インターネットを使ってはいますが、私 自身は日本のホームページを検索する事はほとんどありません。ほとんとアメリ カのものです。なぜなら、アメリカのもののほうが、みていて楽しいし、とて も、役にたつし、立派なものだからです。日本にいながら、スミソニアンの博物 館をおとずれたり、なつかしい、NYの美術館をひらくのはとても楽しいです。 それに、豊富で美しい写真はほんとうにうれしいのです。

e−mailで、いろんなかたちに、いろんなことをきいてみたいとおもいます が、たとえば、アメリカの学校のこと、(日本の学校制度について、大いなる疑 問をもっていますので)子供たちのことなど。座談会?のようなものがあるので しょうか?わたしも、コンピューターに詳しくはないのですが、海外とやすくコ ミニュケードできることは活気敵だとおもいます。(しかし、日本の電話代はた かくて、もっとやすくすべきだとおもいますけれど) 子供の英語の学習にしても、実際にこういうことででも、英語圏の情報や人々と 接するということでじかにふれたほうが、とてもいいとおもいます。もちろん子 供にかぎらず大人にとっても同じでしょう。

それから、仲人を必要とするということ、たしかに、そんなことがあるかもしれ ませんが、私のようにどうしたらいいのかと思ってる人はおおいとおもいます。 たしかに、初対面でも、気軽にはなすというのは、アメリカにすむひとたちの魅 力ですが、でも、その場限りはそうであっても、なかなか友好がそこから発展す るということはむつかしいのでは? 日本人の友人でe−MAILできるひとたちもいるのですが、日本人同士でも、 あまり音信はありません。英語を必要とするひとたちとは、なかなかということ になるかも。しかし、そうでない人もおおいはずです。(あんなに日本人は海外 好きなのですから)



日本人もメール楽しんでます。 ただし日本語でね。

東京の私は、夫(二人とも仕事が忙しいので)、 宝塚の妹、妹の娘、そのボーイフレンド、 仕事で知り合った青年(あったことはない)、 従姉たち、その他、と随時メールのやりとり。 おしゃべりはもちろん、面白い本の紹介や、 政治に対する意見や、芸術論、歴史観、 ほんとにそれぞれ面白い。

さて、英語のメールについてですが、 私自身は、「お茶にしますか?」くらいの 日常の会話は、英語でも何とかなります。 留学生のお母さん役もしてきました。 海外生活の経験はないけど、海外旅行なら 学生の時のホームステイ以来、個人旅行も何度かしています。 英語の電話も、まあ、なんとかこなします。 だけど、はるばる届く英語の手紙はまだしも、 こっちが辞書引き引き仕事の合間に、 3日もかかってやっと書いた英語のメール、 送ったとたんにピューッと英語で帰ってくるの。 ちょっと「助けてえ」って気分です。 だから、今の所、英語のメールはお断り。

だいたい、英語圏の方って、皆さん、英語が当たり前って お顔なさってるでしょ? 日本人とつきあっても、 日本人が英語を話さないのがどうのこうのって、すぐお説教なさったり。 日本にいるなら日本語も少しは勉強してよね! と言いたくなるときも ございます。と言いつつ、私はいつも、駅で困っている 外国の方には、たいてい英語でご案内、致しますけれど。 (少しかじったインドネシア語、フランス語の方は、使わなかったら すっかり忘れてしまった! 残念。もう役に立ちません)

でもね、本当はもっと英語が使えるといいな、とは思っています。 30年前のホームステイしたアメリカのご家族とは、 未だにおつきあいしています。この前は孫娘さんの 結婚式にフロリダまで行きましたし、もう一つの別のご家族の お母様の家と息子さんの家、両方に泊めて頂いたり。

英語の翻訳ソフトのいいのができたら、きっと、彼らと メールのやりとりを始めるだろうなと思います。 外資系のコンサルタント会社に勤める息子は、私よりは、 英語を書くのも、気を重くしないで書いているようです。 もっとも毎日、人間語よりも、 コンピュータ語の方を多用しているようですが。

