「12/24」
今日で最後だと分かっているなら、こんなに楽なことはない。
もう、次の約束や突然の電話に慌てることも、緊張で眠れぬ夜を過ごすことも無くなる。不安に怯えることさえこれで終わるなら。
華やかなイルミネーションに彩られるクリスマスに終わる茶番。1年、長くもどかしい日々がこれで終わりを告げる。解放だけが、そこに待っているはずなのに。
先程まで二人分の体重を支えていたベットのしわになったシーツに身を沈めて、明りを消したホテルの部屋から見える夜景をぼんやりと眺めて煙草に火を付ける。けだるい身体に紫煙を吸い込むと、苦さばかりがまとわりつく。
無駄なことばかりだ。クリスマスプライスだとかで値をつり上げられたイブの夜に幾日も前から作り置きされた食事をとり、一夜だけの幻に沈む。それでも、今夜この部屋に泊る権利があるのはちゃんとした恋人たちだ。そう主張したら「ちゃんとしたって何だ」と10も年上の男にハナで笑われた。
現実の状況が茶番だからこそ男二人でこんな場所にいるのは悪趣味だ。
「ちゃんとした」とか「本物」にこだわってしまうのは後ろめたいところがあるからだと分かっていて、それを見透かされるのが怖くて居心地の悪いベットの上でも平気な振りをしてる。笑ってしまう程健気な愚かさ。幸福であるはずの晩に、痛みだけを感じる。
バスルームから聞こえるかすかな水音が、遊戯のタイムリミットを刻む様に響く。
そもそも300万の指輪をプレゼントにするような奴が悪い。
昨年の12月、あれはまだクリスマスの10日以上も前だった。雨が降り出しそうな寒い夜、バイトに向かうはずの俺と恋人へのプレゼントを受け取りに行った帰りの彼。そこに無理な追い越し運転をするトラックが突っ込んでさえこなければ、俺達はただ道の上で擦れ違うだけの関係だったはずなのに。狭い橋の上で車を避けようと彼にぶつかって、俺の携帯と彼の鞄はあっけなく闇く冷たい水面へと飲み込まれた。
そしてその後指輪の賠償を迫られた俺は、始めたばかりのホストまがいのバイトの仕事道具だった携帯を失くして返す金のあてがあるわけもなく、指輪紛失により彼の婚約は流れ、それなら返済金額分だけ好きにさせる条件で彼に身体を売って。
契約終了の1年が過ぎようとしている今夜、待ち望んだはずの最後の日は、妙に冷たく僕に訪れる。
扉の開く音がして、その元凶がバスルームから出てくる。そのタイミングを狙って僕は言葉をぶつけた。
「エロジジイ」
僕の劣等感を刺激してやまない均整のとれた立派な体格と精悍な顔だち。婚約一つ破談になろうと群がる女は山ほど居るだろう地位。今になってみれば分かる。300万の指輪なんて失くしたところで、ためらいもなく新しいものを買える経済力。はじめから失した事実なんて無視して何事もないようにやりすごせたはずなのに、そのことを理由にとりなす周囲を振り切ってただ自分が乗り気でない結婚を蹴っただけだ。
「利己主義者」
ベットから見上げる顔は苦笑混じりに歪んでいる。
「機嫌が悪いな」
赤ん坊をあやすような声でベットの端に腰を降ろす。ああだからそうやって子供扱いして誤魔化そうとするそのやり方が。完全に気に喰わない。
「30オヤジに完全に手玉に取られて貴重な一年を潰した青少年の苦悩なんて、あんたは想像もしないんだろうな」
自分の滑稽さに涙がこぼれそうになるのを、シーツを握った指先睨みつけて誤魔化す。自分が何を言い出しているのか分からなくなる。これじゃあまるで、未練がまく捨てられまいとしてるような。
シガレットケースから取り出した煙草をくわえる慣れた手つき。宥めるように頬をたどる指を払い除ける。
「大嫌いだ。あんたなんか」
「…俺はまだ29だが?」
「こっちは未成年だよっ」
懲りずに髪をなでる掌。1ミリでも身体を動かしたら泣き出しそうな衝動に駆られて、はねつけられない。
「プレゼントをやるよ。好きなものを一つ」
突然言い出した彼を凝視する。今まで300万をかたに要求をされることはあっても、こんな甘い言葉を掛けられたことはない。不審をありありと顔に浮かべてしまったのか男が苦笑する。
「未成年なんだろ。子供はプレゼントをもらう権利があるからな」
「…フェラーリとかベンツとか?」
欲しくもない高価な車の名を並べてみる。
「そんなものが欲しいならな」
穏やかな声。最後の夜ゆえの気紛れなのか。そう思っても心臓の音がやけに大きく響いていく。
自覚する度に怖かった。この人の体温に慣らされて、それが心地よくて一人では立てなくなってしまうことが。
何度も肌を合わせるうち、次第に理由に縛られていることが僕を安心させていった。「契約」が終わるまでは絶対の別れが訪れることはないと。
「…聞いてもいい?」
「珍しいな。何でもどうぞ?」
訊ねた声が掠れかかったのが気に障ったけど、男はなんでもない様子で促した。なんだか少し、面白がっているようでもある。
禁じられていた訳ではないのに、雑談ですら僕が彼の私的な生活に関する質問をすることは滅多に無かった。踏み込むことを拒まれ事より、踏み込むことが怖かった。
「なんであっさり、婚約解消したの?」
1年前の夜、川へと落ちた指輪は、男がその年のクリスマスに婚約者にプロポーズの言葉と共に贈るはずのものだったと聞いた。高価なその品も婚約者の家柄に合わせた文句のない縁談だったという。あれは事故だったのだから指輪など買い直して事実を伏せておけば何も問題もなかったはずなのに、彼は強引に婚約をぶち壊した。
「…本当のことが聞きたいのか?」
気まずそうに目をそらして彼が言う。僕は勿論、その疑問を肯定した。
「婚約者より、お前の方が美人だったからだ」
早口で耳を素通りするように告げられた台詞に二の句が告げなくなる。
「は?」
僕は呆然と聞き返した。
「冗談、だろ?」
頬が熱くなるのを感じながら問い返す。嘘であって欲しい感情とは裏腹に笑いがこみあげそうになる。その言葉の意味を、邪推してしまいそうになる。
「…悪かったな、面食いで。これでも結構苦悩の連続だったんだぞ、奇麗なのは顔だけのおこちゃまを一年もつなぎとめておくのは」
「馬鹿だね」
「お前のせいだ」
勢い良く起されて抱きしめられる。洗いたての石鹸の香りが気持ちいい。
「…指輪、買ってくれるかな。あんたが去年誰かにあげ損ねたヤツ」
耳元で囁くと、呆れた目が僕を見つめる。
「手切れ金代わりに」
続けた言葉を口唇に塞がれ、息が苦しくなるまで深く口づけられて早まる鼓動が耳に煩い。
「お前には、あんな大きなダイヤの指輪なんて似合わないよ」
「そう?…でも、他には思いつかない」
「好きなだけ考えればいい。そうすれば、その間お前を独占出来る」
くらくらしそうな程、甘い言葉。
「それなら多分、ずっと決まらない」
きっと、この暖かい腕を自分からは失えない。
END
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