「12月31日」

 

 

両親は揃って旅行に出掛け、大学生の弟は年明けに提出のレポートの為、今年は帰ってこないという。その知らせに俺は密かに安堵しながら迎えた今年最後の日。
もうあと数十分で年も明ける。友人の誘いも、そうひどくはない風邪を理由に断わって一人テレビを付ける気にもならず、ぼんやりと暇を持て余し煙草に火を付ける。
世間の騒がしさとは切り離されたかのように、冷えた静寂が身を包む。
…静かだ。
こんな時間はどれくらいぶりだろうか。
仕事に忙殺されて帰宅もままならない日頃の生活を振り返って息をつく。身体が日々の忙しさに慣らされてしまって、することがないと落ち着かない。休みが取れたらあれもこれもとプランはあったはずなのに、いざ時間が取れてみるとどれも途端に色褪せて見えて、する気にならない。
大掃除と称して一年分の書類や手紙などを整理して、時間が取れずに放っておいたパソコンに手を加えたらとたんに静かになってしまった。
リビングで一人夕食を取り、眠る気にもならなず仕方なく部屋の机の脇に積み上げた未読の本の山でも消化しようかと立ち上がったところで、玄関から物音が聞こえた。
さっと緊張に身がこわばる。様子を見に行こうかどうしようかと迷っていると、軽い足音と共に聞き慣れた声が響いた。
「ただいま」
そう言って顔を覗かせたのは4つ年下の弟だった。
「…尚?」
「レポート書き上げて速攻で帰ってきたんだ。一人の正月も淋しいしね」
屈託の無い笑顔で見つめられるその視線を居心地悪く逸らして立ち上がる。
「…お帰り。俺、部屋に戻るから」
何年も前に自分の身長を追い越してくれた弟の傍を通り抜けようとして、腕を捕まれる。
「久しぶりに会う弟と茶を飲む余裕くらいあるだろ。…座って」
有無をいわさぬ強い視線に見下ろされて、仕方無く腰掛ける。尚は上着も脱がないままでヤカンを火にかける。
その背中を見つめていると、随分遠くに思える。その背にすがりついた晩を思い出して、恥ずかしさにいたたまれなくなる。
今年の夏、一度だけ酔いに任せて身体を重ねた。離れて暮していることもあり、お互い今までそれには一言も触れること無く過ごしてきたけれど。
「明日になったらあの事、無かったことにする気だっただろう。だから、年越しして時効にされる前に帰ってきた」
尚が目の前に立っていた。
明日は元旦。全てが、新しく始まる日だ。当然、去年あったことなどは忘却の彼方。
強く抱きしめられてキスをされる。奪うように深いキス。
口唇を離しても間近にある真剣な目。
「…風邪、移るぞ」
「…いつも、そんなことしか言わないよね」
諦めたように耳元に囁く、声が。
「あの時もそうだった。朝、目が覚めてあんた開口一番に言ったこと覚えてる?ごみの日だって言ったんだよごみの日。その後有無をいわさず叩き出されて。俺はごみの日に負けたのかって泣いたよ?」
早口につぶやく。
「…不幸だな」
「どうせあの時の事だって酒飲みすぎて前後不覚の事故だからとかなんとか思ってるんだろ」
「…その方がお互いの為だよ」
聞き分けの無い弟を諭す兄の言葉で腕をはがそうと試みて、明確になる力の違いにため息をつく。
「忘れた方がいい。…兄弟、なんだから」
「そんなんじゃ嫌だよ。俺は」
好きな人には好きとしか言えない。心は偽らない。そんなまっすぐな気性はずっと昔から知ってるけれど。…我がままにも随分と振り回された。
「一度だけ、我がまま聞いてやっただろう」
あの夏の晩、流されたのは酒の勢いにだけじゃなかった。それを全部相手のせいにして俺は言う。兄貴のプライドにかけても本心なんて見せない。
「あんなんじゃ全然足りない。もう一度、したいって言わせるまでは離さない」
貪欲な男の顔になって、尚の手が性急に俺の服を剥ぐ。抵抗はほとんど、形にはならない。
「ばかっ。火!!ヤカン噴いてるぞっ」
目の端に蒸気を上げるヤカンが映って慌てて声を上げる。湯の沸く音が部屋に響く。なのに尚は面白がるように視線を上げてこう訊ねた。
「だから?」
「止めろ。お前と心中する気なんかないからな」
出来る限り冷静な声で告げる。ここで焦っても相手のペースに巻き込まれるだけなのは経験上十分熟知している。
「…OK。じゃあ続きは後で」
すっと巻きついた腕から力が抜け、尚が立ち上がる。その隙に腕時計の時間を確認して火を止めるその後ろ姿に向かって俺は息を飲む。
「尚。現在0時5分、あけましておめでとう。つまり時効成立だな。過ぎた去年のことは全て忘れて新しい年の始まりだ。と言う事で良い年を。俺は寝る」
それだけ言って逃げるように部屋へ上がる。内側から鍵をかけてやっとほっとため息をつく。
そう簡単に、弟になんて落ちてやる訳にはいかないのだ。年長者のプライドとして。
明日のことは考えずに、今は早く眠ってしまおう。

END

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