私の英語とメールの関係はこんなところ。 余りご参考にはならないと思いますけれど。 そうそう、私の年齢は51歳、女性、会社員。



私の場合、インターネットで海外の友達を作りたいと思っ ていました。でも、英語で手紙を書くのが苦手で、また、コンピューターでのやりと りは、相手が見えないので少し怖い気がします。ですが、あなたの記事を見て、一度 メールを送ってみようかなと思いました。



20年近く前に、立命館大学を卒業し、以後、ずっと 愛知県内の小学校に勤めています。

小学校でも、コンピュータを教えるようになり、「40の手習い」では ありませんが、自分でもパソコンを買い、インターネットを始めました。 始めてみると、本当にものすごい道具だと思うようになりました。 わたしは、あなたのように、日本以外の国の人とは、メールの交換は ありませんが、外国のホームページを開いたりすると、 世界とつながっているのだという実感はあります。 わたしたち教員は、他の学校の先生と共同で仕事を進めることが 多くあるのですが、わざわざ出張して顔をあわせたり、電話で相手を よびだしたりしなくても、メールをだせばすむようなことは、結構あるのです。 しかし、メールアドレスを持っているのは1人だけ。

  わたしの学校では、まだインターネットはできません。文部省には、 全国の学校をインターネットでつなぐ計画があるようですが、1日も 早く実施してほしいものです。これから、学校では自分で調べて 課題を解決するという活動がますます盛んになっていきます。 インターネットで必要な情報を探し出すことは、子どもたちには、ぜひ つけたい技能だと思っています。

コラムにもありましたが、メールを通しての交流も教育の場でこれから ますます盛んにおこなわれるでしょう。たいへんではありますが、本当に 楽しいことだと思っています。コンピュータは、学校教育を変える可能性が あると思います。



私、熊本県在住の26歳主婦です。インターネットの活用が日本において上手く生かされていないということでしたが、確かにその通りだと思っています。

ただ、日本においてはまだインターネットの個人使用率がアメリカに比べると低いの ではないでしょうか。それ故にごく限られた人の間でだけのメール交換で終わってし まい、そのことが逆に広がり(world wideな)を持つことの妨げになっているのでは ないでしょうか。

英語コンプレックスの強い日本人のために日本語のソフトも充実していて、ネット検 索さえもすべて日本語で出来るようになっています。そのことが逆に日本人を日本の ネットの中に閉じこめてしまっているのではないかと考えます。

ところで私のことですが、世界の人々と知り合うことには強い関心があります。 しかし、市民レベルで世界の人と話をすること自体が難しく、知り合うためには商業 的な組織を利用するか、正体不明の国際交流クラブに参加するしか方法がないのでは ないでしょうか。



私も留学経験があるのですが、「社交性」ということについて一言。

確かに日本人の方が初対面の人に対して物怖じしやすいかも知れません。 でも、それは一人の人間としてではなく、「日本人」という括弧とじで相手の方を見 ていませんか? 私は何人だからどうという考え方は、過程と結論を反対に順序で見ているからではな いかと思います。 つまり、「こうであるはずだ」という結論を前提にして物事を見ていて、 ある事柄についても「やっぱりこうだから」というように見ているのではないかと思 います。

ちょっと、日本語で字図らで説明するには難しいことを書いてしまってごめんなさ い。

これに関連したことで、 アメリカ人の友人に私が質問したことに対しての答えが目から鱗でした。 「アメリカ人はどんなお酒を飲むの?」 「そんな、ひとくくりに出来ないよ、ビールを飲む人もいれば、ワインを飲む人もい るよ。人それぞれだよ。」

だから、ある一集団の人を見て「日本は・・・」という判断はして欲しくないです。 結局は「フジヤマ、ゲイシャ」の認識から変わっていないと思います。



英語は完ぺきでなくても通じるものだ’と書かれていましたが、以前読んだ新聞記事 でも、共通語の英語の中で、世界で一番多用されているのは、AMERICAN ENGLISH でも QUEEN'S ENGLISH でもなく、BROKEN ENGLISH であるということで、日本人特有の アクセントも恥じることはないとその筆者は語っていましたが、現実はご指摘の通 り、日本人の内気な性格が災いしています。私自身、1985年に渡米し、ノースキャロライナに1年、フロリダに2年在住した経験があり非常にジョークが好きで、陽気で、初対面でもさりげなく会話ができるアメリカ人社会をとてもうらやましく思いました。 一度、日本を離れ、外から見れば、自分の国である日本のことが、よくわかります が、島国である故、孤立しており、近隣のアジア諸国でさえ、外国・外国人として大きな 壁があるようです。

