った。
「わしがあまり構わぬもので、家が所々痛んでおってな。
みっともない話だが、昨夜雪隠に行く途中、廊下の板を踏み抜いて、柱にぶつけ
たのだ。
まったく、剣術お手直しが聞いて呆れる。
これも、普段型稽古と理屈ばかりをこね回して、身体の鍛錬が不十分だからじゃ
ろうて・・・
少しおのしのアンポウを教えてもらって、鍛えなおした方が良いかもしれぬよ。」
半ば隠居の身の気楽さからだろうか、文蔵にとっては棍棒で殴打されたにも等し い言葉を、老人はすらすらと話すのである。
「ところで、今日は何の御用かな・・・」
「いや、剣の上で、少しご相談致したきことがあったのですが、今日はお具合も優
れられぬご様子・・・
また、日を改めて伺います。」
笠も脱がず、逃げるように笑兵衛の屋敷を辞したあと、文蔵は途方にくれて抜ける
ような青空を見上げた。
「京の鼠に江戸の鼠か・・・」
くっくっと、笑みの混じった言葉が、その口から漏れたのは、小半刻もたってから
だ。
「仕方もない・・・
額の傷に付いては、何とか理由をつけることにして、明後日はお手直しに出よう。
しかし、なんとごまかしたものか・・・」
烏が
「アホー・・」と鳴きながら、妙に明るい表情になった彼の頭上を飛びすぎていっ
た。
1996,1,3,T.Hayashi
© 1996 林 友彦
RZF08260@pcvan.or.jp
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