仕事の関係で、香港・シンガポールからお客様が来られる事があるのですが、まだ まだ、英語表示が少なく、外国の観光客を温かく受け入れる国でないのが、残念で す。また、日本人は、海外旅行が好きな人は多いが、異民族、異文化に関心を抱いて 外国へ行く人は少ないように思います。

日本において、電子メールは、今のところ、ビジネスの上で、電話・ファックスに代 わる、コストの安い通信手段であるという認識程度ではないでしょうか?



私は、パソコンを始めてまだ半年という主婦です。主人の仕事の関 係で2年ほどアメリカにいたこともあり(ただし、英語はほとんどカタコト)、その 時、いろいろな国の人と話す楽しさをほんの少し味わい、また、口の先まででかか って話せない苛立ち、など、貴重な体験をしました。帰国してからは、もう行く機 会もたぶんない外国、英語を使う必要もなくなり、どんどん狭い日本の生活にどっ ぷりつかっている現在です。自宅にいながらインターネットで海外の人とメール交 換してみたら楽しいだろうな、という思いはあるのですが、どんな風に始めたらい いのか、正直、とまどいがあります。いろんなメールフレンド募集のホームページ があり、中には、悪質なものもあると聞くと、なんとなく、無謀にメールをだすの が恐い気がします。慎重な日本人、きっとそんな思いの人も多いのでは、と思いま す。もし、安全に、また、まじめにメール交換できる方がいれば、トライしてみた いと思っています。



8年前まで京都に住んでいました。 その頃は、(観光都市でしたから)外国人を見るのは珍しくも ありませんでしたが、埼玉の田舎に住むようになって 「遭遇する」と言う言葉が似合うほど、ほとんど見かけなくなりました。

最近になり英会話、と言うより外国人と接触することに 関心が向いてきましたが 過ぎてみて、自分の置かれていた状況がいかに恵まれていたかと 思い知りました。ここでは友達になりたくても、話し掛けてみたくても 相手がいない。 たまに忙しそうに歩いている外国人を見かけても、いきなり "How areyou?"とか"Where are you from?" と話し掛けてもあとが続かない。(ヒアリングに自信がない)

英会話学校も結構値段が高いしね。



私は、19歳の女の子です。私が、電子mailを書くのはまだこれで2回目です。まだmailこうかんの楽しさを味わっていないのにほです。日本人の英語に対する苦手意識について書いていらっしゃいましたが、わたしも英語がしゃべれない日本人です。でも嫌いなわけではありません。私も、内気で人と話すのが苦手です。私の場合は、日本人に対しても、外国人に対してもあまりうまくしゃべれないので、特にえ。そして私ももまた、内気でおしゃべりが苦手です。 ちなみに、私は、コ-ヒ-も苦手です。きれいでおいしいみずがおいしい水が大好きです。



日本でのインターネットの普及はアメリカには遅れていますが急速に進んでいま す。私はインターネットの他に、パソコン通信もやっていますが、そこでは活発 な議論をしています。



私自身も含めて日本人はもっとインターネットを有効に使えるのに使っていないと思います。でも、 今後この機械自身が「仲人」となって、全く知らない人と交流が持てるようになるの は、素敵な事なのでどんどん積極的に使おうとしています。

きっと何百というメールが届いて大変だと思いますが、それだけ日本にも社 交的な人がいるという事ですよね。



私は、関西学院大学・総合政策学部4回生です。

本日の朝日新聞・日曜版「地球通信」に掲載された記事に感銘し、私なりの意見を少 し述べたいと思い、僭越ながらメールを打った次第です。また、貴方が私が通った大 学に在籍され、(ちなみに私は94年・産業社会学部卒です)また御歳も私と余り変 わらないと伺ったので、さらに親近感が沸いたことも理由です。

さて、本日の記事で貴方が述べられたご意見について、基本的に同感です。私も衣笠 キャンパスに通っていた頃、国際交流サークルを立ち上げ、ハワイ大学の学生と定期 的に意見交換やホームステイなどを運営していたとき、向こうの学生達のストレート な意見の応酬や気さくさに、最初は面食らったものです。しかし、同時に「その姿勢 が日本人には出しにくく、我々が国際交流を行う上での課題の一つなのかな?」とも 感じました。ましてや、これからは、インターネットなどの通信技術によって、距離 などの物理的障害を瞬時に超えて、世界中に多量かつ無作為な交流が行える時代に突 入するのですから、「内気」な性格によって自己を抑制していては、ますます孤立と 誤解を生み出すかも知れません。

ただ、この「内気」による自己の抑制は、同時に私たち日本人が国際社会に出て行く 際の「メリット」にはなりはすまいか?、とも考えるのです。今日の貴方の記事が 載った同じ日曜版に、貴方の国の著名な建築家であるF,L,ライトの事が書かれて ありましたが、彼はNYなどの高層建築がもつ近代建築の「周囲への主張」より、障 子などで仕切られ、周囲の自然との「調和」をもつ日本建築に随分引かれていたよう です。我々がもつ「内気さ」とは、周囲への配慮に視点を置き、内と外との「あいま いさ」によって形成されてきた歴史にあると、私は考えます。 では、日本人は全く人間関係を「あいまい」なものとして考えていたかといえば、そ うではなく、例えば谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」という書物で書院造りの「光と影」の コントラストや「お勝手」というその家屋の住人のみが出入りする入り口を挙げて述 べているように、あいまいな中にも外との区別をつけていたようです。「和して同ぜ ず」という言葉がありますが、建築の歴史一つをみても、日本人がどのように人間関 係を考えてきたのか分かります。つまり、「外部は受け入れながら、かつ自己を保持 する」というアイデアなのだと思うのです。

この人間関係は確かに「メリハリをつけてものを言う」国際社会には溶け込みにくい でしょう、瞬時には・・・。ただ、インターネットなどの情報社会がもたらす「グ ローバリゼーション」とボーダレスな社会関係は、その情報量や質が均質な社会を生 み出し、反動として「リージョナリゼーション」という自己主張する動きをもたらす とも言われます。M,Ignicheffという文化人類学者が"Needs of Stranger"という本 の中で、「均質化した人間関係の集団内では、各個人が他者との差異を主張するもの である」と述べていますが、今、世界で起こっている紛争などの対立は、「グローバ ル」と「リージョナル」の関係を物語るものだと思います。このような中で、「和し て同ぜず」というスタンスは、無用な抗争を避ける人間関係として適応できると考え ます。今、私が所属するゼミの教官のご友人であり、Conflict Resolutionの研究と 実践において世界的権威である、立命館大客員教授のJ,ガルトゥング氏が、「その 民族的性格と国際社会の立場からみて、世界で紛争解決のMediatorとしてふさわしい と思うのは日本人である」と私の教官に語ったことがあるそうですが、なんとか、こ の「内気」で他人との調和を好む人間が、国際社会で役立つ方法はないのか、と思う のは、私だけでしょうか?

とはいえ、今、日本人も「情報化社会への適応」と「NOと言える人間」をめざして 頑張っているようです。先日、私が調べた記事では、次回の学習指導要領案では、文 部省が21世紀初頭までに、全国の小・中・高にインターネット授業を行う計画です し、私の家庭教師先の生徒は、社会の授業にディスカッションを行っているそうで す。しかし、今、インターネットなどを指導する教員が不足してますし、ディスカッ ションなどの授業も、ほんの数回やれば、受験対策に戻ってしまうそうです。これ は、先の事を考えず「世間との調和が大事」とやみくもに取り入れようとする日本人 の欠点なのでしょうか?

少々論点がずれたかもしれません。わかりにくいところがあれば、是非質問してくだ さい。これを機会にお付き合いできれば幸いです。私は、初対面の人でも、このよう にメールや直接お会いしたりするのは平気なほうです。「日本人らしく」ないと言わ れます。

私も貴方の国に留学したいと考えている身として、貴方のような方をみると勇気づけ られます。それが外国語の上達につながるとなお良いのですが・・・。



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